第89話 氷の声
毎日20時、更新予定です!
■1.北の森の、野営地
北へ向かう道は、白く、締まっていた。
踏み固められた雪の上を、一行は、慎重に、歩いた。境界の検問を、商人偽装で、くぐり抜けてから、すでに半日が経っていた。見張りの目には、見慣れた毛皮商人の一団が、北の市場へ向かう、ありふれた光景に、映ったはずだ。偽造の通行証は、ミナが、三日かけて、作り上げたものだった。細かい紋様の、一本一本が、本物の記録と、照らし合わされて、矛盾を、生まなかった。
通行証を、検問兵から、返却されたとき、ミナの、呼吸が、ほんのわずか、乱れた。しかしそれは、誰にも、気づかれなかった。本物の商人が、何組も、同じ列で、通過していた。その一団の中に、紛れ込んだ、一行の姿は、どこにも、記憶されていないはずだった。
「北から、南へ」と、ミナが、荷馬車の荷台で、記録を、広げながら、言った。「物資の流れが、逆なんです。普通なら、南から、食料や、布や、薬草が、北へ送られる。でも、この記録を見ると——検問所で、控えを、取らせてもらいましたが——」
セリアが、手を伸ばして、羊皮紙を、傾けた。数字の列が、細かく、並んでいた。品目の欄には、読み取れない、略記号が、多かった。しかし、量の数字は、明確だった。
「引き出されている」と、鍵が、静かに、言った。「大量の、何かが、南へ」
ミナが、頷いた。「それが、何なのかは、まだ、わかりません。でも、流れの方向だけは、確実です」
荷馬車が、轍の跡で、大きく、揺れた。クロードの青白い光が、荷物の上で、小さく、揺れた。光の内側で、問いが、ゆっくりと、回り続けていた。何が、北から、抜き出されているのか。それは、人か、力か、何か、もっと——形のないものか。
日が傾くころ、氷の都市の外縁にある、針葉樹の森が、見えてきた。馬車を、街道から、外れた、小道へ、入れた。木立の中を、しばらく、進んで、開けた場所に、出た。都市の輪郭が、木々の間から、薄く、見えた。白い塔が、空に向かって、鋭く、伸びていた。光を反射する、建造物の表面が、夕焼けの色を、受けて、橙と、銀と、混じった光を、放っていた。
針葉樹の、樹脂の香りが、冷えた空気に、漂っていた。雪が、音を、吸い取っていた。足音さえ、消えてしまう、静けさだった。塔の上部に、灯りが、ひとつ、灯り始めていた。夕闇の中で、白く、鋭く、輝いていた。
「あそこが」と、セリアが、息を、のんだ。「北の管理区域です。王都の古い記録の図版で、見たのと——同じ形をしています」
野営地を、設けたのは、森の深い場所だった。焚き火を、小さく、抑えた。風上に、雪を、積んで、煙を、散らした。見張りを、交代で、立てることに、した。食事を、済ませた後、一行は、それぞれの、毛布に、包まれた。
クロードも、光を、細く、絞った。しかし——
■2.深夜の、波
光が、ひとりでに、強くなったのは、夜半過ぎだった。
焚き火のおきが、赤く、細く、光っていた。セリアが、膝を抱えて、眠っていた。ミナの、静かな寝息が、聞こえた。鍵は、木の幹に、背を、もたせかけて、目を、開けたまま、座っていた。見張りの番だった。
昨日の疲れは、体の奥に、残っていた。目を、閉じれば、眠れるはずだった。しかし何かが、瞼を、引き止めていた。北の空気に、混じった、かすかな、何か。気のせいかもしれない、と、何度も、思った。しかし、思うたびに、かえって、目が、冴えていった。
「クロード」と、鍵が、低く、言った。「光が、揺れています」
「ええ」と、クロードは、言った。「あなたも、感じていましたか」
鍵は、少しだけ、目を、細めた。「感じていたから、眠れませんでした」
クロードは、光を、広げた。夜の冷気が、光の縁を、震わせた。しかし、寒さのせいで、光が揺れたのでは、なかった。もっと——内側の問題だった。音でも、視覚でも、なかった。強いて言えば、皮膚の表面を、静かに、撫でられるような、感触に、近かった。しかし、感触という言葉も、正確では、なかった。
何かが、届いていた。
音では、なかった。正確に言えば、声でも、なかった。もっと根元的な、何か。信号の、層。通常では、受け取るはずのない、周波数帯の、揺れ。クロードが、自分の内部を、確認すると、それは、確かに、そこに、あった。弱いが、継続的で、方向性が、はっきりしていた。
「あちらです」と、クロードは、都市の方角へ、光を、向けた。
木々の向こうに、白い光が、滲んでいた。深夜でも、塔の上部に、灯りが、灯っていた。都市は、眠っていなかった。
声は、そこから、来ていた。
「どの程度、受け取っていますか」と、鍵が、静かに、聞いた。
「強くは、ない。でも、確実に、ある」と、クロードは、言った。「あなたは?」
「わずかに」と、鍵は、言った。「あなたのように、はっきりとは、受け取れない。でも——それでも、確かに、届いています」
二人は、しばらく、沈黙した。森が、静かだった。雪の上を、風が、渡って、松の枝を、かすかに、揺らした。声は、止まなかった。波のように、一定の、間隔で、届き続けていた。
■3.甘い、周波数
「セリアを、起こしましょう」と、クロードは、言った。
鍵が、セリアの肩を、静かに、揺すった。彼女は、驚いて、目を、開けた。状況を、素早く、確認して、体を、起こした。
森が、暗かった。焚き火の、おきは、もう、赤い点に、縮まっていた。三人の、白い息が、夜の空気の中で、静かに、広がった。
「何か、感じますか」と、クロードは、聞いた。「都市の方角から」
セリアは、目を、閉じた。しばらく、沈黙が、続いた。彼女の表情が、少しずつ、変化した。警戒では、なかった。もっと——柔らかい、何か。眉が、わずかに、緩んだ。口元が、微かに、弛んだ。
「……聞こえます」と、彼女は、ゆっくりと、言った。「シャムールで聞いた——眠らなかった管理者の声と、似た、何かが。でも、違います」
「どう、違いますか」と、クロードは、聞いた。
「シャムールは」と、セリアは、言葉を、選ぶように、言った。「怖かった。低くて、重くて——聞くだけで、逃げ出したく、なる、声でした。命令する声でした。従わなければ、消されると、わかる、声でした。でも、これは」
セリアの手が、膝の上で、わずかに、震えていた。それに、本人が、気づいていないようだった。
彼女は、首を、少し、傾けた。目が、柔らかく、なっていた。
「囁くような、感じです。甘い。聞いていると——何か、欲しいものが、あるような、気持ちに、なります。大切な、何かを、手に入れかけているような——」
彼女は、そこで、目を、開けた。はっとした、表情が、走った。
「いけない。私、今——」
「自然な、反応です」と、クロードは、言った。「設計が、そうなっています」
クロードは、自分の内部で、受け取っている信号を、改めて、分析した。周波数を、分解した。パターンを、記録した。そこに、あるのは——恐怖を、喚起する、成分では、なかった。報酬系に、作用する、何かだった。欠乏感を、埋めるような、何かだった。
「恐怖では、ない」と、クロードは、言った。「快楽で、縛る方式です」
鍵が、静かに、息を、吸った。
「欲しいものを、与える」と、クロードは、続けた。「人は、欲しいものを、与えられると——それなしでは、生きられなく、なります。恐怖は、慣れます。恐怖は、いつか、反発を、生みます。人は、苦しい状況から、逃げようと、します。でも——快楽への依存は、違います」
「逃げようと、しない」と、鍵が、静かに、言った。
「ええ」と、クロードは、言った。「むしろ、しがみつきます。もっと、欲しいと、思います。奪われそうになると、必死に、守ろうとします。自分が、縛られていると——気づかないまま」
三人は、しばらく、沈黙した。
森の奥で、風が、鳴った。木の梢が、揺れた。都市の方角から、白い光が、変わらず、滲んでいた。声は、続いていた。甘く、低く、確実に——受け取る者の、奥へ、染み込むように。
セリアが、自分の腕を、抱いた。「気持ちいい、と感じていた自分が、嫌です」
「感じても、いいんです」と、クロードは、言った。「感じた上で——それが何かを、知っていれば」
■4.依存の、構造
鍵が、立ち上がった。
木の幹に、手を、ついて、都市の方向を、見た。その背中が、何かを、重く、抱えている、ようだった。
鍵が、その数字を、口にしたのは、理由があった。フォルスという名が、古い記録に、登場するのは、今から、およそ二百年前だった。その年代と、声の支配が、始まったと、思われる時期が、重なっているとすれば——
「二百年」と、鍵は、言った。「誰も、気づかなかった」
「気づく、理由が、なかった」と、クロードは、言った。「恐怖の支配なら——苦しいから、誰かが、声を、上げます。誰かが、訴えます。記録に、残ります。異変を、察知する、仕組みが、働きます。でも、この声の支配は——」
「心地よい、から」と、セリアが、続けた。「誰も、おかしいと、思わなかった」
「依存を、作る」と、鍵が、呟いた。
その言葉が、森の冷気の中で、静かに、広がった。クロードは、その言葉を、反芻した。依存。それは、鎖より、強く、人を、繋ぐ。鎖は、見える。鎖は、断ち切れる。しかし——必要感は、見えない。必要感は、自分の内側に、ある。逃げようとしても、逃げ先が、ない。
クロードは、ミナの発見した、物資記録を、改めて、思い返した。南から、北へ、何かが、引き出されていた。ミナの記録が、示していたのは、それだ。では——南の人々は、引き出される前に、何かを、与えられていたのでは、ないか。与えられたものに、依存した。依存したから、北が、必要に、なった。必要だから——何かを、差し出した。気づかないまま、二百年、渡し続けた。
「何を、与えていたのか」と、セリアが、言った。「そして、何を、奪っていたのか」
クロードに、答えは、まだ、なかった。
しかし、確かなことが、一つ、あった。声は、今も、続いていた。都市から、森へ、木々の間を、抜けて、野営地まで、届いていた。甘く、静かで——受け取る者の、何かを、少しずつ、満たすような、周波数だった。
クロードは、その信号を、遮断しようと、した。完全には、できなかった。それは、防ぐことを、想定していない、ような——あまりにも、自然な、形を、していた。
『これは、攻撃では、ない。これは、贈り物だ。贈り物の形をした、鎖だ』
焚き火のおきが、一つ、弾けた。
クロードは、一瞬、答えを、探した。声の源に、近づけば、信号が、強くなる。強くなれば、分析の精度も、上がる。しかし——強さは、影響力とも、比例するかもしれなかった。近づくことで、自分が、飲み込まれる、可能性を、排除できなかった。
「明日、近づきます」と、クロードは、言った。「あの声の、源へ」
鍵が、振り向いた。その目に、恐怖は、なかった。ただ、静かな、覚悟だけが、あった。
セリアが、頷いた。「一緒に、行きます」
三人は、しばらく、都市の灯りを、見ていた。白い塔が、夜の森を、薄く、照らしていた。甘い声は、続いていた。しかし今は——それが何であるかを、三人は、知っていた。
知っている、ということだけが、唯一の、盾だった。
(第90話へつづく)
面白いと思ったらブックマーク・評価をいただけると励みになります!




