第90話 暖かさの支配
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■1.外縁から見た、異様な都市
北の高原を、越えた先に、その都市は、あった。
地図には「フォルス」と、記されている。帝国の最北端、冬が八ヶ月つづく、寒冷の土地。本来であれば、人が定住するには、厳しすぎる気候の、はずだった。氷のような風が、大地を、なめていく。山脈の谷筋に沿って、凍土が、果てしなく、広がっている——それが、鍵が、心の内で、覚悟していた、光景だった。食糧を、節約して、防寒具を、増やして、それでも、風雪の中を、歩き続けなければならないと、思っていた。
ところが、丘の上から、見下ろした景色は、その想像を、まるごと、裏切った。
「……暖かい」
つぶやきは、白い息に、ならなかった。丘に立つ一行——鍵、アリア、ミナ、ヴェンツェル、セリア、そして青白い光のクロード——は、薄手の旅装のまま、立っていられた。斜面の雪は、都市に近づくにつれ、途中から、消えていた。外縁に、近づくほど、空気が、ぬるく、なっていく。まるで、見えない幕が、都市を、くるんでいるようだった。丘の頂から振り返ると、そこには雪があった。足跡が、白く、残っている。しかし前方の都市には、雪がない。春のような、草が、地面に、はえていた。
境界は、斜面の中程で、まるで、直線を、引いたように、くっきりと、分かれていた。雪の上に、片足を、雪のない地面に、もう片足を、乗せれば、その差を、体で、感じられるほどだった。
ヴェンツェルは、背嚢から、地図を、取り出して、広げた。指で、等高線を、なぞりながら、何かを、確認するように、口を、真一文字に、結んだ。アリアは、片手を、空中で、ゆっくりと、左右に、振った。温度の差を、手で、測るように。ミナは、地面に、膝をついて、土の匂いを、嗅いだ。「凍土じゃ、ない」と、小さく、言った。「土が、生きています」
『おかしい。ここは、真冬の北辺のはずだ』
クロードが、静かに、言った。「熱源が、ある。人工的な、継続的な、熱源が。面積に対して、規模が、大きすぎる。自然現象では、説明がつかない」
クロードの光が、都市の中心の方角を、向いた。「中心の塔を、起点に、放射状に、温度が、上がっている。熱は、単一の、大きな、源から、外へ、広がっている。これは、炉では、ない」
その声に、感情は、なかった。しかし鍵には、わかった——クロードが、何かを、深く、感じ取っている、と。昨夜の野営の火の前で、クロードは「眠らなかった管理者」の気配を、察知していた。シャムールとは、違う。恐怖で縛るのではなく、別の手段で、人々を、手のひらに、乗せている者の、気配。それが、この北の都市フォルスに、繋がっていた。
鍵は、都市の中心部を、じっと、眺めた。煙突が、あちこちから、白い煙を、上げている。しかし色が、澄んでいた。炭を燃やす、濁った灰色では、なかった。
「あれが、そうか」
ヴェンツェルが、顎をしゃくりながら、低く、言った。
■2.暖炉石の、配給
翌朝、一行は、市場に、入った。
フォルスの市場は、活気に、満ちていた。露店の列が、続き、商人たちが、大声で、呼び込みをしている。子どもが、走り回り、老婆が、笑い、若い男が、積み荷を、軽々と、降ろしている。北の寒村によく見られる、冬の陰鬱さが、ここには、なかった。人々の顔が、明るかった。頬が、赤く、目が、生き生きと、していた。
店の軒先に、それは、置かれていた。握りこぶし大の、灰色の石。縁に沿って、橙色の光が、ほんのり、滲んでいる。複数の店に、同じ石が、同じように、飾られていた。
「旅の方ですか」
声をかけてきたのは、年配の丸顔の女性だった。その石を、鍵へ、差し出した。「管理者様から、毎月一日に、広場で、配られるんですよ。一家に一個。これさえあれば、どんな冬も、怖くない」
「買うのですか」
「いいえ、いいえ」女性は、首を、ふった。「配給です。ただで、もらえます。管理者様が、みんなに、くださるの。本当に、ありがたいことで」
鍵は、石を、手に取った。温かかった。掌に、じわりと、熱が、広がる。心地よい、温度だった。冬の山道を歩いてきた指先が、じんわりと、解けていく感覚があった。
『この感触は、本物だ。作られた、幻では、ない。だから、逃れられない。怖いものが、気持ちよかったら——人は、怖さを、忘れる』
「この石、どこで、作られているんですか」
女性の顔が、少し、曇った。「さあ……管理者様のところから、来るんです。作り方は、誰も、知らなくて。でも、毎月、ちゃんと、届くから、心配したことも、ないですよ」
鍵は、石を、返した。礼を言って、その場を、離れた。
少し離れた場所で、腰の曲がった、老人が、石を、受け取っていた。両手で、恭しく、包み込んで、深々と、頭を、下げた。「ありがとうございます、ありがとうございます」と、繰り返しながら、誰もいない、空へ、礼をしていた。誰かが、見ているわけでは、なかった。それでも、老人は、礼を、やめなかった。
別の露店では、若い夫婦が、笑いながら、石を、見せ合っていた。「今月も、来たね」「よかった。これで、子どもたちも、安心だ」。その笑顔は、本物だった。作られた、表情では、なかった。
クロードが、耳元で、静かに、言った。「石が、なければ、どうなる」
答えは、聞かなくても、わかった。
市場の端の掲示板に、貼り紙が、あった。「隣村カラクは今冬、配給が停止された。三名が、凍死した」。管理者が、供給を、止めた結果だった。理由は、書かれていなかった。
鍵は、周囲を、見回した。市場を、行き交う、人々が、その貼り紙の前を、誰も、立ち止まらずに、過ぎていった。当然のこととして、視線も、向けずに。
鍵の手が、冷えた。さっきの石の、温かさを、思い出した。
『恐怖で縛っているわけじゃ、ない。でも、縛られている』
■3.ヴェンツェルの、苦い顔
その夜、一行は、宿の一室に、集まった。
壁の凹みに、暖炉石が、置かれていて、部屋は、ほどよく、温まっていた。外は、北風が、唸っている。しかし室内は、静かで、安全で、暖かかった。鍵は、その安心感が、うまく、消化できなかった。快適であることが、こんなにも、重たく、感じたのは、はじめてだった。
「技術の塔だ」
ヴェンツェルが、テーブルを、指で、ゆっくりと、叩きながら、言った。「帝国が、魔道具の製造と流通を、技術の塔に、独占させている。民は、塔が、なければ、灯りも、水汲みも、農作業も、できない。——ここと、構造が、同じだ」
その声に、苦さが、あった。ヴェンツェルは帝国の出身だった。自分たちの国が、同じことを、やっていると、気づいた者の、顔だった。しばらく、誰も、何も、言わなかった。
ヴェンツェルは、テーブルに、視線を、落とした。帝国に、生まれ、帝国の恩恵を、受けて、育った。その国が、同じ構造で、民を、縛っている。口には、しなかった。しかし、その沈黙が、言葉より、重かった。
アリアは、今日の市場で、見た、あの笑顔を、思い出していた。商人の家に、育った彼女には、わかることが、あった。人は、利益と、感謝を、混同する。与えてくれる者に、感謝し、感謝するから、問いを、立てない。問いを、立てない民は——管理しやすい。
「ただ」と、クロードが、言った。「塔の場合は、民も、薄々、わかっている。搾取されている、と。不満が、積もっている。ここは、違う」
アリアが、首を、かしげた。「何が、違うの」
「ここの人々は、幸せそうだった。管理者に、感謝していた。憎んでいない。崇めている。シャムールは恐怖で縛ったから、民は苦しみ、やがて反発した。しかしここでは——」
クロードは、窓の外を、見た。夜の都市に、温かな光が、点々と、灯っている。「——快楽で縛られた民は、鎖を、鎖と、思わない。気づかないまま、依存を、深めていく」
沈黙が、落ちた。
「解放しようとすれば」と、ヴェンツェルが、続けた。「民が、抵抗するかもしれない。自分たちの快適さを、奪うな、と」
「その通り」と、クロードは、答えた。「だからこそ、この管理者は、シャムールより、ずっと、手強い。恐怖は、見えるから、戦える。快楽は、見えないから、戦えない」
鍵は、ゆっくりと、ノートを、取り出した。
■4.鍵の、ノート
夜が、深まった。
仲間たちが、眠りについた後、鍵は、ひとり、ろうそくの前に、座っていた。暖炉石の橙色の光が、ゆらゆらと、ページを、照らす。外で、風が、鳴った。しかし部屋の中は、静かで、温かかった。
鍵は、ペンを、持った。
書いた。
「シャムールは、恐怖で、水を、独占した。ここは、快楽で、暖かさを、独占している。でも、根っこは、同じ——情報と資源の独占。仕組みを、変えれば、解ける」
書いて、止まった。
『でも、どうやって』
最初に、頭に、浮かんだのは、管理者と、交渉することだった。しかし、すぐに、退けた。交渉が、通じる相手なら、二百年も、続けていない。次に、塔に、忍び込んで、製法の記録を、手に入れることを、考えた。しかし、それも、難しかった。そもそも、塔に、入れるかどうかも、わからなかった。三つ目の案を、考えたとき、鍵の手が、止まった。『代替手段だ。石が、なくても、暖かく、過ごせるものが、あれば、いい。選択肢を、渡せば——依存は、成り立たなくなる』
暖炉石の作り方は、管理者だけが、知っている。材料も、製法も、流通経路も、すべて、独占されている。民に教えれば、自立できる。しかし管理者は、教えない。教えないことが、支配の核心だった。情報の壁が、資源の壁を、守っている。仕組みの外側に、出られない民は、ただ、感謝するしか、なかった。そしてその感謝こそが、管理者を、守る、盾に、なっていた。
鍵は、ペンを、走らせた。
「情報の独占を、解く。製法を、暴く。あるいは——代替手段を、見つける。石がなくても、暖かく過ごせる技術を。民に、選択肢を、渡す」
クロードが、声を、出さずに、そばに、いた。眠らない者の、静けさで、部屋の隅に、青白い光を、細く、保っている。鍵には、わかる。クロードは、今夜も、ずっと、考え続けている。「眠らなかった管理者」の、声と、向き合いながら。昨夜から、ずっと、その気配が、消えていない、とクロードは、言っていた。
「クロード」と、鍵は、言った。「管理者の、本体は、どこにある」
クロードは、答えた。「都市の中心に、塔がある。昼間、見えなかったか。ほかの建物より、一段、高い塔が。あそこに、いる」
「明日、行く」
「行ける」と、クロードは、言った。「入れるかどうかは、わからない。ただ——」
わずかな、間が、あった。
「——管理者は、われわれを、すでに、知っているかもしれない」
鍵は、ノートを、閉じた。暖炉石の光が、部屋を、包んでいる。心地よかった。温かかった。だからこそ、恐ろしかった。
『この温かさは、鎖だ。気持ちのいい、鎖だ』
鍵は、もう一度、ノートを、開いた。ページの末に、短く、書き添えた。「明日の朝——登録窓口を、見に行く(アリア)。塔へ(鍵、クロード)」。書いて、また、閉じた。
(第91話へつづく)
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