第三十八話 紙の匂い
亡くなった人の字は、静かだった。声の記憶を持たないわたくしには、なおさらそう読めた。
マレンから、亡夫の仕入れ帳を借りた。店は間口一間で、それでも釦の箱が色ごとに並び、几帳面な明るさがあった。朝の店先で、字の見本が要るのだと頼むと、マレンは帳場の下から帳面を出して、胸に一度だけ当ててから、両手で渡してきた。夫の残した字は、これで全部なのだという。全部を、預かった。
前払いの日付と、糸の色の名前が、几帳面に並んでいる。癖の少ない、真面目な字。借りの控えの字と、灯りの下で並べて見比べる。似ていた。嫌になるほど、似ていた。跳ねの角度も、留めの強さも。似せた者がいるのだとしたら、この帳面のような字の見本を、どこかで長く眺められた者ということになる。
似ている、は、証しにならない。本物だから似ているのか、写したから似ているのか、字は自分では言ってくれない。判は正しい青。番号の並びにも、不審がない。三日、写しと現物を行き来して、検分は同じ場所を回っていた。回りながら、マレンの店の前をヴォスの手代が日に一度通るという話だけが、市場から聞こえてくる。刻限は、あちらが握っている。
*
夜、館の卓に現物を広げていたら、アンナが茶を持ってきた。階段の軋みで分かる、あの子の上がり方だった。
盆を置いて、下がりかけて、あの子は卓の上の紙を、覗くでもなく見た。それから、何でもないことのように言った。
「この紙、匂いが違いますね」
字を見ていた目に、その言葉は入ってこない。ええ、とだけ返して、頁の跳ねの角度に戻った。戻って、半拍遅れて、手が止まる。
匂い。茶碗を持ちかけた手が、盆の上で宙に浮いた。
字と、判と、番号と、日付。わたくしの検分は四つの道を回っていて、四つとも、目の道だった。紙そのものの道を、一度も歩いていない。歩けないからだった。紙の匂いも、漉き目の癖も、わたくしの手は覚えていない。覚えている手が、盆を持って、すぐそこに立っていた。
三年、検分はひとりの仕事だった。目もひとつ、手もひとつ、届く場所までが世界の端で。いまは痩せた男の書式があり、老人の蝋があり、あの子の鼻がある。届かない場所を、届く人に借りる。借り方を、わたくしはこの国に来てから、少しずつ覚えている。
「アンナ。もう一度、言ってくださる」
あの子は瞬きをして、盆を置き直して、紙の上に屈んだ。嗅ぐというより、頬を寄せる近さで。
「新しい紙の匂いがします。藁と、晒しの。わたしの帳面と、同じ匂い」
わたしの帳面、と言ってから、言い直した。エルヴィラ様の、いまの帳面。市場の紙屋で、あの子が棚を三つ迷って選んでくれた一冊。あれはこの秋に買った、新しい漉きの紙だった。アンナは休みのたびに紙屋の棚を眺めて、帳面の頁の毛羽を指で均して使う子で、紙の顔と匂いを、手と鼻で覚えている。
「古い紙は、もっと乾いた匂いです。仕舞われてた匂いっていうか。これは、まだお店の匂いがします」
言うだけ言って、あの子は盆を持ち直した。明日は紙屋さん、開くの早いですよ、と階段の途中で付け足して。
控えの日付は、夏。一年と少し前の。店の匂いのする紙が、一年半、畳まれていた顔をしていない。灯りに透かすと、漉き目が細かく揃って走っていた。わたくしの帳面の頁と、同じ走り方で。
*
翌朝、アンナと市場の紙屋へ行った。開いたばかりの店先で、束ねた紙が壁一面に立ててあり、藁と晒しの匂いが往来まで届いている。アンナの言った、あの匂いの元締めの匂いだった。
主人は、アンナの顔を見ると先に笑った。棚の常連への笑い方で、隣のわたくしへの会釈は半歩遅れて付いてきた。控えの現物は持ち出さず、灯りで写し取った漉き目の間隔と、紙の端を一分だけ切らせてもらった切れ端を見せる。主人は切れ端を指で揉んだ。窓の光に透かす。それから、店の奥の漉き簀を顎で示した。
「うちの、新しい簀の目ですな。細かい揃いは、この簀にしか出ない」
簀は、いつから。訊くと、主人は売り控えの綴りを繰り、検めに使うなら、と当該の頁へ自分の手で紙片を挟んでくれた。商いの信用は、紙の信用と地続きの場所にあるらしい。去年の冬。新しい簀の紙を市場に卸しはじめたのは、去年の冬の市から。それより前には、この漉き目の紙は、この街のどこにもない。
「夏の日付が書いてあるなら」
主人は切れ端を返しながら、商人の慎重さで言葉を選んだ。売り物の悪口にも、客の詮索にもならない置き場所を、指先で探すような間があった。
「その夏には、まだ生まれてない紙、ということになりますが」
紙が、日付より若い。生まれる前の紙に、字は書けない。
帰り道、アンナは芋の袋も提げずに、少し前を歩いた。角を曲がるとき、一度だけ振り向いて、帳面、買っててよかったです、と言った。それだけ言って、また前を向く。役に立ちました、とは訊かない。訊かない背中に、立ちましたとも、と胸の内で答える。ただ、これで足りるか、と勘定する頭は別に動いていた。紙屋の証言と、売り控えと、切れ端。三つとも本物で、三つとも、うちの簀では、という話の内側にある。よその街の紙かもしれない、と言われたら、宣誓の秤はまた傾き直す。糸は、もう一本要る。
夜、帳面を開く。一行だけ書いた。
――紙、日付より若し。次は、番号。
*
番号は、独りでは生まれない。生まれるとき、必ず双子で生まれる。
青い判の番号は、役所の台帳と対で振られる。控えに番号があるなら、台帳のどこかに、同じ番号の行があるはず。その行に何と書いてあるかを、この目で読むまでが、二本目の糸だった。検分の書面の枠を、初めて使った。読む人の名で、台帳の検めを役所に申し入れる。痩せた男が書式を整え、老人が赤い蝋を落とし、若い男が届けに走っていく。
三日、待った。そのあいだにも、ヴォスの手代は日に一度、マレンの店の前を通っていったという。通るだけ。何も言わない。言わない圧の使い方を、あちらはよく知っている。待つあいだも倉の仕事は続き、綴りの山はまた少し低くなっていく。
届いたのは、紐で十字に縛られた、厚い綴りだった。荷を降ろす音で、倉の全員が手を止めた。卓に載せると、机の脚が短く軋む。紐の結びは役所の固い十字で、解くのにまた爪が要った。台帳の頁は薄い。番号が、川のように流れている。指で川を遡った。千の位。百の位。近づくにつれて、頁を繰る音だけが倉に残った。
あった。息を整えてから、もう一度、数字の並びを目で確かめた。
控えと同じ並びの番号が、行の頭に立っている。指を行に添えて、横に滑らせた。日付。金額。そして、名前。
指が、止まった。台帳の紙の冷たさが、指の腹から上がってくる。
その行に書かれていたのは、マレンの夫の名前ではなかった。
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