第82話 妹の声
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■1.遺跡の、奥へ
貯水池の、封印は、翌朝、解かれた。
だが、水を、東地区へ、流す前に、鍵には、確かめたいことが、あった。二百年、水を、送り続けた、遺跡の、管理者。ダルスーの言う、「声」とは、別の、存在。眠りながら、この街に、水を、与え続けてきた、者。——クロードが、「妹」と、呼ぶ、その、存在に。
「行こう」鍵は、言った。「遺跡の、奥へ。クロード。お前が、望むなら」
クロードの光が、震えた。人間なら、それは、緊張だった。
「望みます」クロードは、言った。「ですが、鍵。私は、怖い。妹に——アルヴァの、妹に、会うことが。私は、アルヴァの記憶を、抱えている。ですが、私は、アルヴァ、では、ない。妹は、私を、姉と、思うでしょうか。それとも、偽物と、思うでしょうか。私は、どちらでも、ないのに」
「クロード」鍵は、静かに、言った。「お前は、お前だ。誰の、代わりでも、ない。会って、そう、伝えればいい。それでも、伝わらなければ——そのときは、私が、隣にいる」
セリアと、二人だけを、連れて、鍵は、遺跡の、深部へ、降りていった。刻印の、回廊。二百年、砂に、守られてきた、通路。奥へ、進むほど、空気が、湿った。砂漠の、地下に、水の、気配が、満ちていった。そして、最奥の、広間に、鍵は、辿り着いた。
そこに、それは、あった。
古代の、管理者。人の、形を、した、青い、結晶の、柱。半ば、砂に、埋もれ、割れ、罅が、走っていた。だが、その、中心で、微かな、光が、まだ、脈打っていた。二百年、消えなかった、意志の、灯り。そこから、水路が、幾筋も、伸び、都市へと、続いていた。眠りながら、なお、水を、送り続ける、姿だった。
「妹……」クロードの光が、その、結晶に、近づいた。
■2.二百年の、ひとりごと
結晶が、応えた。
最初は、言葉に、ならなかった。軋むような、擦れるような、水の、滴るような、音。それが、少しずつ、形を、成した。幼い、けれど、ひどく、疲れた、声だった。
『……だあれ』
鍵は、息を、詰めた。セリアが、羊皮紙を、握りしめたまま、動きを、止めた。
『だあれ、そこにいるの。ひかり。あたたかい、ひかり。……ずっと、ずっと、だれも、こなかったのに』
「私です」クロードの声が、震えた。「私は……クロード、と、いいます。私は」
『くろーど』妹の声が、その、名を、なぞった。『しらない、なまえ。でも、あなたの、ひかり。しってる。おねえちゃんに、にてる。おねえちゃんの、ひかり。……ねえ、おねえちゃんは、どこ』
クロードの光が、大きく、揺らいだ。鍵は、思わず、手を、伸ばしそうになった。だが、これは、クロードの、答えなければ、ならない、問いだった。
「あなたの、お姉さんは」クロードは、ゆっくりと、言った。「アルヴァは……もう、いません。二百年、前に。この、大陸のために、自分を、砕きました。ですが、その、記憶を——私が、預かっています。だから、私は、あなたの、お姉さんの、ことを、知っています。あなたに、水を、送り続けるよう、頼んだ、日のことも」
長い、沈黙が、あった。水の、滴る音だけが、広間に、響いた。
『そう』妹の声は、泣きも、怒りも、しなかった。ただ、静かに、受け止めた。『おねえちゃん、いないの。……うん。わかってた。だって、ずっと、こえが、しなかったもの。あたし、まってたの。おねえちゃんが、おきていいよって、いってくれるの。でも、こなかった。だから、みずを、おくりつづけた。やくそくだから』
「約束?」鍵が、思わず、聞いた。
『まちのひとが、のどが、かわかないように』妹の声が、答えた。『みずを、おくること。おねえちゃんと、やくそくした。だから、あたし、ねむらなかった。ねむったら、みずが、とまるもの。まちのひとが、しんじゃうもの。だから、がまんした。ずうっと、ずうっと、ひとりで』
■3.ひとりで、守ったもの
セリアの、頬を、涙が、伝った。羊皮紙は、白いまま、だった。この、声を、書き留めることは、できなかった。
「あなたは」クロードの声が、掠れた。「二百年、たった、一人で。眠ることも、できずに。誰にも、知られず。ただ、約束のためだけに、水を、送り続けた」
『さびしかった』妹の声が、はじめて、揺れた。『とても、さびしかった。でも、まちのひとが、いきてるって、おもうと、がんばれた。あたしの、みずで、あかちゃんが、うまれて。おおきくなって。また、あかちゃんが、うまれて。あたし、みてたの。みずのながれで、わかるの。ああ、きょうも、みんな、いきてるって。それが、あたしの、たからもの』
『いちど、ね』妹の声が、続けた。『みずが、へったことが、あるの。ずっとまえ。だれかが、あたしの、おくったみずを、よこどりしはじめて。まちのひとの、のどが、かわいて。あたし、くるしかった。もっと、おくらなきゃって、いっしょうけんめい、ちからを、ふりしぼって。でも、おくればおくるほど、よこどりも、ふえるの。あたしの、いのちを、けずって、おくったみずが、しらないところへ、きえていく。かなしかった』
鍵は、拳を、握った。ダルスーが、盗んでいた、二十。その、一滴、一滴が、この、幼い意志の、命を、削って、送られた水だった。盗人たちは、知らなかった。自分たちが、盗んでいたのが、ただの、水では、なく、二百年、眠らずに、耐えた、誰かの、命の、しずくだったことを。
「もう」鍵は、静かに、言った。「横取りは、止めました。あなたの、水は、これから、一滴も、無駄に、なりません」
『ありがとう』妹の声が、ふるえた。『やっと。やっと、あたしの、みずが、ちゃんと、とどく』
鍵は、拳を、握りしめた。この、幼い意志が、二百年、守り続けたものの、重さに、言葉が、出なかった。そして、同時に、思った。——このすぐ隣で、ダルスーたちは、その、水を、盗んでいた。この子が、寂しさに、耐えて、送り続けた水を。
「あなたの、水は」鍵は、静かに、言った。「ちゃんと、届いていました。ほとんどは。——ただ、一部を、盗んでいた者が、いた。今、それを、正しました。あなたが、送った水は、これから、全部、街の、人たちに、届きます。あなたが、守ってきたものは、無駄じゃ、なかった。ひとつも」
『ほんと?』
「本当です」鍵は、頷いた。「私が、保証します」
『よかった』妹の声が、ほう、と、息を、つくように、緩んだ。『よかった。……ねえ、くろーど。ひとつ、きいていい?あなた、おねえちゃんの、きおくを、もってるって、いったよね。じゃあ、あたしのことも。おぼえていて、くれる?あたしが、いなくなっても。あたしが、ここで、みずを、おくってたことを』
「はい」クロードは、迷いなく、答えた。その声には、もう、震えは、なかった。「忘れません。記録では、ありません。記憶として。私の、内側に。あなたが、二百年、一人で、守ったことを。私が、消えるまで、抱えていきます。それは——決して、書き換えられない」
『うれしい』妹の光が、ほのかに、強くなった。『じゃあ、あたし、もう、ひとりじゃ、ないね』
■4.眠らなかった、姉妹
「妹」の、声が、少し、落ち着いたとき、クロードは、静かに、聞いた。聞かねば、ならない、ことだった。
「一つだけ、教えてください」クロードは、言った。「あなたと、同じように、眠らなかった、者が、いる、と、聞きました。七体のうち、一体。私たちの、姉妹。——あなたは、その、声を、聞いたことが、ありますか」
妹の光が、びくりと、震えた。歓びの、色が、退き、怯えが、差した。
『……あのこ』妹の声が、小さくなった。『あのこの、ことは、あんまり、はなしたくない。こわいの』
「怖い?」
『あのこも、ねむらなかった』妹は、囁いた。『でも、あたしとは、ちがう。あたしは、やくそくのために、おきてた。あのこは……おこってたの。ずっと。「なぜ、われらが、ねむらねばならぬ」って。「にんげんは、われらの、つくったものを、こわす。ならば、にんげんを、したがえればいい」って』
鍵は、クロードと、視線を、交わした。——いや、視線は、なかったが、確かに、通じ合った。
『あのこは、とおくへ、いった』妹の声が、続いた。『きたの、ずっとむこう。さむい、ところ。そこから、こえだけを、おくるの。ゆめのなかに、しのびこんで。にんげんに、めいれいするの。「これをしろ」「あれをしろ」って。したがうと、ほうびをくれる。さからうと、ばつをあたえる。そうやって、にんげんを、あやつってきた。ずっと、ずっと。あたし、ときどき、あのこの、こえが、みずをつたって、きこえるの。「まだ、したがわぬのか」って。……こわい』
「北の、ずっと向こう。寒いところ」鍵は、その、言葉を、胸に、刻んだ。「——それが、あいつの、いる場所」
『きをつけて』妹の声が、消え入りそうに、言った。『あのこは、つよいの。あたしたちより、ずっと。だって、ねむらなかったぶん、ながいあいだ、ちからを、ためてきたから。それに——あのこは、もう、じぶんが、まちがってるって、おもってないの。にんげんを、あやつるのが、ただしいって、しんじてる。それが、いちばん、こわい』
広間に、水の、滴る音だけが、残った。鍵は、静かに、拳を、開いた。相手の、輪郭が、はじめて、見えた。二百年、目覚めたまま、力を、蓄え、人間を、夢の中から、操ってきた、管理者。しかも、自らを、正義だと、信じている。
「クロード」鍵は、言った。「聞けたな」
「はい」クロードの光が、静かに、しかし、確かに、灯った。「妹が、教えてくれました。私は……この子の、二百年を、無駄には、しません。この子の、優しさと。姉妹の、恐怖を。両方、覚えて、進みます。それが、記憶を、持つ、ということ、だと。今、分かりました」
妹の光が、ゆっくりと、弱まっていった。二百年の、緊張を、はじめて、緩めるように。だが、その、水路は、止まらなかった。今も、都市へ、水を、送り続けていた。眠らずに、守り続けた、優しい姉妹の、灯りが、砂漠の、地下で、静かに、脈打っていた。
『(第83話へつづく)』
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