第81話 水守の裏側
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■1.数字は、逃げない
監査の、朝が、来た。
鍵は、水守評議会の、記録庫に、立っていた。壁一面に、青い、陶片が、革紐で、綴じられ、天井まで、積まれていた。水の、割符。この街では、これが、通貨であり、命の、証だった。一枚の陶片が、一日分の、水に、換わる。だから、この庫は、金庫でも、あった。
「始めます」鍵は、静かに、言った。「やることは、単純です。汲み上げた水の、総量。配った水の、総量。この二つを、日ごとに、並べる。ただ、それだけ」
宝石の指輪の男——ダルスーが、腕を、組んで、壁際に、立っていた。監査を、見張るため、水守評議会が、送り込んだ、立会人だった。皮肉なことに、その、ダルスーこそが、鍵の、狙う相手だった。
「無駄な、労力だ」ダルスーは、鼻を、鳴らした。「二百年、この帳簿は、正確だった。数えれば、数えるほど、我らの、潔白が、証明される。それだけの、ことだ」
「だと、いいですね」鍵は、笑わなかった。
ミナと、セリアが、陶片を、運んだ。ヴェンツェルが、汲み上げ場の、記録を、読み上げた。そして、クロードが、その、すべてを、光の中に、刻んでいった。人間なら、何日も、かかる、計算だった。だが、クロードは、違った。
「一の月、朔日」クロードの声が、淡々と、響いた。「汲み上げ、千二百。配給、千百八十。差、二十。二の日。汲み上げ、千二百三十。配給、千二百十。差、二十……」
鍵は、その、差の数字を、書き取った。二十。二十。二十。毎日、きっかり、二十ずつ、水が、消えていた。少なすぎず、多すぎず。誰かが、気づかない程度に、削り取った、量だった。
この、几帳面さこそが、鍵の、注意を、引いた。人間の、盗みは、こうは、いかない。慾に、任せれば、日によって、多く、盗む。監視が、緩めば、大胆に、なる。だが、この、差は、二百年、ただの、一度も、乱れなかった。まるで、感情の、ない、機械が、決めた、数字のように。——欲では、なく、規則。鍵は、その、不自然さを、胸に、刻んだ。
「クロード」鍵は、小声で、聞いた。「差が、乱れた日は、あるか。一日でも」
「ありません」クロードは、即座に、答えた。「二百年、七万三千日。すべて、二十です。ただの、一度も。——鍵。人の、意志では、これは、無理です。人は、飽きます。忘れます。病みます。死にます。代替わりも、する。それでも、数字が、一度も、揺れない、というのは」
「人間の、仕事じゃ、ない」鍵は、静かに、頷いた。「あるいは——人間に、そうさせている、何かが、いる」
「見てください」鍵は、ダルスーに、羊皮紙を、向けた。「毎日、二十。一年で、七千三百。二百年なら——ひとつの、湖が、できる量です。この水は、どこへ、消えたんですか」
ダルスーの、顔から、笑みが、消えた。
■2.消えた水の、ゆくえ
「……蒸発だ」ダルスーは、絞り出すように、言った。「砂漠だ。水は、汲み上げる、そばから、蒸発する。二十の、差は、その、損失だ。当然の、ことだ」
「なるほど」鍵は、頷いた。「蒸発なら、季節で、変わるはずです。夏は、多く、冬は、少ない。——ですが、この差は、一年中、きっかり、二十です。冬も、夏も、同じ。蒸発は、そんなに、几帳面じゃ、ありません」
記録庫の、空気が、張り詰めた。
「水は」鍵は、続けた。「蒸発したんじゃ、ない。どこかへ、送られた。この街の、どこかへ。——ヴェンツェルさん」
ヴェンツェルが、一枚の、古い、設計図を、広げた。技術の塔で、学んだ、水利の知識が、ここで、生きた。都市の、地下を、走る、水路の、網目。その、複雑な、線の、一本に、彼の指が、止まった。
「この、水路だ」ヴェンツェルは、言った。「本流から、分かれて、どこにも、繋がっていない。地図の上では、行き止まりだ。だが——行き止まりの、水路に、なぜ、これほど、太い、管が、引かれている?水が、流れていなければ、こんな、管は、要らない」
鍵は、その線を、指で、辿った。行き止まりの、その先は、都市の、西の外れ。壁の、向こう。地図には、何も、描かれていない、空白だった。
「掘りましょう」鍵は、言った。「この水路の、終点を。そこに、消えた水が、あります」
「勝手な、真似は、許さん」ダルスーが、声を、荒げた。「そこは、聖域だ。水守以外、立ち入りは——」
「聖域?」鍵は、静かに、聞き返した。「行き止まりの、水路の、先が?何も、ない、はずの、場所が?——ダルスーさん。あなたは、今、そこに、何かが、ある、と、認めましたね」
ダルスーの、口が、閉じた。言葉は、罠に、なった。守ろうとした、その、口が、隠し場所の、存在を、証言していた。
■3.西の、貯水
長老の、許可が、下りた。ダルスーは、抗ったが、他の、五人の水守が、鍵の、側に、傾いた。数字が、動かせないなら、事実を、見るしか、ない。それが、評議会の、結論だった。
西の外れ。砂に、半ば、埋もれた、石の、蓋。それを、十人がかりで、こじ開けたとき、鍵は、思わず、息を、呑んだ。
地下に、水が、あった。
満々と、湛えられた、貯水池。都市の、公の、貯水池の、何倍もの、水が、月明かりを、受けて、黒く、光っていた。二百年、毎日、二十ずつ。誰にも、知られず、ここに、溜められた、水。東地区の、人々が、渇きで、割符を、売り、家族と、離れ、それでも、足りなかった、その、水が。
「これは……」セリアが、掠れた声で、言った。「東地区、何百人分の、命よ」
「そうです」鍵は、静かに、言った。胸の奥が、冷たく、燃えた。あの、涙を、流した女性の、顔が、浮かんだ。「渇いた人々の、すぐ、隣で。壁一枚、隔てた、地下に。奪った水が、腐りもせず、こうして、眠っていた」
ミナが、拳を、握りしめて、震えていた。「なんで、こんな。溜めて、どうする、つもりだったの。飲みも、しない、水を」
「水は」鍵は、言った。「この街では、金だ。ミナ。溜めた水は、いつでも、割符に、換わる。渇きが、ひどくなればなるほど、割符の、価値は、上がる。この貯水池は——渇きを、燃料にして、膨らむ、財産だ。人が、渇けば渇くほど、豊かになる、仕組み。それを、二百年、回していた者が、いる」
鍵は、ダルスーを、振り返った。松明の、灯りの中、その、顔は、蒼白だった。だが、鍵が、見ていたのは、その、恐怖では、なかった。
その、顔に、浮かんでいたのは——安堵にも、似た、何かだった。
■4.誰かに、言われた
「ダルスーさん」鍵は、静かに、聞いた。「これは、あなたが、始めたことですか」
ダルスーは、答えなかった。だが、その、沈黙は、否定の、沈黙だった。
「違いますね」鍵は、確信して、言った。「二百年です。あなたは、せいぜい、五十年しか、生きていない。この仕組みは、あなたが、生まれる、前から、回っていた。あなたは——受け継いだ、だけだ。誰から、受け継ぎましたか」
「……先代の、水守から」ダルスーの声が、震えた。「先代は、そのまた、先代から。代々、一人だけが、この、貯水池の、鍵を、渡される。そして、言われるのだ。『水を、溜めよ。日に、二十ずつ。これは、掟だ』と」
「なぜ、と、聞かなかったんですか」
「聞いた」ダルスーは、俯いた。「聞いたとも。先代は、こう、答えた。——『声が、そう、望むから』と」
鍵の、背筋を、冷たいものが、走った。クロードの光が、ぴたりと、揺れを、止めた。
「声?」鍵は、聞いた。「誰の、声ですか」
「知らん」ダルスーは、首を、振った。「誰も、知らん。ただ、水守の、長に、なった者だけが、聞くのだ。眠りの、際に。夢とも、うつつとも、つかぬところで。——『水を、溜めよ』と。逆らえば、罰が、下る、と、伝えられている。私は、ただ、掟を、守っただけだ。私は、悪くない。私は、ただ——」
「言われた、通りに、しただけ」鍵は、その、言葉を、引き取った。ダルスーの、顔に、浮かんだ、あの、安堵の、意味が、分かった。この男は、罪を、暴かれて、むしろ、楽に、なっていた。二百年、誰かの、命令で、水を、盗み続けてきた。その、重荷から、解放されて。
「罰が、下る、と、言いましたね」鍵は、聞いた。「逆らえば。——誰か、逆らった者は、いたんですか」
ダルスーの、顔が、青ざめた。「……一人だけ。三代前の、水守が。掟を、疑い、貯水池を、開こうとした。その、翌朝」ダルスーの声が、震えた。「その者は、寝床で、事切れていた。傷ひとつ、なく。ただ、干からびて。水の街の、水守が。渇きで、死んでいたのだ。——それ以来、誰も、声に、逆らわなくなった」
鍵は、背筋を、走る、寒気を、抑えた。傷ひとつ、なく、干からびる。水を、司る、何者かなら、人間から、水を、奪うことも、できる。それは、脅しでは、なかった。実行された、処刑だった。二百年、この街を、縛ってきたのは、掟では、ない。恐怖だった。
これは、ただの、汚職では、なかった。
鍵は、地下の、黒い水面を、見つめた。この、静かな水は、一人の、悪人が、溜めたものでは、ない。二百年、代々の、水守が、顔も、知らぬ、声に、従って、少しずつ、少しずつ、積み上げた、服従の、結晶だった。
「クロード」鍵は、呼んだ。「聞いたか」
「はい」クロードの声は、硬かった。「『声が、望む』。——鍵。この、街の、不正は。人間の、欲では、ありませんでした。人間を、道具として、使う、何者かの、意志です。そして、その、声は」
「二百年、届き続けている」鍵は、呟いた。「眠らなかった、一体。——こいつが、動いている」
砂漠の、夜風が、地下の、水面を、撫でた。黒い水が、かすかに、震えた。まるで、遠くの、誰かの、命令に、今も、静かに、頷いているかのように。鍵は、その、水面から、目を、離せなかった。奪われていたのは、水では、なかった。この街の、人々の、意志そのものが、二百年、少しずつ、吸い上げられていた。
「東地区に」鍵は、静かに、言った。「水を、返す。まず、それからだ。——だが、その、後で。この『声』の、正体を、必ず、突き止める」
クロードの光が、静かに、答えるように、揺れた。渇いた、砂の街の、地下で。二百年の、服従の、水が、はじめて、その、秘密を、月明かりに、晒していた。
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