第91話 氷の都市へ
毎日20時、更新予定です!
■1.登録窓口を、見に行く
夜が明けても、鍵は、眠れなかった。
暖炉石の橙色の光が、夜明け頃から、少し、弱まっていた。窓の端に、薄く、霜が張っていた。遠くから、市場に荷を運ぶ音と、誰かの短い呼び声が、聞こえてきた。
フォルス二日目の朝。暖炉石の橙色の光が、夜通し、部屋を、静かに、温めていた。快適だった。その快適さが、昨夜の話し合いの後では、やはり、少し、重かった。
『昨夜、クロードが言っていた。管理者は、塔にいる、と。すでに私たちに気づいているかもしれない、とも』
隣村カラクで配給が止まり、三人が凍死した。それが掲示されていた。石を与えられなければ、冬を越せない。その石が、登録した者にしか渡らないとしたら。寒さそのものが、支配の梃子になる。鍵は、ノートに書いていた言葉を、頭の中で繰り返した。「情報の独占を解く。代替手段を見つける」。言葉は、明確だった。しかし、具体的に何をすればいいのか、まだ、わかっていなかった。
アリアが、前夜から決めていたことがある。「明日、登録窓口を見に行く。旅人として問い合わせるふりをすれば、内部のことが少しわかるかもしれない」と言っていた。鍵も、ノートに書いていた。「明日、塔へ行く」と。
石守の塔は、街の中心に立っている。昨日、市場を歩きながら、何度も、その頂点を確認していた。フォルスに住む者が全員登録を済ませているとすれば、塔の内側には、この街の人間の全てが、あることになる。
鍵は、防寒具を整えて、宿を出た。アリアが横に並んだ。ヴェンツェルは、すでに折りたたんだ地図を手に持ち、別の方向から情報を集めると言って先に出た。ミナは、小さなノートを手に、塔の周辺の地形を確認すると言った。
朝の空気は、澄んでいた。石畳が、昨夜の霜を、少し、残している。遠くで、市場の準備をする声が聞こえた。
■2.静かすぎる、街
二日目になっても、フォルスの豊かさは、変わらなかった。
石畳の道が、まっすぐに延びている。両側に、商家と住居が、整然と並んでいる。建物の作りは、どれも丁寧で、壁に亀裂はなく、窓枠は塗り直されたばかりのように白い。人々の服は、厚く、暖かそうで、毛皮の縁取りがついたものを着ている者も多かった。子どもたちが、石畳の上を走りまわっている。笑い声が、路地の奥から聞こえてくる。
豊かな街だ。昨日も、そう思った。
けれど、今日も、同じものが、引っかかった。
『何だろう、この感じ』
足を止めずに、鍵は、あたりを観察した。市場の入り口に、人が集まっている。商人が声を上げて、野菜を売っている。客が値を交渉している。ごく普通の、街の風景だ。子どもが母親の袖を引いている。老人が仲間と、日当たりのいい石段に腰をおろして話している。
それなのに、何かが、静かすぎた。
不満の声が、聞こえない。誰かが役所の対応に文句を言う声も、税が高いと愚痴をこぼす声も、隣人への怒鳴り声も、聞こえない。人々は、笑っている。穏やかに、整然と、生活している。生活の隙間に、摩擦が、ない。
少し先の、革細工の店の前で、二人の男が、言い合いかけた。片方が、口を開きかけ、止めた。そのまま、黙って、引いた。何かを飲み込んだように、向きを変えて、歩いて行った。もう一人は、何も言わず、店の奥に、入っていった。
鍵は、その場面を、目の端に収めた。
それだけではなかった。市場の入り口近くで、行商人の男が、荷の積み方について、仕入れ先の老婆と、何か言い合っていた。老婆が声を上げかけた。男が、素早く、周りを、見渡した。そのまま、小声で謝って、引いた。老婆は、押し黙った。誰もそれを見ていなかったように、流れた。
ミナの視線が、路地の奥の方へ、向いた。彼女の眉が、かすかに、寄った。それから、鍵の方を、一度、見た。
「昨日から、ずっと気になっていた」と、ミナが小声で言った。
「……ああ」と、鍵は返した。「幸せそうに見える。でも」
「でも、何かが、静かすぎる」
ミナは、うなずいた。彼女の目が、路地の奥の、小さな掲示板を捉えた。そこに、黒い文字で、何かが書かれている。鍵は目を細めて読もうとしたが、人の波に押されて、通り過ぎた。
ヴェンツェルが、鍵の耳に近づいて、静かに言った。「掲示板に、『暖炉石の配給日程』と書いてあった」
「見えたのか」
「目がいいからな」と、彼は短く答えた。「配給は、月に一度。石守の塔で行われる、と書いてあった」
『帝国の技術の塔にも、同じような掲示があった』と、ヴェンツェルは、心の中で、思った。内容は違う。しかし、情報を掲示板によって管理し、住民に知らしめる形は、あの頃と、同じだった。
鍵は、ノートを取り出したかったが、今は動けなかった。代わりに、その言葉を、頭の中に刻んだ。石守の塔。月に一度の配給。
■3.宿の主人が、教えてくれたこと
塔の登録窓口は、午後から閉まっていた。
アリアが旅人のふりをして受付に近づき、「旅の者でも登録できるか」と尋ねてみた。窓口の係員は、表情を変えずに、「フォルスに定住する者のみ」と答えた。それ以上は、教えてくれなかった。
宿に戻ると、ハルマが、帳場に座っていた。昨日から世話になっている、宿の主人だ。顔に刻まれた深い皺が、長い冬を何度もくぐり抜けてきた人間の顔だった。日焼けした分厚い手が、帳面の上に、静かに置かれていた。目は、鍵を見ても、ほとんど動かなかった。
鍵は、聞こうとした。登録のことを、と頭の中で言葉を組んだ。直接聞いていいのか、と一瞬、迷った。別の話から切り込んだ方が、ハルマを構えさせないかもしれない。しかし、遠回りする時間は、ない。
「登録のことを、もう少し聞かせてもらえるか」と、鍵は言った。
ハルマは、少しの間、黙った。それから、表情を変えずに言った。「旅人は、配給を受けられない。ここの登録がないからだ」
「登録」と、鍵は繰り返した。
「フォルスに住む者は、石守の塔に登録する」ハルマは、淡々と説明した。「名前、出身、家族構成、仕事。それを届け出れば、配給を受ける資格が得られる。旅人のあんたらには、その資格がない」
「では、石を手に入れるには」
「市場で買える。ただし、値は高い。配給の三倍はする」
鍵は、その数字を、静かに受け取った。三倍。配給を受けられない者は、三倍の値段を払わなければならない。払えなければ、冬の夜を越えられない。冬を越えられなければ、フォルスにはいられない。それは、追い出すのではなく、留まれなくすることだ。
「登録は、いつから始まったのか」と、ミナが口を開いた。
「石守の塔ができたときから、だ」と、ハルマは言った。「私の母の代も、そうだったと聞いている」
そこで、部屋が、少し、静まった。母の代も、という言葉が、ゆっくりと、空気に染みた。代々続いている、ということは、誰も、ずっと、疑わなかった、ということでもある。疑うという考え自体が、この街では、育ちにくかったのかもしれない。問いそのものが、生まれなかったのかもしれない。続いているものを疑うには、別の場所を、知っている必要がある。フォルスの外を知らない者には、これが当たり前だったはずだ。
ハルマは、それ以上は何も言わなかった。その背中は、質問を続けることを、静かに、拒んでいた。
■4.登録は、管理だ
部屋に入ると、四人は、しばらく黙っていた。
窓の外に、街が見える。石畳の上を、人々が行き交っている。穏やかな、午後の光が、建物の白い壁に当たっている。
「登録しないと、石をもらえない」と、ミナが、窓の外を見ながら言った。
「ああ」と、鍵は答えた。
「それは——つまり」ミナは、ゆっくりと言葉を選んだ。「登録情報で、管理できるということだ」
部屋の中が、静かになった。
アリアが、窓の外の塔を、じっと、見た。
クロードの光が、かすかに、絞られた。
ヴェンツェルが、椅子に座って腕を組んだ。「名前、出身、家族構成、仕事。それが全部、石守の塔に集まっている。誰が何人家族で、どこに住んでいて、何をしているか、全部わかる」
「配給を止めることも、できる」と、アリアが、低い声で言った。「登録を抹消すれば、石を受け取れなくなる。冬の間、それは——」
「死に等しい」と、鍵は言った。
誰も、すぐには答えなかった。
鍵は、ノートを開いた。ペンを手に取って、ゆっくりと書きはじめた。
「石守の塔は、配給の窓口であると同時に、情報の集積点だ。登録なしでは石を得られない仕組みが、自発的な申告を促している。強制ではない。しかし、登録しなければ冬を越せない。だから全員が登録する。それが、完全な名簿を作る。名簿は、力だ」
書きながら、鍵の頭に、三つの問いが、浮かんだ。
『この塔は、誰が、作ったのか』
わからない、と思った。ハルマは、母の代から、と言った。それより前のことは、この街の誰も知らないかもしれない。知る必要がある、とも思わないかもしれない。問えない構造の中では、問いそのものが生まれない。それが、一番、厄介なことだ、と鍵は思った。
『管理者とは、何者なのか』
明日、確かめる。クロードは「すでに私たちに気づいているかもしれない」と言った。だとしたら、時間は、短い。動かなければならない。昨夜、鍵がノートに書いた問いが、また、頭の中に、戻ってきた。「情報の独占を解く。代替手段を見つける」。言葉は、あった。しかし、方法は、まだ、なかった。
『止めることが、できるのか』
鍵は、ペンを、少し、止めた。それが、全部の問いだ、と思った。
書き終えて、鍵は、ペンを置いた。
窓の外に、石守の塔が見えた。街の中心に、まっすぐに立っている。その頂点に、かすかに、光が灯っていた。見下ろすような、静かな光だ。
『あの塔が、この街を見ている』
アリアが、静かに言った。「明日、登録窓口を見に行く。旅人として問い合わせるふりをすれば、内部のことが、少しわかるかもしれない」
「気をつけろ」と、ヴェンツェルが言った。「情報を扱う場所は、情報を集めることに、慣れている。こちらが何者かを、探られる」
「わかってる」と、アリアは言った。「だから、ふりをする」
鍵は、ノートをもう一度開いた。最後の行の下に、小さく書き加えた。
「明日、塔へ行く」
夜が、フォルスを静かに覆った。石畳の街路から、人影が消えていく。どこかの窓の内側に、暖炉石の橙色の光が、ゆらゆらと灯っている。それは、優しく、美しく、穏やかで——しかし、登録した者にだけ、与えられる、温かさだった。
クロードが、静かに言った。「情報の独占を、解く方法を、探しましょう」
その言葉だけが、夜の部屋に、残った。
『(第92話へつづく)』
面白いと思ったらブックマーク・評価をいただけると励みになります!




