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第三十二話 印を押す手

 その男は、倉の敷居の外に立っていた。

 朝いちばん、扉を開けに出た痩せた男が、外を見たまま動かなくなった。旅装の男がひとり。その半歩後ろに、埃で上着の色が変わった、うちの若い男。使いが発って、今日で十一日目の朝だった。

 若い男の口上は短かった。窯場は湖沼の際で、着いた日は炭を出す日で、読んでもらえたのは翌る朝。読むだけ読んで、紙は窯場の板の上に置かれたままだったという。それでも三日目の朝、男のほうから、王都はどっちだ、と訊いてきたそうだ。

 男は、敷居をまたがなかった。倉の中の綴りの山を戸口から長く見て、それから、わたくしを見た。背は低く、肩の厚い男だった。外套から、炭の匂いがする。体つきに比べて、両の手だけが大きい。

「……あんたが、読む人か」

 声は低いというより、乾いていた。長く使っていない道具の音がした。中へ、と椅子を勧めても、男は動かない。敷居の線を、靴の先が越えない。若い男が何か言いかけて、老人が手で制した。急かすな、という手の形だった。

   *

 湯気が、先に敷居を越えた。

 アンナだった。若い男が館へ先触れに寄ったのを聞いて、誰に言われたのでもなく、鍋を提げてきたらしい。断りも入れずに倉の隅の火鉢へ掛けて、湯気が立つまで、黙って火の脇にいた。芋と、塩。この国の水気の多い芋を、あの子は皮ごと茹でる。皿に盛って、湯気ごと、戸口に近い樽の上へ置いた。どうぞ、も、ようこそ、も言わない。熱いうちに、とだけ言って、下がった。

 男は皿を見て、アンナを見て、それから敷居をまたいだ。樽の脇の空き箱に腰を下ろし、芋の皮を指の腹で剥き始める。塩は最初にひとつまみ、掌に取ってから使う。皿を汚さない、働く人の食べ方だった。大きな右手の、甲から指にかけて、皮の色がそこだけ違っていた。古い、治りきったあとの色。それでも剥く手つきは早い。炭を焼く人の手は、熱いものの扱いを知っている。

 食べ終わるまで、誰も何も訊かなかった。アンナは空いた皿を引き、塩の壺を置き直して、帰っていった。扉が閉まると、男の肩から、力がひとつ分だけ抜けた。

   *

 申し立ての紙は、机に広げてあった。文言の少ない、素っ気ない一枚。書き加えたものは何もない。飾れば飾るだけ、この人は遠くなる気がした。四人は自分の机で頁をめくっていて、めくる音の間隔だけが、いつもより少し長い。見ないでいてくれている。耳は、たぶん全部こちらにある。

 使いの口上によれば、湖沼地では読むだけ読んで、署名をしなかったという。それでも、王都までは来た。来て、いま、紙の前に座っている。名の欄の上で、男の目が止まったまま動かない。

「いまは、ヨルクと名乗っておいでとか」

「元の名の、尻尾だけだ」

 村を出るとき、前の半分は置いてきた。そういう言い方をした。それきり黙った。火鉢の炭が一度爆ぜても、男の目はそちらへ動かない。長い沈黙の底から、三年だ、と言った。

「いまさら紙が一枚できて、何が戻る」

 炭は売れている。客は名前ではなく炭を見て買う。村は覚えている。紙が変わっても、村は変わらない。男の言い分は短く、切れ切れで、そのぶんどこにも隙がなかった。話すあいだ、男は一度も村の名を口にしなかった。名を呼ばない、という呼び方があることを、わたくしはこの人の口から覚えた。

 全部、その通りだと思う。裁きは名を返せても、三年は返せない。窯も、客も、いまの暮らしも、この人が紙の外で、手だけで建て直したもの。それを置いて、覚えている村の見える場所まで、もう一度出てこいと言う紙に、どんな重さがあるだろう。

 断られた形だった。断られてから数えるはずの勘定を、わたくしはまだ数えていなかった。数えるより先に、手が壁際の束へ伸びていた。伸びた手の行き先を、頭があとから追いかける。三日前に読み直して、場所を覚えていた束。南の、荷受けの控え。紐は、刻と控えで白黒のつく側の色。解くのに爪が要る固さも、覚えていた。

 机に、一冊ずつ置いた。男の目の前に、順に、六冊。頁は開かない。表紙の隅の検めの印が見える向きで、ただ並べる。

「三年ぶん、ございますの」

 男の目が、束の上を一度往復した。

「あなたの荷を受けた側の控えですわ。荷を渡すたび、あなたは器械に紙を差し入れて、印を押させていらした。名を半分置いてきた方が、印のほうは、ひと月も欠かさずに」

 紙に焼かれた人が、紙を捨てていない。三年のあいだ、一度も。

「……癖だ」

「癖は、三年続きませんわ」

 男は黙った。黙って、右手の甲を左の掌で一度覆い、離した。それから、いちばん上の一冊を自分で取って、頁を開いた。自分の印を、指でなぞる。小さな四角。日と、刻。懐かしむ顔ではなかった。数える顔だった。押した夜の数を、荷の数を、たぶん、印より細かい何かの数を。

「あんた、これを全部読んだのか」

「三度。日付と、名と、刻を、同じ順で」

 男は綴りを閉じて、長く息を吐いた。吐き終わる前に、手がペンへ伸びていた。

「……どこに書く」

 名の欄を、指で差した。男はペンを取る前に、右手を上着の裾で二度拭いた。炭も泥もついていない手を、それでも拭く。ペンの持ち方は、ぎこちない。字は太く、線が波打って、それでも最後まで止まらなかった。ヨルク。尻尾だけの名前が、確かめ直しを願う紙に載った。書き終えた手が、ペンを置く場所を探して少し迷い、インク壺の脇に、そっと寝かせた。器械に差し入れる紙なら、迷わない手だった。

   *

 署名の乾くのを待って、老人が蝋を炙った。急がない手つきで、垂らす場所を先に決めてから、紙の隅に赤い蝋を落とす。冷えるまで、誰も紙に触らなかった。

 痩せた男が写しを取る。赤ら顔の男は、南の束を全部、自分の机へ移し始めた。調べ直しが、正式に始まった。誰も宣言はしなかったけれど、机の上の物の動きが、そう言っていた。

 ヨルクは、長居をしなかった。宿は若い男が世話をするという。戸口を出しなに、鐘楼の向こうへ目をやった。足場と、柱が七本。屋根のない骨組みを、男はしばらく見ていた。あれは、と訊かれて、読み上げの場所になります、と答えると、屋根がないな、とだけ言った。ないまま始まるかもしれません、と答えると、男は鼻から短く息を出した。笑ったのかどうかは、背中からでは見えなかった。

 それから一度だけ倉を振り返り、綴りの山を、来たときと同じ長さで見た。

「ここに、おれの三年も入ってるのか」

「入っておりますわ。今日からは、あなたの字も」

 男は答えず、朝より少しだけ軽い足音で、出ていった。敷居の線は、もう見なかった。

 夜、館の卓で、アンナがひとつだけ訊いた。芋、食べてくれましたか。ふた皿、と答えると、あの子は皿を拭く手を止めずに、それなら大丈夫ですね、と言った。何が大丈夫なのかは訊かなかった。あの子の秤は、いつも食べた量で振れる。振れ方は素朴で、当たる。

 帳面に一行書いた。`

    ――ヨルク、署名。調べ直し、始まる。

 三年ぶんの綴りの、どの頁にもなかった字が、今日、一行だけ増えた。他人の字で裁かれた人の、本人の字。太くて、波打って、読みやすいとは言えない。それでもあの山の中で、いちばん新しくて、いちばん重い一行になる。


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