第三十三話 倉には、無いものがあった
調べ直しの机は、ひと晩で島になっていた。
赤ら顔の男の机に、南の束が積まれ、隣の机を寄せて、綴りが橋を渡している。朝の倉は冷える。火鉢に炭を足すのは、いちばん早く来た者の仕事になった。息が白いのは戸口の辺りだけで、奥は紙の匂いで暖かい気がする。気がするだけで、指はかじかむ。指なし手袋を編んでくれたのはアンナで、四人ぶんも編んで、今朝から倉の全員の手が同じ毛糸になった。
北からの文は、評議を経由して、写しで倉に届いた。
持ってきたのは若い男で、机に置くとき、紙の端を指で二度直した。写しでも分かる、上等の白い紙。差出は、北の村の司祭と、村の年寄の連名で、末尾の署名の並びだけ、字の格が違った。文言は丁寧で、骨だけ抜けば短い。神の判を、器械ごときの印で覆すのか。その器械が狂っていたら、誰が責めを負うのか。
読み上げの日取りも決まらないうちから、先回りの矢が飛んでくる。赤ら顔の男が文を覗いて、鼻を鳴らした。老人は何も言わず、自分の机へ戻っていく。わたくしは文をもう一度読んで、それから、悪い問いではありませんわ、と口に出して言った。四人の手が、いっせいに止まった。
「器械も、検分いたします」
疑いに腹を立てるのは、疑われて困る側の作法だから。こちらは困らない。困らないことを、紙で示せばいいだけのこと。
*
時刻印の器械は、押した紙の隅に、日と、刻と、器械の番号を残す。ヨルクの控えに印を押したのは、隣村の荷受け場の一台。番号は、どの控えにも同じ形で入っている。
その一台が、あの晩、狂っていたとする。
狂った器械は、あの晩、ヨルクの紙にだけ印を押したわけではない。荷受け場は夜通し荷を受ける。同じ晩、同じ器械の印を持つ紙が、他の家の控えにもあるはず。そして控えは、この国では捨てられない。綴られて、年を重ねて、この倉にある。答えが要るなら、山を掘ればいい。
掘った。
埃が立つ。窓の光の筋が、いつもより濁って見えるくらいに。紐を解く爪が途中で割れて、アンナの手袋を一度外し、また嵌めた。昼はパンと湯で済ませて、誰も座り直さなかった。頁を繰る。埃を吹く。また繰る。爪の先が、灰色になっていく。
痩せた男が綴りの背の年号を読み、赤ら顔の男が該当の年を机へ運び、わたくしと若い男が頁を繰る。同じ日付。同じ番号。隣村の油屋の仕入れ。粉の袋の受け渡し。教会へ納める蝋燭の荷。夕刻から明け方まで、印は十一枚見つかった。机の天板いっぱいに、刻の順で並べる。並べると、荷の順が並ぶ。受けた側の紙と出した側の紙が、別々の家の控えの上で、互いに噛み合っていく。
灯りを引き寄せて、印の四角を一枚ずつ見た。番号の三の字の、右の角が、どの印でも同じに欠けている。判の彫りの、小さな傷。十一枚が同じ欠けを持っている。同じ晩、同じ器械の下を、十一枚の紙が順に通った跡だった。器械は狂っていたかもしれない、と言うのは易い。けれど狂った器械が、十一の家の帳尻を、荷の順まで揃えて狂わせるのは、ずいぶんと手間のかかる狂い方になる。
昼過ぎに、ヨルクが戸口に立った。宿で聞いたと言って、炭の袋をひとつ、火鉢の脇に置いていく。手伝う、とは言わない。言わずに、自分の窯の炭が火鉢で燃えつくのを一度だけ見て、帰っていった。倉はその日、夕方まで暖かかった。
それから、隣町の器械。ヨルクの荷が翌日、隣町に着いたときの、別の一台の印。欠けのない、別の三の字。二つの印の間は、荷馬車の足でちょうど埋まる道のりだった。一台だけが狂ったという話は、この十一枚と、隣町の一枚と、道のりの長さの、全部と喧嘩をすることになる。
一致というものは、二つ目からが証拠。教わった言い回しは書面には書かず、頭の中にだけ書いて、検分の書き付けを起こした。器械を信じてください、とは書かない。器械を疑うのなら、これだけの紙と一緒に疑ってください、と書く。書き終えて、指の粉を払った。
*
掘った山の中に、見るつもりのなかったものが混ざっていた。
麦の家の、出荷の控え。火事の年の、春から秋。あの家は四度、麦を売っていた。買い手は町の粉屋と、酒を造る家。控えの量を、指で足していく。桁が繰り上がるたび、帳面の隅に棒を引いた。足す。挟む。頁を戻す。また足す。棒が四本組になっていく。足しながら、元の裁きの綴りを隣に開いた。焼けた倉の中身として、弁済の欄に書かれた量。村の出し合いと、ヨルクの窯を売った銭とで、償われた量。
合わない。
売った麦を引くと、火事の晩に倉へ残っていたはずの麦は、書かれた量の半分に届かなくなる。半分より、まだ少ない。倉が満杯のまま焼けたのなら、売った麦はどこから出てきたのかしら。倉が半分空で焼けたのなら、弁済の紙の上で燃えた麦は、どこにあった麦なのかしら。
ペンを持つ手が、一拍、速くなっていた。速くなってから、抑えた。これは、ヨルクの無実の証しではない。無実は、時刻の印で足りている。これは別の家の、別の……匂いだ。焼けた倉に、燃える前から無かったもの。無かったものの代金を、あの家は受け取っている。
読む人は、読み、照らし、差し出すまで。職分の紙に、自分でそう書いた。書いた夜のペンの重さも、まだ手が覚えている。追いかけたがる手を職分の行の内側へ戻して、見つけた頁に紙片を挟む。挟んだ紙片の端を、癖で二度折って、折り目を爪で潰した。差し出す。その先を検めるのは、わたくしの欄ではない。欄の外へ出たがる指を、もう一度、戻した。
*
日が落ちる頃、書き付けが二通できた。
一通は、器械の検め。十一枚と一枚の控えの写しを添えて。もう一通は、弁済の勘定の食い違い。麦の量の付き合わせを添えて。痩せた男が写しを取り、老人が赤い蝋を落とす。二通目のときは、押す前に、麦の数の付き合わせを最後まで指で辿った。節の太い指が、棒四本組の列を一段ずつ下りていく。畑の手には、麦の量の意味が、わたくしより早く見えるらしかった。蝋の落ちる音が、一通目より少し重く聞こえた。
帰り道は、息が白かった。市場の板戸はもう閉じて、粉屋の軒の藁が、灯りの下で色を失っている。鐘楼の向こうの骨組みを見上げた。柱は七本のまま。足場の上に、縄が渡り始めている。
館ではアンナが、夕食の席で麦粥の椀を出した。今日は何を読んだのかと訊くから、麦の数、と答えた。あの子は自分の椀の中を見て、それから少し困った顔で笑って、うちのは足りてます、と言った。足りている椀の湯気の向こうで、足りない倉の勘定のことを、わたくしはまだ考えていた。考えごとの匂いは隠せないらしく、アンナは黙って、粥のお代わりをよそった。
夜、帳面に一行書いた。
――器械、検め済み。弁済の勘定、合わず。
倉には、燃える前から、無いものがあった。無いものは、燃えない。燃えないものの代金は、それでは、何の代金だったのか。問いはまだ、わたくしの欄の外にある。外にあるまま、読み上げの日が近づいてくる。
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