第三十一話 一枚目の決まり
評議からの沙汰は、紙一枚だった。
朝いちばんに若い男が城から受け取ってきて、倉の机の真ん中に置いた。上等な白い紙に、短い文がふたつ。あの火事の一件で、最初の開き直しを試みる。仔細は追って定める。署名がひとつと、判がひとつ。五人で囲んで読み、読み終えて、それぞれの机へ戻った。仔細は、どこにも書かれていなかった。
誰が申し立てるのか。誰が調べ直すか。どこで読み上げるか。閣下の言っていた仔細とは、その全部のことで、その全部が白いままだった。追って、が来ないまま二日が過ぎた。二日のあいだに、赤ら顔の男は二度、沙汰の上に綴りを載せて隠した。目に入ると手が止まる、というのが言い分で、載せるたびに、老人が黙って退けた。綴りの山は今日も低くなる。低くなるほど、机の真ん中の一枚が目につく。読める字で書かれているのに、まだ何も読めない紙が、倉の真ん中に一枚。
三日目の昼、閣下が倉へ来た。朝から評議に詰めていたそうで、袖口のインクの染みが、前に見たときより増えている。
「申し立ての主で、止まっている」
評議の中の声を、閣下は短く並べた。評議が申し立てればよい、という声。それでは人が神の判を勝手に覆した形になる、という声。半々のまま、朝から動かないという。
わたくしは立って、壁際の細い束から、あの綴りを抜いた。火事の記録。頁を開いて、沙汰の紙の隣に置く。
「この綴りの中に、この方の字は一行もございませんの」
申し立ても、申し開きも、書かれているのは裁いた側の手ばかり。名前でさえ、他人の字で書かれている。焼けた納屋のことも、熱した鉄のことも、この人は一度も、自分の言葉で紙に残す場を持たされなかった。三年前に無かった場を、いちばん最初に渡すべき相手は、決まっているように思えた。
閣下は開いた頁を長く見て、沙汰の紙を畳んで懐へ入れた。夕刻に戻る、とだけ言って出ていく。扉が閉まると、赤ら顔の男が大きく息を吐いて、痩せた男に肘でつつかれていた。
夕刻、閣下は戻った。外套も脱がずに、机の真ん中へ新しい書き付けを置く。申し立ての主は、本人。それだけが、今日の評議で決まったすべてだった。それだけ、と読んで顔を上げると、倉の四人ぶんの息が、揃って少し緩んでいた。
*
決まってみると、次の白紙が現れた。
申し立ての紙、というものが、この国のどこにもない。訴えの書式なら商いの係争にいくつかあるけれど、一度決まった裁きを確かめ直してほしいと願い出る紙は、書式どころか、呼び名すらまだ持っていなかった。
わたくしは新しい紙を一枚もらって、机に広げた。ペンを持って、しばらく置いて、書いては線を引いた。裁きの誤りを訴える、と書きかけて、消す。誤りかどうかは、確かめる前には誰にも言えない。訴える、も消した。訴えの相手がいる言葉だから。残ったのは、確かめ直しを願う、という一行と、名の欄と、元の裁きの日付と場所の欄と、確かめてほしい事柄の欄と、署名の場所。それだけの、素っ気ない一枚。
素っ気ないくらいで、ちょうどいい。書ける言葉の少ない人ほど、この紙を使うことになるはずだから。
呼び名も要った。開き直しの願い、と隅に書いて、四人に見せる。痩せた男が口の中で二度読んで、頷いた。名が付くと、紙は急に、古くからあった顔をする。
痩せた男が写しを二部取った。老人が寄ってきて、いちばん下の余白に、あの赤い蝋の印を落とす。誰に頼まれたのでもない。押し終えると、老人は何も言わずに自分の机へ戻った。押された紙のほうが、押される前より、少し紙らしい顔をしていた。半月前にはこの世に無かった印が、いまはもう、これが無いと決まりに見えない。決まりというものは、そうやって、後ろから追いかけてくるらしい。
南へ誰が行くかは、決めるまでもなかった。若い男が、写しの一部を油紙に包み終えていた。包んでから、行かせてください、と言った。順番が逆だ、と赤ら顔の男が笑ったけれど、手を挙げる者は他にいない。
*
帰り際、閣下がもうひとつ紙が要る、と言った。
読む人とは何をする者か。それも、評議に紙で出しておきたいという。最初の一件が始まれば、わたくしの立場を問う声が必ず出る。問われてから答えるより、先に書いて貼っておくほうが安い。……道理だった。他人の立場は散々紙にしてきたのに、自分の立場を紙にするのは、これが最初になる。
夜、館の卓で書いた。読む人は、綴りと控えを読む。日付と、名と、刻を照らす。合わないところを書面にして差し出す。ここまでは、手が勝手に進んだ。この半月、毎日やってきたことを、やってきた順に書けばよかったから。
裁く者ではない、と続けようとして、ペンが止まった。
インクの先が、紙の上で乾いていく。裁く者ではない。その通りのはずで、その通りに書けばいいだけで、それなのに一画目が下りない。裁く、という字の形を、わたくしの手は、まだ別の場所で覚えている。人が人を、確かめもせずに裁く声の速さも。組んだ指を一度ほどいて、それから続きを書いた。裁く者ではない。読み、照らし、書いたものを差し出すまでを行う者。書き終えた行は、他の行と同じ顔で並んだ。並んでくれて、助かった。
*
夕食の席で、アンナが芋の皮を剥きながら訊いた。
「開き直しって、あれですか。間違ってました、って謝り直すことですか」
「謝るかどうかを、確かめてから決めることよ」
「じゃあ、確かめて、間違ってなかったら」
「間違っていなかった、という紙が残るわ。それも、あの方の三年には無かったものだから」
アンナはしばらく黙って皮を剥いて、それなら早いほうがいいですね、と言った。剥き終えた芋が、鍋の湯で鈍い音を立てる。早いほうがいい。難しい言い回しを全部取り払うと、たしかに、残るのはそれだけだった。
*
使いが発ったのは、翌朝だった。
朝は、息が白い。市場はまだ板戸を下ろしたままで、粉屋の軒の藁に、薄く霜が降りている。倉の前で、若い男が鞄の紐を締め直していた。中には油紙の包み。申し立ての紙の白いのと、評議の書き付けの写しと、路銀。南の湖沼地まで、馬を継いで四日か五日という話だった。帰り道は、署名がひとつ増えるぶん、たぶんもう少し重い。
老人が男の肩を二度叩いた。机にするのと、同じ叩き方で。男は一度だけこちらに頭を下げて、朝の人通りに混ざっていった。角を曲がるまで、荷の包みが背中で揺れているのが見えた。
倉に戻ると、机の真ん中は空になっていた。沙汰の紙は綴りの間へ、申し立ての紙は南へ。わたくしは自分の机について、今日のぶんの紐を解いた。頁を繰る。日付と、名と、刻。やることは昨日と変わらない。変わらないまま、倉の空気だけが、何かの始まる前の張り方をしていた。
夜、帳面に一行だけ書いた。
――申し立ての紙、成る。写し一部、南へ。
最初の一件は、まだ一行も始まっていない。始めるための紙が、ようやく一枚、できたところ。それでも紙は、もう歩き出している。わたくしより先に、あの男の足の速さで、南へ。
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