第10話 AIカンパニー、創業100日
■1.壁の紙
朝がくるたびに、鍵はあの壁を確認する。
ランタンをひとつ持ち、まだ誰も来ていないオフィスに入る。靴音が石床に響く。窓の外はまだ薄暗く、通りには朝市の準備をする商人たちの声が遠く聞こえる。鍵はランタンを棚の上に置き、正面の壁へ向かった。
そこには紙が貼ってある。
縦長の粗紙を継ぎ足した案件ログだ。アリアが最初の依頼を取ってきた日から、ミナが案件名と完了日を几帳面な字で書き足してきた。インクの色が微妙に違う。日によってペンを替えているらしい。
鍵は端から順に読んだ。
1.農村リン帳簿自動化(完了)
2.宿屋レン予約管理(完了)
3.北区商店街価格台帳(完了)
4.王城食材納品記録(完了)
5.馬具職人テオ在庫(完了)
6.薬師ハナ処方記録(完了)
7.造船所材木ログ(完了)
8.第三区宿屋連合——二重予約騒動(失敗・要改善)
9.復旧支援:第三区修正版(完了)
10.染物屋ルイ配合記録(完了)
11.水路補修スケジュール(完了)
12.王城医務室患者記録(完了)
13.冒険者ギルド窓口台帳(進行中)
13件。
そのうち1件が失敗扱いで、1件がまだ動いている。残りの11件は完了の印がついている。
『最初の案件は農村リンさんだったな。』
あの日、アリアが荷馬車で連れていった農村。泥だらけの子どもたちと、帳簿を抱えて困り顔のリンさん。クロードが一時間かけて自動集計の仕組みを作り、翌朝には数字が揃っていた。報酬は銅貨20枚だった。
そこから100日が経った。
100日前の自分は、この壁の紙を思い描いていなかった。ノートの端にAIカンパニー設立計画と走り書きして、「やってみるか」と夜空に向かって言っただけだった。それが今、13件分の記録になって壁に貼られている。
鍵は壁のいちばん下の余白を見た。14件目はまだ書かれていない。でも白紙がそこにある。
■2.報告会
「今日は報告会をします」
アリアがそう言い出したのは昨夜のことだった。いつも通り作業を終えて片付けをしていたとき、急に振り返って宣言したのだ。
「100日なので。全員集合で、振り返りをやりましょう」
翌朝、5人がオフィスのテーブルを囲んだ。
鍵、アリア、テオ、ミナ、クロード。いつもは案件ごとに動いていて、5人がこうして揃う機会は多くない。テオは肩をやや縮め、ミナは手に何かを抱えていた。巻いた紙だ。
「ミナ、それは何ですか」
アリアが聞くと、ミナは少し赤くなりながら広げた。
「……集計グラフです。案件別の作業時間と、売上と、修正件数を、日ごとにまとめました」
手書きだった。棒グラフと折れ線グラフが丁寧に書き込まれていて、凡例には色分けのためにインクが2色使われている。目盛りの字が小さくて、ルーペで見たくなるほど細かい。
「……手書きで」鍵は思わず繰り返した。
「クロードさんに自動化してもらおうかと思ったんですけど、最初の100日分は自分で書きたくて」
クロードが静かに言った。「よく書けています」
「ありがとうございます」
アリアが仕切り直した。「では始めましょう。振り返りは三つの軸で。売上、失敗、学び。順番に」
売上はアリアが読み上げた。合計で銀貨23枚と銅貨14枚。初月が銅貨20枚だったことを考えると、規模は10倍以上になっている。それでも王都の中堅商家と比べればまだ小さい。アリアはそこを強調しなかった。「次の100日の基準にします」とだけ言って、先に進んだ。
失敗はテオが担当した。
「第三区の件です」テオは珍しく正面を向いて話した。「宿屋が5軒あって、予約台帳を共有管理にしたんですが、僕が同期のタイミングを確認せずに進めてしまって」
「あれはテオさんだけのミスじゃないよ」ミナが言った。「私が最初の確認表を作るとき、宿屋ごとの更新頻度を聞いていなかった」
「ふたりとも」鍵が言った。「失敗ログに書いてもらったとおり、原因は手順の省略です。どちらのせいでもない。仕組みの問題として捉えてます」
テオが少し息を吐いた。「……はい」
「ただ」鍵は続けた。「その後の対応は早かった。翌日には修正版を持っていって、宿屋の全員に謝りに行ったでしょう。あそこが良かった」
「謝りに行ったのはアリアさんと一緒に……」
「でも行った。それだけのことです」
学びはクロードが項目を読み上げた。「指示の粒度に関する基準を作った」「修正依頼への対応フローを整備した」「案件受注時の初期ヒアリング項目を追加した」——5項目。全部、失敗をきっかけに変えたことだった。
「ちゃんと溜まってますね」とアリアが言った。「最初は3項目もなかった」
テオが手元のメモを眺めながら言った。「最初の3ヶ月って、こんなにいろいろやってたんですね。振り返ってみないとわからないもんで」
「振り返るために書いてきたので」ミナが言った。「書いてないと、全部流れてっちゃう」
鍵はその言葉をノートに書き留めた。自分では言語化していなかったが、そういうことだと思った。ミナの目線は、案件を数字として捉えると同時に、出来事として残そうとしている。採用のとき、数字が好きな人だとわかっていたが、それだけではなかった。
■3.それぞれへの言葉
報告会が終わると、アリアが言った。「鍵さん、何かありますか」
鍵は少し考えてから、ひとりずつ見た。
「アリアへ」
アリアが背筋を正した。
「最初の夜、中庭で声をかけてきたとき、私はまだコード魔法が何に使えるかわかっていなかった。あなたが『お金になりませんか』と言ってくれなかったら、たぶん城の中で調査だけして終わっていた。戦略を考えられる人がいてよかった」
アリアは何も言わなかった。ただ小さく頷いた。目元が少し動いたような気がしたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「テオへ」
テオが顔を上げた。
「現場で粘れる人間がいると、仕事の質が変わる。薬師ハナさんの案件で、処方記録が途中で止まりかけたとき、あなたが夜に残ってハナさんと話し続けた。私もクロードも、現場との信頼関係はゆっくりにしか作れない。テオがいなかったら2件は失っていた。現場力が会社を救った、というのが私の評価です」
テオは「……はい」とだけ言って、視線を下に落とした。照れているのか、堪えているのか、どちらかわからない顔だった。少し経ってから、また顔を上げた。「……ありがとうございます」と言い直した。
「ミナへ」
ミナが両手でグラフを持ち直した。
「あなたが来てから、私が見えていなかったものが見えるようになった。時間のかかった作業、繰り返しているミス、稼ぎが薄い案件——全部、数字を書いてもらって初めてわかった。見えていない問題は解けない。数字が見えるようになった、それはこの会社にとって大きい」
「……あの、グラフ見てもらえてたんですか」
「毎週見てます」
ミナは少し驚いた顔をして、それからぱっと笑った。隣のテオが「毎週見られてたの」と小声で言い、ミナが「知らなかった」と返した。
「クロードへ」
クロードは静かに立っていた。いつもと変わらない表情だった。
「……お前がいなければ何もできなかった」
それだけだった。
クロードは数秒、黙っていた。
「記録します」とだけ言った。
それ以上の言葉はなかった。でもそれで充分だと思った。クロードはいつもそういう存在だ——言葉を増やさない。必要なことだけを言う。
■4.宰相への報告書
午後、エドワード宰相からの使者が来た。
「事業報告書を提出せよ、との仰せです。冒険者ギルドの案件にも関わっているならば、なおのこと。様式は自由にて」
使者が去ると、アリアがテーブルに戻って腕を組んだ。「来ましたね」
「来ましたね」鍵も繰り返した。
鍵はクロードを見た。「まとめられますか」
「案件ログと失敗ログと売上記録があれば、できます。ただ——」クロードが言った。「宰相に何を伝えるかは、私には判断できません。それは鍵さんが決めることです」
「そうですね」
鍵は少し考えた。エドワード宰相は「続けてみろ」と言って、それきり直接の干渉はしてこなかった。報告書を求めてきたのは、成果を試すためか、あるいは単純に記録を残したいのか。どちらにしても、体裁だけ整えた書類を出すのは違う気がした。
「正直に書きましょう。失敗も含めて」
アリアが少し眉を上げた。「失敗も?」
「失敗の記録と、そこから変えたことを書いて出す。それで評価が下がるなら、もともと長くは続かない関係です」
アリアはしばらく黙って、それから「わかりました」と言った。
クロードが静かに書き始めた。事業概要、案件リスト、月別売上の推移、第三区の件と改善内容、現在の対応フロー。全部で3ページ。アリアが見直し、テオが数字を確認し、ミナが最後に誤記を直した。夕刻前に使者のもとへ届けた。
翌日、使者が戻ってきた。
「宰相閣下より、お言葉を預かっています」
一枚の羊皮紙だった。短かった。
『内容確認した。失敗の記載を評価する。——次もやれ。』
アリアが読み上げて、全員しばらく黙った。
「……褒められてる、ですよね」テオが言った。
「褒められてます」鍵は言った。「宰相なりに」
「なりに、というのが大事なんですよね」ミナが小さく言った。「あの人、素直には言わないから」
「そういう人のほうが、長続きするんです」アリアが言った。「最初から大げさに持ち上げる人は、次の失敗でそれ以上に落としてくる」
鍵はそれを聞きながら、エドワード宰相の顔を思い出した。最初に会ったとき「続けてみろ」と言った目は、試していた。あれから100日、試し続けていたのかもしれない。それで出てきた言葉が「次もやれ」だった。
■5.次のフェーズへ
夕方、テオとミナが先に帰った。
「また明日」「お疲れ様でした」
ふたりの足音が通りへ消えて、オフィスが静かになった。アリアが窓の外を見ていた。夕暮れの王都が、橙色に染まっている。屋根の上を鳥が横切った。
「鍵さん」
「なんですか」
「冒険者ギルドの案件が終わったら」アリアはゆっくり言った。「次は王国の外に行きたいと思っています」
鍵はペンを置いた。
「隣国ですか」
「隣国でも、遠い街でも。ギルドのネットワークは王国の外にもつながっている。あそこの案件を足がかりにできれば、話を持ちかける先はある」アリアは少し間を置いた。「ここだけの話をしていると、ここだけの会社になる。私はそれが少し怖い」
アリアが「怖い」と言うのを、鍵は初めて聞いた気がした。いつも先を見て、手を打つ人間が、立ち止まってそう言った。窓の外の光が顔に当たっていて、普段より少し違う表情をしていた。
「急がないです」鍵は言った。「でも、いつかは」
「いつかは」アリアは繰り返し、少し笑った。「それで充分です」
アリアが席を立ち、帰り際にランタンをひとつ残した。「戸締まり、よろしくお願いします」
扉が閉まった。
オフィスに鍵とクロードだけが残った。
しばらく静かだった。外の通りから、夕市を畳む商人たちの声が聞こえた。鍵はノートを開いて、何も書かなかった。ペンだけ持って、テーブルの木目を眺めた。
「次のフェーズの定義は」クロードが言った。
「まだ書いてる」
「記録します」
壁の案件ログが、ランタンの光に揺れていた。13件の名前が並んでいる。どの案件にも、誰かの困りごとがあった。帳簿が合わなかった夜、予約が重なった朝、処方を間違えそうになった昼間。全部、ここに残っている。
『もっと大きな場所で、もっと多くの人の役に立つ。』
まだ声に出していない。まだノートにも書いていない。でも、ペンを持てばいつでも書ける。
ランタンの炎が、ゆっくりと揺れた。
■6.扉を叩く音
その静寂を破ったのは、扉を叩く音だった。
コン、コン、コン。
鍵は顔を上げた。夜のこの時間に来る者は、そう多くない。「開いてます」
扉が開いた。現れたのは、鎧の上に外套を纏った騎士だった。胸板に金糸の刺繍が光る——王国軍の紋章だ。
「AIカンパニー代表、鍵殿とお見受けします」
「そうです」
使者は一礼して、書状を両手で差し出した。「陛下が直接お呼びです。軍の物資管理に、力を貸してほしいとのことです」
鍵は書状を受け取った。王家の封蝋が押されている。開かずとも、本物だとわかった。
「……返答の期限は」
「三日以内に、王城へお越しいただければ」
「伝えます」
使者が辞去すると、オフィスは再び静かになった。鍵は書状をテーブルに置き、クロードを見た。
「軍の物資管理、か」
「規模が違います」クロードが言った。「これまでのどの案件とも」
鍵はランタンの光に照らされた壁を見た。13件分の名前が並んでいる。農村の帳簿から始まって、王城の医務室まで来た。いちばん下には、14件目の余白がある。それが今、埋まろうとしていた。
「……規模が変わった」
言葉はそれだけで充分だった。
『(第11話へつづく)』
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