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第三十七話 紙が嘘をつくとき

 嘘だという紙を、まず、受け取った。受け取る指先に、朝の外気の冷たさがまだ残っている紙だった。

 両手で差し出されたものは、両手で受けるのが倉の作法になりつつある。マレンと名乗ったその人を火鉢のそばに座らせて、アンナが置いていった湯の椀を出した。椀を受け取る指の、針の跡の並びが、火の色で赤く見えた。

 紙は、借りの控えだった。一年と少し前の日付。マレンの亡くなった夫の名で、布屋のヴォスから銀貨を借りた、と書いてある。額は、糸と釦の店がまるごと二度買えるほど。隅に番号があり、青い判が押してある。この国の、正しい紙の顔をした一枚。

「夫は、借りない人でした」

 言ってから、借りない、の中身を並べた。仕入れは前払い。釦は現物と引き換え。祝いの膳さえ、貯めてから出す人だった。婚礼の指輪も、半年遅れで届いたという。それを不満の思い出ではなく、自慢の順で話す人だった。

 マレンの声は、低くて平らだった。泣いた後の声ではなく、泣くのを後回しにしてきた声。夫が死んで一年半、店はひとりで回してきた。市場の角の、間口一間の小店。隣は、ヴォスの布屋。春に一度、店ごと譲らないかと持ちかけられて、断った。夏にもう一度、断った。秋の終わりに、この紙が来た。使いの小僧が置いていった、と言った。ヴォス本人は、春から一度も店に来ていない。来ないで、紙だけが来る。市場では、ヴォスの布屋は寄合の顔役で、検めの場で誓えば、それが通る側の店だった。

「返せないなら、店を明け渡せと。……返せません。借りていないお金は、返し方が分かりません」

 言い分は、それだけだった。それだけで、それ以上の持ち合わせがない。夫は借りない人だった——生きていれば本人が言えることを、亡くなった人は言えない。言えない人の代わりに紙だけが残って、その紙が、あちら側に立っている。

   *

 最初の壁は、紙ではなかった。器のほうにある。

 これは、いまの係争だった。開き直しの器は、決まった裁きを確かめ直すための器で、まだ裁かれていない揉め事は、そもそも注げない。市場の揉め事は、市の役人の検めに掛かる。痩せた男が朝のうちに市の役所まで行って、検めの流儀を書き写してきてくれた。写しの字が几帳面に揃っているのが、かえって心細い。流儀は三行で終わっていた。検めといっても、紙と紙を突き合わせる場ではない。双方の言い分を聞き、決め手がなければ宣誓。宣誓の重さは、悪いけれど、店の大きさに釣られる。大店の主人の誓いと、寡婦の誓い。秤は、載せる前から傾いている。

 わたくしに、できることの欄は狭かった。狭いことを、狭いまま伝えるほかなかった。

「わたくしは、裁く者ではありませんの。読む人、という役で……読んで、照らして、書面にするまでが、職分で」

 マレンは、頷いた。責めなかった。膝の上で紙を畳み直して、そうですか、と言って、頭を下げて、帰ろうとした。その背中が、板戸のところで一度だけ止まる。止まって、振り向かずに言った。

「読んで、いただけますか。裁いていただかなくて、いいんです。……誰かに一度、読んでほしかった。嘘だと知っている人間が、この世にわたしひとりというのが、いちばん、こたえるので」

 読みます、と答えるのに、職分の紙は要らなかった。声が、欄より先に出た。マレンは戸口でもう一度頭を下げて、下げた頭のまま、少しのあいだ動かなかった。動けるようになってから、朝の市場へ帰っていく。開店の刻は、守る人だった。

   *

 夕刻、閣下が来た。外套の肩に、石の粉と夜気を半分ずつ載せて。

 屋根板の届く日取りの話のついでに、と本人は言ったけれど、袖口のインクの染みは評議帰りの濃さだった。マレンの控えの写しを見せ、器の壁の話をすると、閣下は文鎮の端材を指で一度回して、それから言った。

「君は裁けない。それは変えない」

 変えない、と先に言い切ってから、続けた。端材の石が、指の下で止まる。

「だが、読める。読んだ結果を書面にして、市の検めに出す。役人はそれを、参考として受け取る。──その受け取り口を、評議で作る。検分の書面、という名前の口を」

 評議は通るのか、と痩せた男が控えめに訊いた。反対は出る、と閣下はあっさり認めた。ただ、裁く力を寄越せという話ではない。読んだ紙の置き場所をひとつ作るだけの話で、それを塞ぐ理屈のほうが、作るのに骨が折れる。そういう通し方をする顔だった。

 裁く力ではなく、読んだものの置き場所。声ではなく、書面。開き直しの定めを作ったときと同じで、始めの一件が、次の決まりになる形だった。宣誓の秤が傾いているなら、秤の皿に、紙を一枚載せられるようにする。それだけのことで、それだけのことが、いままで、なかった。

 閣下は帰り際、戸口で振り返る。

「読む人。紙は、どう見える」

「正しい紙の顔をしておりますわ。……いまのところは」

 いまのところ、を閣下は笑わない。短く頷いて、夜の中へ出ていった。

   *

 その夜、倉に残って、灯りを控えの真上まで引き寄せた。四人は帰した。紙と二人きりで話したい夜だった。

 字。亡夫の字と見比べる元がまだない。判。青は正しい青で、縁の滲みも自然だった。番号。並びに不審はない。日付。一年と少し前の、何でもない日。紙。上等で、折り目は一度きり。指の腹で撫でても、掻き消した跡も、擦った跡もない。灯芯が一度鳴って、影が紙の上で揺れた。

 どこにも、穴がなかった。穴のなさが、いちばん深い穴に見えてくる。

 三年、紙を読んで生きてきた。紙は嘘をつかない——それを杖にして、断頭台の前から、国境の橋まで歩いてきた。声は裏切る。目は買われる。節は体を攫う。それでも紙だけは、書かれたままのことを、書かれたままに言い続ける。だから読む人という職分が立つ。だから、わたくしが立っている。

 その紙が、いま、灯りの下で嘘をついているのだとしたら。灯芯の音のほかに、答える者はいなかった。

 指が、控えの端で止まっていた。疑うことに、手が慣れていない。人を疑う手つきなら、いくらでも覚えてきたのに、紙を疑う手つきは、どこにも仕舞っていなかった。この一枚が本物なら、借りない人が借りた人になる。この一枚が偽物なら、わたくしの杖は、杖のままではいられなくなる。どちらに転んでも、何かがひとつ欠ける夜だった。

 欠けるなら、正しく欠けるほうを選ぶ。選ぶ側に、まだ立てているうちに。

 油を一度注ぎ足した。夜番の見回りの足音が、表を二度通り過ぎていく。灯りを近づけて、もう一度、隅の青い判から読み直す。夜の倉で、帳面に一行だけ書いた。

    ――マレンの控え、検分はじめ。

 紙は、嘘をつかない。……けれど、嘘つきは、紙を書ける。書けてしまうのだとしたら、読む人の仕事は、紙を信じることではなくて、紙を確かめることのほうにある。杖を、握り直した夜だった。


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