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第三十五話 屋根のない法廷(二)

 風は、止まなかった。止まないまま、司祭の節だけが止まっていた。

 止まないまま、わたくしは卓の石を持ち上げて、検分の書き付けの下から、別の一枚を抜いた。麦の家の、あの晩の送り荷の控え。昨日のうちに写しを取って、いちばん下に敷いておいた紙だった。

「あなたの見た刻を、もう一度うかがえますこと」

 帽子の男は、当主の顔を見た。見てから、答えた。

「……火の、少し前で。晩の鐘の、あとくらいで」

「晩の鐘のあと。北の道で」

 繰り返して、杭を打つ。男は頷いた。頷いた首が、まだ戻りきらないうちに、わたくしは控えを読み上げた。同じ晩、麦の家は町へ荷を出している。麦の袋、十六。刻印は町の器械。刻は、晩の鐘のあと。そして送り状の運び手の欄に、名前がひとつ。読み上げる声の途中で、当主の首が写しのほうへ伸びた。伸びてから、戻し方を忘れた首だった。

「あなたのお名前が、ございますの」

 帽子が、男の胸の上で潰れた。握った指の節が白い。

「晩の鐘のあと、あなたは町の荷受け場においでですわ。北の道とは、逆の側。……ご自分があの晩どこにいらしたか、あなたの押した印が、覚えておりますのよ」

 男の目が、当主とわたくしのあいだで往復をやめた。どちらでもない場所──床板の霜の消えた跡を見て、それから、聞こえるかどうかの声で、道は、暗かったで、と言った。見たかどうか、もう分からねえで、と。

 当主は、崩れた証人を見なかった。使い終えた道具を見ない、目の使い方だった。人垣が、その目の使い方も見ていた。

 言い終える前に、人垣が鳴った。どよめきは怒りの音ではなかった。紙が口に勝つところを、この人たちは生まれて初めて見ている。

   *

「なら、わしが見たものを言ってもええか」

 人垣の後ろから、声がひとつ立った。節でも、太い声でもない、平らな声で。

 進み出てきたのは、肩の張った初老の男だった。掌に荷縄の跡が畝になっている。村で荷を運んで暮らしてきた手だと、手のほうが先に名乗っていた。男は床板の縁で帽子を脱ぎ、司祭を一度見て、それでも言った。

 三年前のあの晩、自分は麦の家の荷積みを手伝った。倉から袋を出して、荷馬車に載せた。数も覚えている。十六。荷台の縄を締めたのは自分だ、と男は言った。卓の上の送り状と、同じ数になる。口を挟む者はいない。仕舞いに倉へ戻ったとき、灯りがひとつ、倉の奥で揺れていた。持っていたのは、当主の倅だった。見て、そのまま家に帰ったという。それから半刻もせず、鐘が鳴った。

「三年、黙っとった」

 男は帽子を握り直した。握り直して、床板の霜の消えた跡を、一度だけ見た。

「言えば、麦の家を敵に回す。村であの家を敵に回して、荷運びが食えるか。……けんど、今日ここで、紙が人を守るのを見た」

 守るなら、と男はわたくしを見た。三年遅れの言葉に、行き場はあるか、と目が訊いていた。

「ございますわ」

 わたくしは新しい紙を一枚、卓に置いた。石を退けて、風上に手を添えて。

「見たままを、あなたの名前で。──紙は、あなたを守りますのよ」

   *

 当主の申し開きは、二度、形を変えた。変わるたび、前の形が床板の上に転がって残る。

 最初は、あの晩に荷など出していない、だった。送り状の写しが読まれると、出したが倉は満ちていた、に変わった。それなら、と赤ら顔の男が弁済の綴りを運んでくる。売った麦を引けば、倉の中身は弁済の欄の半分に届かない。数字を前にして、当主の胸の反りが、少しずつ戻っていった。三度目の申し開きは、出てこなかった。

 倅は、この場に来ていない。村に置いてきた息子の名を、当主は一度も呼ばず、呼ばないことが、どの申し開きよりも大きな声で聞こえた。司祭は、いつの間にか半歩下がっていた。法衣の袖は合わせたまま、節はもう出てこない。神判は、灯りを持った倅のことを、裁いた晩に知らされていなかった──その顔だった。

 あれは、と当主が言った。太かった声が、細く割れた。あれは、事故で。それきり、あとが続かなかった。事故なら事故と、三年前に言う口があった。言わずに、余所者の炭焼きへ矢印を向けた口が、いま、床板の上で開いたまま閉じられずにいる。

 閣下が立った。評議の席の椅子が、床板の上で短く鳴る。

「元の裁きは、立たない」

 宣は、それだけだった。ヨルクの名は戻る。偽りの証と、弁済の勘定の検めは、村の検めとして差し戻す。この場は確かめ直す場で、新しい罪を裁く場ではない──器の分は、器のまま。評議の書き役が宣を書き取る音が、しばらく床板の上を渡っていた。

 写しは高札へ。痩せた男がその場で宣の一行を書き足した。乾ききらないインクが風で少し流れて、それでも、読めた。

   *

 歓声は、上がらなかった。どよめきも、もう出てこない。

 代わりに、人垣のあちこちで、帽子が取られていった。ひとつ、またひとつ。衣擦れの音が波のように端まで渡って、ヨルクは、その真ん中で動かずにいた。笑わない。泣きもしない。右の甲を覆っていた左手だけが、いつの間にか下りていた。

 老人が、読む人の卓を、二度叩いた。机にするのと同じ、あの叩き方で。

 わたくしは検分の書き付けを閉じた。閉じる手が、最後の頁で一度、止まった。指の下で、頁の角が少し毛羽立っている。何度も開いた紙の癖で。十二歳の、救えなかった子の頁と、同じ形の一件だった。誰かの罪を着せられて、紙だけが味方だった人。あの日は、頁を閉じることしかできなかった。今日は、閉じる前に、名前がひとつ戻った。閉じた頁は軽くならない。ただ、今日開いた頁のぶんだけ、綴りは確かに厚くなった。

 人垣がほどけはじめた頃、アンナが端からこちらへ回ってきて、けれど卓へは来ずに、ヨルクへ向かって深く頭を下げた。下げられた側は、下げ返し方を知らない立ち方で、それでも小さく顎を引いた。あの子の礼は、いつも先に届く。

 ヨルクが、卓の前に来た。何か言う顔ではなかったので、こちらも待たずに、綴りを整えた。それでも男は立ち去らず、床板の縁で一度足を止めて、振り向かずに言った。

「……炭は、届けます」

 冬のあいだ、倉の火鉢が困らないくらいには。そういう意味に聞こえたし、それだけではない意味にも聞こえた。男の背中が人垣を抜けていくあいだ、帽子を取った人たちが、道を空けるように半歩ずつ引いていった。三年前、この人を村から出したのと、同じ幅の道だった。今日は、向きが逆なだけ。

 館に戻ると、アンナが湯を沸かして待っていた。何も訊かない。椀がひとつ。飲み終える頃に、よかったですね、とだけ言った。

 夜、帳面に一行書いた。

    ――元の裁き、立たず。名、戻る。

 屋根のない場所で始まった最初の一件は、屋根のない場所で終わった。降るなら雪より先に屋根、と願った場所に、今日は雪の代わりに、帽子を取る音が降った。それでよかったと、風の冷たさの残る指で、わたくしは帳面を閉じた。


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