第8話 失敗から学びます
■1.泊まり客が三人、同じ部屋に
報告が来たのは昼過ぎだった。
「鍵さん、ちょっとまずいことになってます」
アリアの声が早口だった。オフィスのカウンター越しに受け取ったメモには、一行しか書かれていなかった。
〈シルバーアックス亭・客三人が同一部屋に案内された〉
『……それは、まずい。』
「詳しく」
「宿屋レンさんの紹介で先週から入ったグレッグさんのところ。シルバーアックス亭。こっちが入れた予約台帳システムで客室番号が重複して、三人別々のお客さんが同じ部屋に集まっちゃったみたいで」
「重複?」
「スタッフが台帳の見方わからなくて、旧来の帳面も並行して使い続けてたらしいんです。で、帳面とシステムで別々に予約を入れて——」
「二重に案内した」
「はい」
鍵はペンをテーブルに置いた。
クロードが静かにそばに立っていた。鍵は聞いた。
「システムは動いてたか」
「実行はしました。予約データの書き込みも、客室割り当ても、定義通りに」
「指示書の通りに」
「はい。指示書の通りに」
そこで会話が止まった。問題がどこにあるかは、もう見えていた。システムは正しく動いた。ただ、現場のスタッフに使い方を教えていなかった。移行のタイミングを決めていなかった。旧帳面との併用を禁止する手順を作っていなかった。
全部こちら側の話だった。
クロードの言う「指示書の通り」という言葉が、頭の中で反響した。指示書が間違っていたわけではない。指示書に書かれていなかったことが、問題だった。「スタッフへの説明」も「移行手順」も「旧帳面の廃止日」も、誰も書いていなかったから、クロードには存在しない工程になっていた。
当たり前のことが、当たり前に抜けていた。
『宿屋レンのときは小さかった。スタッフも少ない。アリアが口で説明して回れた。今回は規模が違うのに、同じやり方で入れた。』
シルバーアックス亭の依頼が来たのは先週のことだった。宿屋レンのオーナーであるレンさんから「知り合いの宿も困っているので話してみてくれ」と紹介された。グレッグは最初から乗り気ではなかったが、鍵が台帳システムのデモを見せると「まあ試してみるか」と言った。そこまではよかった。
問題は、その翌日にシステムを入れたことだった。
デモから導入まで一日。スタッフへの説明は担当者一名に一回。旧帳面は「しばらく残しておく」と言ったまま廃止の日付を決めなかった。それで「来週から動かします」と言って帰ってきた。
今思えば、準備になっていなかった。「動かせる状態」と「使える状態」は違う。そこの区別ができていなかった。
「行きます」
鍵はノートをつかんで立ち上がった。
「テオとアリアも来てもらえますか」
■2.グレッグの怒鳴り声
シルバーアックス亭は宿屋レンの三倍の規模だった。
街の目抜き通りに面した石造りの建物で、常時十数名のスタッフが動いている。地下に厨房、二階三階が客室、一階に広めのフロントと待合。それだけの所帯を一人で切り盛りするのがオーナーのグレッグだった。
五十がらみで、背が高い。腕が太い。声も太い。
「どういうことだ!」
玄関をくぐった瞬間に声が飛んできた。怒鳴るというより、地面から響くような声だった。
「うちのお客が廊下で鉢合わせして、荷物が混ざって、一時間揉めたんだぞ。一時間だ。お前らが入れたとかいうシステムのせいで」
鍵は足を止めず、グレッグの正面まで進んだ。
「申し訳ありませんでした。私の責任です」
「当たり前だ!」
「はい」
グレッグの剣幕が一瞬だけ揺れた。言い訳をされると思っていたのかもしれない。怒鳴りつけた相手がまっすぐ「私の責任です」と返してくると、怒りの向け先が定まらなくなる。鍵はそれを知っていた。だから逃げなかった。逃げても何も変わらないし、逃げた瞬間に信頼は消える。
「今日中に原因を特定して、再発しない仕組みを作ります。それまでシステムを一時停止させてください。旧帳面に戻していただいて構いません」
「あんなもの、最初から使わなきゃよかった」
「その判断は正しいです。説明なしに入れたこちらが間違っていました」
再び、沈黙。
テオが一歩前に出た。年のころは鍵より少し若く、背がすらりとして、話し方に落ち着きがある。
「グレッグさん、今日の件でご不便をおかけしたお客様のお名前、教えていただけますか。本日の宿泊費は弊社が持たせてください」
グレッグが眉根を寄せた。怒りとは別の感情が少し混じった顔だった。
「……それは、あんたらが出すのか」
「はい。ご迷惑をかけたのはこちらですので」
テオが静かに言い切った。押しつけがましくなく、かといって引かない。謝罪でも交渉でもなく、ただ当然のことを当然の顔で言う。そういう声の出し方だった。
鍵は少しだけ横目でテオを見た。
『こういう場面でこういう出方ができる人間は、なかなかいない。』
「まあ……一旦、中で聞こうか」
グレッグが踵を返した。
アリアが鍵の横で小さくため息をついた。
「テオ、うまいですね」
「人の話を聞くのが好きなんです」
テオが静かに言った。それだけだった。
■3.原因を並べる
奥の事務室で、スタッフのリーダー格であるマルコが状況を説明した。
四十代の実直そうな男で、話し方に嘘がなかった。
「正直に言います。台帳のシステム、触るのが怖かったんです。今まで帳面でやってきたんで、書き込んで何か壊れたら責任取れないと思って」
「新しい台帳は見ましたか」
「見はしました。でも、どこを見てどう読むのかが……」
「説明しませんでしたか」
マルコが困り顔で首を振った。
「最初に一回だけ、システムを入れてくれた人が軽く見せてくれたんですが、その人がすぐ帰ってしまって。それ以降は聞ける人もいなくて」
「旧帳面は捨てましたか」
「いや、捨てたら困ると思って……念のためと思って続けて使ってて」
そういうことだった。
スタッフは悪くなかった。むしろ、慎重に動いていた。捨てたら困ると思って旧帳面を残した。わからないまま触って壊したくなかったから、慣れた方法で続けた。その判断一つ一つは、現場の人間として正しい。それが重なって、二重入力になった。
鍵はノートに書いた。
〈スタッフへの説明:一回・短時間・質問なし〉
〈移行タイミング:未定義(帳面とシステムが並走)〉
〈旧帳面の廃止:指示なし〉
三行並べると、失敗の形が見えた。
クロードが静かに言った。
「指示書に記載があったのは、予約データの入力方法と客室割り当てのルールまでです。スタッフへの引き継ぎ手順、旧台帳の廃止日、使い方の説明書——それらの定義が抜けていました」
「抜けていた」
鍵が繰り返した。
クロードは否定も弁解もしなかった。ただ事実を言った。それが余計に重かった。
アリアが隣で、ノートを覗き込んでいた。
「この三行、全部うちが用意するべきだったやつだ」
呟くように言った。声に悔しさがにじんでいた。
「宿屋レンのときは小さい規模だったから、口頭で説明して回れた。今回は規模が違う。それなのに同じ入れ方をした」
「はい」
「入れることばかり考えてた。使ってもらうことを考えてなかった」
アリアらしくない言い方だった。いつもは切り替えが早い。でも今日は悔しがっていた。それでいいと鍵は思った。悔しいと思えるうちは、同じ失敗をしない。
沈黙が落ちた。
鍵は書き続けた。
〈根本原因:「説明する」という工程が、導入フローに存在しなかった〉
技術は動いた。指示通りに。ただ、それを使う人間の側の準備をしていなかった。どれだけきれいなシステムを入れても、使う人がわからなければ何も変わらない。変わらないどころか、かえって混乱を生む。
今回がまさにそれだった。
『これは、私たちの設計ミスだ。』
■4.立て直す
「私が使い方カードを作ります」
アリアが言ったのは、グレッグの事務室に戻る廊下でのことだった。
「カード?」
「手書きの。一枚で全部わかる、予約の確認方法と客室割り当てのチェック手順。難しい言葉なし、番号順に並べる。スタッフが一人で読んで動けるくらいシンプルに」
「いつ作れますか」
「今夜」
「助かります」
テオが少し先で振り返った。
「スタッフへの説明は私がやります。一人ずつ。マルコさんから順番に、実際に台帳を触りながら」
「全員回れますか」
「明日の午前中には終わります」
テオは言い切った。そういう見通しの立て方をする人間だった。やると言ったらやる、それだけの目をしていた。
グレッグの事務室のドアを開けると、オーナーが腕を組んで待っていた。怒鳴り声はもうなかった。
鍵は立ったまま言った。
「原因がわかりました。スタッフへの説明と移行手順が不足していました。今夜使い方カードを作り、明日午前中に全スタッフへ個別説明します。それまでは旧帳面を使い続けてください。重複が起きないよう、明日中にシステムと帳面の統合ポイントも整理します」
グレッグが一拍おいた。
「……あんたら、逃げないんだな」
「逃げても解決しないので」
また沈黙。今度は短かった。
「まあ」グレッグがため息をついた。「続けてみろ」
それだけだった。それで充分だった。
事務室を出て、三人は石畳の路地に出た。夕日が傾いて、建物の影が長くなっていた。
アリアがすでに羊皮紙を広げていた。使い方カードの下書きを頭の中で組み立てているらしかった。右手で書きながら、左手で何かを数えている。ステップを整理しているのだろう。
テオが首をゆっくり回した。
鍵はノートを開いた。
「失敗のパターンをリストにします。今回のケースを一番目に入れる」
クロードが静かに言った。
「失敗ログ、作成しますか」
「はい」
「了解です。記録名、何にしますか」
鍵は少し考えた。
「『導入前に確認すること』でいいです。失敗から作るんだから、そのほうが正直だ」
クロードが頷いた。
「定義、明確です」
鍵はノートの新しいページに書いた。
〈導入前に確認すること〉
〈1.スタッフへの説明資料を作ったか〉
〈2.旧システムの廃止日を決めたか〉
〈3.移行後に誰が質問を受けるか決めたか〉
〈4.実地テストを一人でも試したか〉
四項目。今日の失敗から来た四項目。
次に仕事を入れるとき、これを最初に出す。全部「はい」になってから、システムを動かす。それが今日決めたことだった。
路地の向こうで、シルバーアックス亭の看板がまだ明るかった。次の客が来る前に、直す。それが今夜の仕事だった。
『(第9話へつづく)』
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