第三十六話 炭一俵
炭は、朝のうちに届いた。倉の前の霜が、荷馬車の轍でふたすじ、黒く剥がれた。
荷馬車が倉の前に停まって、ヨルクがひとりで俵を降ろした。手伝おうとした若い男を、手のひらひとつで断って、肩に載せ、戸口の内側の、火鉢のいちばん近くへ置く。俵が床で鳴った。太く、短い音。いい炭の音だと、あとで赤ら顔の男が言った。俵の縄は二重に掛かって、結び目が舟の結びだった。湖沼の男の、手癖の形。
今日、南へ帰るという。宿の払いは昨夜のうちに自分で済ませていたと、見送りに出た若い男が、少し残念そうに言った。世話の返し方まで、紙のように几帳面で。
村へは、と誰かが訊く前に、ヨルクは荷馬車の縄を引いて確かめながら言った。掌が縄を二度、はじく。炭は、いい客がついた。窯を離れると焼きが落ちる。それだけだった。村という言葉は、行きにも帰りにも使わない。名は戻った。三年は、戻らない。戻らないものの置き場所を、この人は三年かけて、湖沼地にもう建ててしまっていた。
湿った別れにはならなかった。ヨルクは倉の中をひと回り見て、自分の願いの紙が綴じられた棚の前で足を止めた。新しい綴りは、まだ一冊きりで薄い。薄い背を、指の節でひとつ叩く。老人がそれを見て、机を叩き返した。二度。言葉は、どちらからも出なかった。それから、わたくしの卓の前を通るとき、置き手紙ほどの小ささの声を寄越した。
「読む人。……冬の炭は、切らすな」
荷台には、麻袋がひとつ降ろし忘れのように残されていた。中は栗で、アンナに、と言づけがあった。夜、あの子は栗を茹でながら、湖沼地の栗は大きいんですね、とだけ言った。芋の恩の返し方を、あの人はちゃんと知っていた。
荷馬車が角を曲がるまで、誰も仕事に戻らなかった。曲がってしまうと、老人が火鉢に新しい炭を足した。よく爆ぜた。よく熾きた。倉はその日、一日じゅう暖かい。
*
噂は、炭より足が速かった。荷馬車がまだ南の街道の上にいるうちから、街のほうが先に話していた。
市場では、紙で神様の判を確かめ直したそうだ、という言い方で回っているらしい。アンナが買い物のたびに拾ってくる。言い方は日ごとに変わる。紙が人を守ったそうだ。屋根のない裁きの場があるそうだ。どれも半分正しくて、半分足りない。足りない半分を、あの子は近所の水汲み場で、芋の袋を提げたまま説明しているという。昔の裁きを確かめ直すんです、間違ってたら間違ってたって紙が残るんです、と。説明の順番が、わたくしが教えた順のままだった。
倉の前で、立ち止まる人が増えた。前掛けのままの女が覗いて帰り、翌日も覗いて帰った。
入っては来ない。戸口の手前で足が止まる。首だけ伸びて、綴りの山を覗いて、行ってしまう。立ち止まった足の数だけ、まだ言葉にならない用事がこの街にあるらしかった。痩せた男が、戸口の脇に小さな台を出して、開き直しの触れの写しを貼った。読めない人のために、若い男が昼に一度、声に出して読む。読み上げには日に日に節がついてきた。司祭の節ではなく、市場の売り声に近い節で。紙の言葉でも、あの節なら体に届く日が来るらしい。聞いて、頷いて、それでも入っては来ない。杖をついた年寄がひとり、触れの読み上げを二日続けて聞きに来て、二日とも、読み終わる前に帰った。敷居というものは、思ったより高く作られている。跨ぐ足ではなく、跨がせる用事のほうが、まだ育っていない。
午後、鐘楼の裏へ八本目の柱が届いた。木の匂いが先に来る。荷車の軋みは、あとから。
降ろすのに、男が六人。綱が鳴る。見に出ると、七本の並びの端に、新しい木の色がひとつ横たわっていた。皮を剥いだばかりの、明るい色。冬までに屋根、の約束が、まだ生きて動いている音と色だった。閣下の姿も足場の上にあって、遠くからでも、外套の肩の粉が見えた。こちらに気づいて、手にしていた端材を軽く掲げる。屋根の約束はまだ生きている、という意味に見えた。検める側の日と、建てる側の日。あの方の外套は、二種類の埃を交互に浴びて冬へ向かっていく。
*
夕食の卓で、アンナが芋を装う手を止めた。箸も、止まったまま。鍋の湯気だけが、しばらく卓の上でものを言っていた。
「開き直しって、昔の裁きを確かめ直すんですよね。じゃあ……いま困ってる人は、どうなるんですか」
水汲み場で訊かれたのだという。隣の棟の女が、勤め先の主人と揉めている。約束の給金が半分しか払われず、約束を書いた紙は主人の手の中で、写しはもらえていない。昔の綴りではなく、今日の困りごと。今日の紙は、まだ強い側の手の中にある。
「その、いまのは、誰が確かめてくれるんですか」
アンナは、その人に倉のことを言い出せずにいるという。昔の裁きしか直せないんです、と先に自分が説明してしまった手前で。説明の正しさが、あの子の口を塞いでいた。
答えが、すぐに出なかった。装いかけの芋が、椀の上で湯気を細くしていく。匙が、鍋の縁で鳴った。
開き直しは、決まった裁きを確かめ直す器で、いまの係争の器ではない。市場の揉め事は市の役人の検めで、旧い流儀なら宣誓か、主人側の裁量で決まる。読む人の職分は、綴りと控えを読むまで。どの答えも正しくて、どの答えも、井戸端の女を助けない。
「……いまは、直せませんの。昔の裁きしか」
正直に言うと、口の中に紙の味がした。アンナは頷いて、芋を装い直して、そうですか、とだけ言う。責める声ではなかった。責められるより、少し重いだけ。あの子の問いはいつも素朴で、素朴なものは、避けて通る道を作ってくれない。
夜、机で帳面を開いて、癖で、新しい頁の端に「いまの」と書きかけた。書きかけて、止めた。読む人の欄の外の話を、帳面の中に住まわせるところだった。線を引いて、消す。線は、一本で足りた。それから、いつもの行を書いた。
――炭、一俵。柱、八本目。
書いてから、行の下の空きを、しばらく見ていた。消した「いまの」の二文字が、線の下からまだ薄く読めた。
*
数日後の朝、倉の入口に、女の人が立っていた。風が、戸口で切れる。息の白さが、わたくしのよりひとつ古い。ずいぶん前から、そこで待っていた白さだった。
板戸を開ける音より先に、そこにいたらしい。歳は母より少し下くらい。継ぎのない、けれど何度も洗った色の外套。指先に、針の跡。胸元の釦だけが、揃いで綺麗だった。数えると、七つ。売り物を留めているような、几帳面な並びで。
倉の中で、四人の手の音が、順に止まっていくのが背中で分かった。女の人は、戸口で一度頭を下げて、外套の内から紙を一枚出した。両手で持って、それでも渡さずに、先に言った。
「この紙は、嘘です。……でも、証しが、ありません」
紙は上等で、折り目は一度きり。憎い紙のはずなのに、大事に持たれてきた紙の顔をしていた。差し出された隅で、青い判が、朝の光を受けて濡れたように光っている。
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