第三十話 最初の一件
倉の床の山は、半月で目に見えて低くなった。朝いちばんに扉を開けると、埃の匂いに、インクの匂いが少し混じるようになっている。読み終えた綴りは壁際へ移り、紐の色で三種に分けられる。裁き直せるもの。そうでないもの。刻と控えを照らせば白黒のつくもの。三つ目の束がいちばん細いけれど、半月前には、この束は存在すらしなかった。
朝のうちに、いちばん若い男が椅子を鳴らして立った。何も言わずにこちらへ来て、机に紙を二枚並べる。市場の升の検めの記録と、粉挽き小屋の受け渡しの控え。日付が同じで、名が同じで、刻が合わない。わたくしは二枚を三度照らして、頷いた。男は息を吐いて、自分の机へ戻っていった。戻る途中で一度、拳を小さく握ったのを、老人が見て、見なかった顔をした。
この半月で覚えたことがある。四人は、わたくしの前で問いを口にしない。代わりに紙を持ってくる。わたくしも、答えを言わない。代わりに頷くか、首を振るか、指で行を差す。言葉の少ない倉だけれど、不自由をした日はまだ一度もなかった。
老人が、その綴りの背に赤い蝋で印を落とす。この印も、半月前には存在しなかった。誰が決めたのでもない。老人がある朝、勝手に押し始めて、それで決まりになった。決まりというものは、ここでは、こんなふうに生まれるらしい。
窓の光が机の三本目の脚に届く頃、扉が開いて、冷えた風と一緒に閣下が入ってきた。
*
「見つかった」
前置きは、なかった。
南の湖沼地で、炭を焼いて暮らしているという。あの火事の男。村を出されて三年、名を半分変えて、それでも荷受けの控えには、律儀に印を押させていたそうだ。紙に強くされた男が、紙を捨てていなかった。
「評議で決めた。この一件で、最初の開き直しを試す」
倉の中の音が止まった。赤ら顔の男の手から、頁が一枚落ちて、床で乾いた音を立てた。
「手続きは」
と、痩せた男。
「ない。だから、作りながらやる。誰が申し立て、誰が調べ直し、どこで読み上げるか。この一件で決めたことが、次の一件の決まりになる」
閣下は机の間を歩いて、壁際の細い束の前で足を止めた。紐に指を掛けて、すぐ離す。
「古い裁きは、そのままにしておきたい方々もいる。神様の決めたことを人が覆すのか、と。……覆すのではない。人が決めたことを、人が確かめ直すだけだ。その最初の一件に――」
閣下がこちらを向いた。
「読む人として、立ってもらいたい」
倉の中は、静かなままだった。窓の光の筋に、埃が漂っている。四人が、こちらを見ないようにしながら、耳だけをこちらへ向けているのが分かる。
「立ちますわ」
声が、勘定より先に出た。
いつもなら、先に数える。立った場合と、立たない場合。得るものと、失うもの。相手の思惑と、逃げ道の数。この二月、わたくしはそうやって生き延びてきた。その手順を、いま、声が置き去りにした。机に指を突いて、遅れて数え始めた勘定は、もう返事の後ろを歩くしかない。歩かせながら、指先だけが妙に静かで、震えるべき場面のはずなのに、爪の先まで凪いでいた。この凪ぎの出どころを、わたくしはまだ、帳面のどの欄に書けばいいか知らない。
閣下は、少しだけ黙った。それから、分かった、とだけ言った。細かいことは追って知らせる、と扉のほうへ歩きかけて、足を止める。
「言っておくが、最初の一件は、いちばん硬い」
作りながらやる、の意味を、その一言が補って、閣下は出ていった。扉が閉まる。倉の中で、四人がこちらを見ていた。老人が、机を二度叩いた。歓迎のときと、同じ叩き方だった。
*
館へ帰る道は、もう覚えた。市場はもう店じまいで、板を打ちつける音がする。粉屋の軒に、冬囲いの藁が積んであった。橋の上で立ち止まると、鐘楼の向こうに足場の影が見える。柱は、七本になっていた。石が一本ぶん、どこかから届いたらしい。屋根は、まだない。欄干に置いた手袋の下で、石の冷えが指まで届いた。
部屋で旅装の鞄を開けて、底から、紐で括った四冊を出した。王都の三年ぶんの帳面。最初の一冊を開くと、最初の頁の字は、いまより硬かった。行の間が詰まって、余白がない。書くことで、やっと立っていた頃の字。頁を繰らずに、閉じた。読み返すためのものではない。持ってきたのは、捨てないためだった。
その下から、お父様の講義録が出てくる。表紙に掌を置いて、ふと、指が止まった。紙の質が、似ている。この半月、倉で毎日めくっている綴りの紙と、同じ漉き方の、同じ目の粗さ。古い紙はどれも似るものかしら。それだけのことにして、四冊と一緒に、鞄へ戻した。
*
夕食の席で、アンナに今日のことを話した。
話す、と決めてから話したのではない。皿が並んで、湯気の向こうに顔があって、口が勝手に始めていた。炭焼きの男のことから、開き直しのことまで。その場にわたくしが立つ、というところで、アンナの匙が止まった。
「じゃあ、その人、帰ってこられるんですか」
「まだ、分からない。最初だから、途中で止まるかもしれない」
「でも、お嬢様が読むんですよね」
アンナは、それで済んだという顔で、芋の皿をこちらへ押した。この国の芋は水気が多くて頼りない、というのが半月かけたこの子の結論で、それでも毎日、市場で選んで買ってくる。頼りない芋を、二人で食べた。
食べ終わる頃、アンナが思い出したように言った。倉の若い方が、市場でわたしに頭を下げたんです、と。お嬢様によろしくって。頭を下げられる筋の話ではないのだけれど、この子は少し得意そうで、皿を重ねる手つきが軽かった。
二月前、わたくしは広間で、一人だった。皿を挟んで誰かとその日の話をする夜が来ることを、あの晩のわたくしに教えても、たぶん、帳面の隅にも書かなかったはず。数えられないものは、書けなかったから。いまは、数えられないまま書く行が、頁ごとに少しずつ増えている。
*
夜、卓に灯りを置いて、新しい帳面を開いた。頁は、まだ最初の何枚かしか埋まっていない。アンナが選んだ帳面は頁数が多いから、埋め終わる頃には、この国の景色も少しは変わっているかもしれない。ペンにインクを含ませて、今日の行を書く。
――二月と半。最初の一件、受けた。
短い。それでいい。長く書きたい夜ほど、短く書く。あの三年で覚えたうちで、いちばん役に立っている癖だった。
書き終えて、窓辺へ寄った。階下で、アンナが水を使う音がしている。夜の街に、灯りの柱が並んでいる。誰も火を点けて回らないのに、橋の袂から順に、一本ずつ点いていく。点き終わるまで、窓枠に手を置いて見ていた。
明日も倉へ行く。綴りを読む。それから、この国の最初の一件が始まる。読み上げる場所には、まだ屋根がない。冬までに載るのだと、あの人は言っていた。
降るなら、雪より先に、屋根。
窓の外で、最後の一本が点いた。
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