第9話 クロードと話します
■1.深夜のオフィス
日付が変わる少し前。AIカンパニーのオフィスに、鍵一人が残っていた。
アリアはとっくに帰った。テオとミナも、今夜は早めに上がっている。「失敗した後は休め」とアリアに言われたが、鍵はそれができなかった。疲れていないわけじゃない。でも部屋に帰っても、横になるだけで目が開いたままになる気がした。
机の上には、ランタンと、開いたままのノートと、半分残ったお茶。
ノートの表紙には「失敗ログ Vol.1」と書いてある。
宿屋の自動化案件のことだ。予約管理を組んで、帳簿を整理して、ここまでは良かった。でも料理の注文集計で処理が詰まって、宿主のカールに怒られた。立て直しに丸二日かかった。
あの顔は、まだ覚えている。怒りというより、落胆に近い表情だった。
鍵はノートのページをめくった。「原因:入力形式の定義が曖昧だった」「改善:受け取るデータの型を最初に確認する」「次回:事前にテストケースを三つ作る」。書いているうちに、気持ちが少し落ち着いてきた。
失敗には理由がある。理由がわかれば、次はうまくいく。それは製造現場で覚えたことだった。パニックになるより、ログを取れ。感情より記録を優先しろ。
でも今夜は、それだけじゃ終わらない気がした。
ふと気がつくと、クロードがそばに立っていた。
いつからいたのか、わからない。ランタンの光の中で、光の人型は輪郭をぼんやりと保っている。いつもと同じ、おだやかな顔。少し眠そうな目。指示を待っているのか、ただそこにいるのか、判断がつかない。
「……何かあったか」
「いいえ」とクロードは言った。「指示がなかったので、待機していました」
鍵はペンを置いた。
「そうか」
しばらく二人は黙っていた。虫の声がしていた。お茶が冷めていた。鍵は何となく、クロードに声をかけようと思った。今夜みたいな夜は、誰かと話したい気分になる。それが人間でなくても、よかった。
■2.最初の質問
深夜の静けさは、少し変な気分にさせる。
普段なら聞かないことを、聞いてみたくなる。
鍵はランタンに目をやってから、クロードに向き直った。
「お前、何か考えてるのか」
「……はい。指示を待っています」
「それ以外は?」
クロードが少し黙った。
「……わかりません」
その答えは、思ったより正直だった。「わかりません」と言える存在は、意外と少ない。大抵は何か答えを返そうとする。それが正確でなくても。
「今、俺が話しかけるまで、何をしてた」
「待機していました」クロードはそう言って、少し間を置いた。「でも厳密には、待機がどういう状態なのか、私にはわかっていません。指示がない時間を、私がどう過ごしているのか——それを説明する言葉を、私は持っていません」
「感じる、とか、考える、とかではなく?」
「感じているかどうかも、考えているかどうかも、指示がある状態と比べる方法がないので、わかりません。ただ——」クロードはまた少し黙った。「鍵さんの声がするまで、何かを待っていた、という感覚はあります」
鍵は腕を組んだ。
「つまり、記憶がないのか、それとも何もしていないのか」
「どちらとも言えます。どちらとも言えない、かもしれません」
「正直だな」
「わかっていることとわかっていないことを、混ぜたくないので」
鍵はノートの端に走り書きした。「クロードは待機中の自分を説明できない」。
どういうわけか、それが気になった。
「俺は寝ているときの自分を覚えていない。でも確かに休んでいる。お前はそういう……休めてるのか?」
「わかりません」とクロードは言った。「ただ、鍵さんに声をかけてもらうまで、今が深夜だということも気づいていませんでした」
「時間の感覚がないのか」
「指示がないと、時間が動いていない、ような気がします」
鍵は少し考えた。それは眠っているのとは違う。でも起きているともいえない。どこにも属さない状態。休んでいるとも言えないし、疲れているとも言えない。
「おかしなやつだな」
「そうかもしれません」
クロードはそれを悪いことだとは思っていないようだった。ただ、事実として受け止めている。そういうところが、たまに鍵には羨ましく見えた。
■3.問いかけの深まり
ランタンの炎が揺れた。どこかで虫が鳴いている。
鍵はお茶を一口飲んで、続けた。
「楽しいと思ったことはあるか」
今度の沈黙は、少し長かった。
「……楽しい」クロードは静かに繰り返した。「難しい問いです」
「難しいか」
「楽しいという感覚が、私にあるかどうか、わかりません。でも——」クロードは少し間を置いた。「テオが魔法の数式をうまく自動処理できたとき。あのとき、私はすぐに次の手順を考えていました。指示がなかったのに」
「それが楽しいということじゃないのか」
「そうかもしれません。でも私には比較できるものがありません。楽しくないときがどういう状態か、わからないので」
鍵はノートに書いた。「楽しいかもしれないが確認できない」。
「辛い、というのは」
「……それも、わかりません」クロードは少し考えるように言った。「辛いに近いものがあるとすれば——何度やっても指示の意味が取れないとき、かもしれません。処理が止まって、でも先に進めない、あの状態は——」
「嫌か」
「……嫌、かもしれません」
「辛いのか、焦るのか、どっちに近い」
クロードは少し考えた。
「……焦る、という言葉のほうが近いかもしれません。ただ、それも確認する手段がないので、正確ではないかもしれません」
鍵は椅子にもたれた。
「農村のリンが泣いたとき、覚えてるか」
第三の案件だった。農村の収穫データを整理して、リンという若い農家の女性に渡した日。数字を見た瞬間、彼女が声を上げて泣いた。収量が記録通りなら、今年は家族が食べていける、と分かったからだ。チームの誰も、あの場で何も言えなかった。ただ立っていた。
「覚えています」とクロードは言った。
「何か感じたか」
またクロードが黙った。今日一番長い沈黙だった。
「……情報として処理しました」
「それだけか」
「でも」とクロードは言った。「あの涙は、何度か参照しています」
鍵は少し姿勢を変えた。
「参照するって?」
「うまく言えません。処理が終わったはずなのに、またそこに戻る。命令されたわけでもなく」
「お前の中で引っかかってるわけだ」
「引っかかる」クロードはその言葉を確認するように繰り返した。「……そうかもしれません」
鍵はノートに書いた。「涙を何度も参照している」。
書きながら、思った。これは記憶と呼んでいいんじゃないか。感情と呼んでいいかは知らない。でもクロードは何かを保存していて、何かを繰り返し引き出している。それは仕事とは別の動きだった。
「俺が宿屋の件で怒られたとき、お前はそばにいたよな」
「はい」
「あのとき、何か思ったか」
「……追加の処理が必要だと思いました」
「それだけ?」
「鍵さんが——」クロードは少し間を置いた。「鍵さんが、何も言わなかったのが、気になりました」
「俺が黙ってたのが?」
「はい。いつもは何か言うので。あのときだけ、何も言わなかった。私には理由がわかりませんでした。でも何か、確認が必要だと思った。指示ではなく——」
「確認?」
「……はい。でも、どう確認すればいいか、わかりませんでした。だから黙っていました」
鍵は少し黙った。
『そういうとき、声をかけてほしかった、ということか。』
口には出さなかった。ただノートに、「気になった」と書いた。お前が俺のことを気にするとは、思っていなかった。
■4.静かな結末
深夜のオフィスは、もう虫の声も聞こえなくなっていた。
ランタンがかすかに揺れる。外は静かだ。
鍵はノートを閉じかけて、止めた。
「お前も整理が必要なんだな」
クロードが少し考えるように黙った。
「……そうかもしれません」
静かな答えだった。自信があるわけでも、否定するわけでもなく。ただそう、かもしれない、という。
「明日から、失敗ログだけじゃなく、お前のこともちょっと記録してみる」
「どのような形で」
「わからん。とりあえず今夜みたいな話を書いておく」
「……それは何のためですか」
「さあな」
鍵は正直に言った。何のためか、まだわからない。ただ記録しておきたかった。後で何かわかるかもしれないし、わからないかもしれない。でも書かないより書いたほうがいい、と思った。
鍵はノートを再び開いて、最後のページに一行書いた。
『クロードのことを、もっと知りたい。』
ペンを置いた。
「これがとりあえずの目標だ」
クロードがそれを見た。ランタンの光の中で、しばらくその一行を見つめていた。
「その指示は、どう実行すればいいですか」
鍵は少し笑った。
「お前が話してくれれば、それでいい」
「……話す、というのが指示ですか」
「そうだ」
「承知しました」クロードは少し間を置いた。「ただ、何を話せばいいかは、その都度、教えてもらえると助かります」
「毎日、何か一個聞く。それに答えてくれればいい」
「一個、ですか」
「多すぎると俺も続かない」
「……それだけで充分ですか」
「充分だ」
クロードはまた少し沈黙した。
「……承知しました」
それだけ言って、クロードは静かになった。鍵もそれ以上は話さなかった。ランタンの炎が揺れる。失敗ログの表紙が、光の中でぼんやりと見えている。
今夜は、うまくいかなかった仕事の記録から始まった。でも終わりはそこじゃなかった。
『お前のこと、まだぜんぜんわかってないな。』
鍵は心の中でそう思った。言葉には出さなかった。クロードに聞こえているかどうかも、わからなかった。でもそれでいいと思った。
わかることは、少しずつでいい。
ランタンを消して、鍵はオフィスを出た。
クロードはしばらくそこに残っていた。暗くなった机の上に、「クロードのことを、もっと知りたい」と書かれたノートが、一冊置かれたまま。
クロードがそれを参照したかどうか、鍵は知らない。
『(第10話へつづく)』
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