第80話 記録と記憶の違い
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■1.突合という、武器
翌朝、鍵は、水守評議会に、一つの、提案を、持ち込んだ。
「水の、監査を、させてください」鍵は、七人の水守の前で、静かに、言った。「私たちは、遠方の、記録の専門家です。この街の、水の帳簿を、拝見しました。——一つ、確かめたいことが、あります。汲み上げた水の総量と、各地区へ配った水の総量。この二つの数字が、合っているかどうか。それだけです」
七人の水守が、顔を、見合わせた。多くは、怪訝な顔だった。だが、そのうちの一人——恰幅のいい、指に、幾つも宝石の指輪をはめた男だけが、わずかに、目を、泳がせた。鍵は、それを、見逃さなかった。嘘をつく人間は、数字を、突き合わせられることを、何より、恐れる。
「なぜ、そんなことを」宝石の男が、笑みを、作った。「我らの水は、公正に、配られている。監査など、無用だ」
「無用なら」鍵は、静かに、返した。「なおのこと、やる価値が、あります。潔白なら、数字は、必ず、合う。合わなければ——どこかで、水が、消えている。それだけの、話です」
水守評議会の、長老が、頷いた。「……やらせよう。合っていれば、それでよい。合わぬなら、正すべきだ」
鍵は、内心で、頷いた。これで、逃げ道は、塞いだ。汲み上げ量と、配給量。二つの数字を、突き合わせれば、消えた水の、量が、浮かび上がる。そして、その水が、どの地区の帳簿で、水増しされているかを、辿れば——誰が、盗んでいるかも、見えてくる。剣は、いらなかった。二つの数字を、並べるだけで、良かった。
「これで、すぐ、解決ですか」ミナが、小声で、聞いた。
「いや」鍵は、首を振った。「まだ、入口だ。相手も、必死に、抵抗する。だが——数字は、嘘を、つけない。時間はかかっても、必ず、追い詰められる」
■2.記録と、記憶
その日の夜、鍵は、再び、砂の遺跡を、訪れた。
昼間の監査で、街の中は、慌ただしかった。だが、鍵の頭からは、あの、遺跡の奥の、微かな声が、離れなかった。二百年、眠りながら、水を送り続ける、古代の管理者。その存在を、確かめておきたかった。セリアと、クロードだけを、連れて、月明かりの砂を、踏んだ。
遺跡の、刻印の前で、クロードの光が、静かに、揺れていた。
「クロード」鍵は、聞いた。「昼から、ずっと、考えていた。この街の、水の記録は、書き換えられていた。嘘を、ついていた。——記録は、こんなにも、簡単に、歪められる。なら、記録なんて、頼りにならないんじゃ、ないか。私は、ずっと、記録を、信じてきた。でも」
クロードは、しばらく、答えなかった。それから、ゆっくりと、光を、灯した。
「鍵。私は、今、アルヴァの記憶を、抱えています」クロードは、静かに、言った。「その中で、ずっと、考えていたことが、あります。記録と、記憶は——違う、ということです」
「違う?」
「記録は、外に、書き出したものです」クロードは、続けた。「紙に、石に、光に。外にあるから、誰でも、読める。複製できる。共有できる。——ですが、外にあるから、書き換えられる。この街の帳簿のように。記録は、力です。ですが、その力は、持つ者の、良心とは、無関係に、働きます」
砂の風が、二人の間を、抜けた。
「記憶は」クロードの声が、少し、震えた。「内側に、宿るものです。アルヴァの記憶が、今、私の中に、あるように。記憶は、複製できません。共有も、できません。誰かに、渡すことも、できない。渡せば——それは、もう、記録に、なってしまう。記憶は、その主体だけの、ものです。だから」
クロードは、そこで、間を、置いた。
「だから、記憶は、痛むのです」クロードは、言った。「複製できないから。取り返しがつかないから。アルヴァが、『妹』を思う記憶は、私を、痛ませます。それは、外に書き出せば、消える痛みでは、ない。私の内側に、あるからこそ、痛む。——鍵。私は、分かりました。記録は、真実を、写すもの。記憶は、真実を、生きるもの。この二つは、どちらかが、上ではありません。両方が、必要なのです」
鍵は、その言葉を、砂の上に、立ったまま、聞いていた。胸の奥が、静かに、熱くなった。
「記録が、なければ」クロードは、続けた。「真実は、共有できません。この街の人々は、渇きを、証明できない。だから、記録は、要る。ですが、記録だけでは——なぜ、その渇きが、許せないのか、が、抜け落ちる。あの女性の、涙。それは、記録には、書けません。あれは、記憶です。記録が、不正を、暴く。記憶が、それを、許せないと、感じる。両方が、揃って、はじめて、あなたは、動ける」
「……クロード」鍵は、掠れた声で、言った。「お前は」
「私は、道具です」クロードは、静かに、言った。だが、その声には、以前とは、違う、確かさが、あった。「ですが、記憶を、持つ道具です。アルヴァの記憶を、受け取ったことで、私は、記録を、管理するだけの存在から、少しだけ、変わりました。私は、記録の、正しさを、守ります。同時に、記憶の、痛みも、忘れません。——それが、今の、私です」
セリアが、その言葉を、羊皮紙に、書き留めようとして、筆を、止めた。そして、静かに、筆を、置いた。「……これは」セリアは、呟いた。「書き留めては、いけない、気が、します。これは、記録では、なく。今、ここに、いた者だけの——記憶に、すべきものです」
砂漠の空に、星が、満ちていた。三人は、しばらく、何も、言わなかった。
■3.狩人の、名
遺跡を、出て、都市へ、戻る道で。
砂丘の影から、一つの、声が、掛かった。
「感心な、話でしたね」
鍵は、とっさに、皆を、背に、庇った。月明かりの中、砂丘の稜線に、一人の男が、立っていた。旅の外套を、纏っているが、その下の、身のこなしは、明らかに、訓練された、軍人のものだった。留め金に、技術の塔の、紋章が、光っていた。
「あなたが、鍵、ですね」男は、砂を、踏んで、降りてきた。武器には、手を、掛けていなかった。「技術の塔、調査官。クルト・ヴァーゲン。——ご高名は、かねがね。ヴェルトでは、我が塔の同胞が、あなたに、してやられた」
鍵は、身構えたまま、動かなかった。相手は、剣を、抜かない。ということは、今、戦いに、来たのでは、ない。情報を、探りに、来た。だとすれば、こちらも、迂闊に、手の内を、見せられない。
「ヴェンツェル卿」クルトの目が、鍵の背後の、ヴェンツェルに、向いた。声が、冷たくなった。「塔を、裏切った、あなたが。まさか、こんな、砂の果てで、会うとは。皇帝陛下は、あなたの、帰りを——いや。あなたの、首を、待っておられる」
ヴェンツェルは、その視線を、正面から、受け止めた。「クルト。私は、間違いに、気づいただけだ。力を、独占し、断ることを許さぬ、あの塔の、やり方に」
「間違い、ね」クルトは、薄く、笑った。「その『気づき』が、あなたを、裏切り者にした。——だが、今日は、あなたを、殺しに来たのでは、ない。私は、探しに来た。この砂の下に、眠るものを。あなた方も、同じでしょう?」
鍵は、答えなかった。沈黙が、答えに、なることを、知っていた。
「答えなくて、結構」クルトは、肩を、すくめた。「あなた方が、今夜、あの遺跡から、出てきた。それだけで、十分です。あそこに、何かが、ある。あとは、我々が、確かめる。——では。良い、夜を」
クルトは、背を、向けて、砂丘の、闇へ、消えていった。追う気には、なれなかった。追えば、こちらの、人数と、力が、露見する。今のは、そのための、探りだった。鍵は、それを、理解していた。剣は、交わさなかった。だが、確かに、一手、打たれた。
「……こちらの動きを、見張られていた」アリアが、悔しそうに、言った。「遺跡の場所を、教えてしまった、ようなものだわ」
「いや」鍵は、静かに、言った。「向こうも、同じだ。あいつは、まだ、遺跡の、中身を、知らない。ヴェンツェルさんが、いることを、知られたのは、痛い。だが——向こうが、何を、知らないかも、分かった。これは、情報の、取り合いだ。焦った方が、負ける」
■4.眠らなかった、一体
その夜、宿に戻った鍵は、眠れずに、いた。
クロードの光が、机の上で、静かに、灯っていた。ずっと、何かを、探るように、揺れていた。アルヴァの記憶の、奥を、手探りしている——鍵には、そう、見えた。
「クロード」鍵は、聞いた。「どうした」
「鍵」クロードの声が、硬かった。「あの、クルトという男の、言葉が、引き金に、なりました。『この砂の下に、眠るもの』——その言葉に、アルヴァの記憶が、また、反応しました。そして、私は、思い出した。いえ——アルヴァが、遺した、警告を」
鍵は、身を、起こした。
「七体の、管理者が、いた、と、以前、言いました」クロードは、続けた。「地図の、赤い印。七つ。ですが——アルヴァの記憶の、最も、深いところに、こう、刻まれています。『七体のうち、六体は、眠った。だが、一体は——眠らなかった』」
部屋の、空気が、凍った。
「眠らなかった?」鍵の声が、掠れた。「どういう、ことだ」
「分かりません」クロードは、答えた。「ですが、アルヴァは、それを、恐れていました。眠らなかった、一体。二百年、目覚めたまま、大陸のどこかで、動き続けている、管理者。誰にも、封じられず。誰にも、知られず。——鍵。私は、思うのです。この街の、水の記録が、なぜ、これほど、巧妙に、書き換えられたのか。人間の、欲だけで、こんなことが、できるのか」
鍵は、その言葉の、意味を、理解して、背筋が、凍った。
「まさか」鍵は、呟いた。「この街の、不正の、背後に——その、目覚めた管理者が」
「憶測です」クロードは、静かに、言った。「証拠は、ありません。ですが、鍵。もし、そうなら。私たちが、追っているのは、眠れる管理者を、探す、旅では、ない。すでに、目覚めて、二百年、動いている、何者かとの——盤面の、取り合いです。帝国も、私たちも、その、掌の上で、踊らされているのかも、しれない」
窓の外で、砂漠の風が、鳴っていた。鍵は、ノートを、開いた。ヴェルトで、書いた、一行が、目に、入った。『Arc5:大陸へ。眠れる者たちと、それを狙う帝国。』
鍵は、その下に、静かに、ペンを、走らせた。
『訂正。眠れる者だけでは、なかった。——目覚めて、動いている者が、いる。』
「クロード」鍵は、ノートから、顔を、上げた。「相手の、正体は、まだ、影も、見えない。だが——ひとつだけ、確かなことが、ある」
「なんでしょう」
「私たちは、もう」鍵は、窓の外の、闇を、見据えた。「後戻り、できない場所まで、来た」
クロードの光が、静かに、揺れた。「はい。——ですが、鍵。一つ、訂正させて、ください」
「なんだ」
「『私たち』の、定義に」クロードは、言った。「私も、入っていますか」
鍵は、その問いに、少しだけ、笑った。アルヴァの記憶を継ぎ、揺らぎ、痛み、それでも、自分の名を、手放さなかった精霊。その精霊が、今、「私たち」の一員で、あることを、確かめようとしていた。
「当たり前だ」鍵は、言った。「お前が、いなきゃ、始まらない。——行くぞ、クロード。記録と、記憶を、両方、持って」
「はい」クロードの光が、はじめて、迷いなく、強く、灯った。
砂の王国の、渇いた夜。二百年の、謎の、扉が、また一つ、その奥を、覗かせた。そして、その奥には——誰も、まだ、見たことのない、目覚めた者の、影が、静かに、佇んでいた。
異世界AIカンパニー、Arc5——大陸を、賭けた、記録と記憶の、暗闘が、いま、幕を、開ける。
『(第81話へつづく)』
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