第64話 二百年前の帳簿
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■1.王城の書庫へ
鍵は、王都を発つ前に、確かめたいことがあった。
「セリア王女に会いに行く」鍵はアリアに言った。「あの人なら、二百年前の記録に、心当たりがあるかもしれない」
アリアは少し考えてから、頷いた。「あの方は、書庫で研究していることが多い。事前に使いを送りましたか」
「送っていない。だが、急ぎだ」
王城は、王都の北側の丘の上にある。石造りの外壁が、午前の光を受けて鈍く光っていた。正門の衛兵は、鍵の顔を覚えていた。貿易記録の整備でここを行き来していた頃の顔見知りだ。「お待ちを」と告げて、しばらくして、「王女殿下がお会いになるとのことです」と返ってきた。
城内は、朝の掃除の真っ最中だった。石畳を磨く使用人が、横を通り抜けるたびに会釈する。廊下は広く、天井が高い。歩くと足音が響くので、鍵は少し歩幅を狭めた。アリアは平然としていた。こういう場所に来ても動じない強さを、彼女はいつのまにか身につけている。クロードは、光を抑えて廊下を漂うように移動した。精霊が城の廊下を進む光景は、衛兵たちを少し驚かせたが、誰も止めなかった。来た回数が、少しずつ、信用を積み上げていた。
セリア王女は、魔法理論の研究者でもある。かつて、王城の書庫で「数百年前の言語魔法」の古文書を見つけたのも、彼女がきっかけだった。あのとき鍵は、自分が最初の使い手ではないと知った。今、その古文書が、意味を持ちはじめている。
書庫の奥で、セリアは鍵たちを迎えた。相変わらず、本の匂いのする部屋だった。天井まで棚が詰まった細長い部屋で、採光のために天窓が設けられている。日差しが斜めに差し込み、埃が光の中でゆっくりと舞っていた。セリアは、立ち読みしていたらしい古文書を閉じ、鍵の顔を見た。
「東の国境から、ずいぶん大きな土産を持ち帰ったようですね」微笑が、その目に浮かんだ。「その顔は、厄介事の顔です」
「お察しのとおりです」鍵は、遺物と、刻印の解読結果を、机に広げた。「これと同じものが、二百年前に、この大陸にあった。その記録を、探しています」
セリアの視線が、遺物からクロードへ、それからアリアへと動いた。それから、研究者の目に変わった。
■2.消えた「管理者」
セリアは、遺物の文様と、以前見つけた古文書を、並べて検分した。
棚から取り出してきた古文書は、ガラス板で挟まれて保護されていた。脆化した羊皮紙が、二層のガラスの間でかろうじて形を保っている。セリアは手袋をはめて、それをそっと机に置いた。鍵は、その動作を見て、この人がこの記録をどれだけ大切に扱ってきたかを感じた。
「……間違いありません」セリアは、低く言った。「この文様の一部は、あの古文書に出てくる記号と、同じ体系です。二百年前、確かに、これを使う者がいた」
彼女は、書庫の奥から、古い帳簿の束を運んできた。表紙が朽ちかけている。二百年前の、王国の公式記録だった。
鍵は、表紙のひび割れに、そっと触れた。羊皮紙が乾ききって、折り目のところから剥がれかけている。二百年という時間が、手のひらに伝わってくる感触だった。それだけの時間、誰かの手で保存されてきた記録だ。価値があると、誰かが判断したから残った。この帳簿もまた、誰かの意図を乗せて、今日まで生き延びてきた。
「これを見てください」セリアは、あるページを開いた。「当時の税や収穫の記録です。ある年までは、驚くほど正確で、整然としている。まるで、誰かが完璧に管理していたように。——ところが、ある年を境に、記録が乱れ始める」
鍵は、そのページを食い入るように見た。
整った数字の列が、ある地点から、急に荒れていく。書き損じ、矛盾、空欄。前のページとまったく別の人間が書いたように見える。それまで毎日記録されていた数字が、ある日を境に、週に一度になり、月に一度になり、やがて年に一度の粗い記録になっていく。
それだけではなかった。記録の密度そのものが変わっていた。前半は、収穫の数、市場の価格、税の徴収額、往来した商人の名——細かく、丁寧に、網羅されている。それが後半になると、どんどん粗くなる。管理する者がいなくなると、記録はこうなる、と鍵は思った。人は、支えがなければ、細かさを保てない。それが人間の限界だ。
「見事な線だ」鍵は、思わず呟いた。仕事柄、こういう記録を数え切れないほど見てきた。「これは、人が少しずつ手を抜いた乱れ方じゃない。ある日を境に、支えが一気に外れた乱れ方だ。誰かが管理をやめたんじゃない。管理していた『何か』が、突然いなくなった」
セリアが、感心したように鍵を見た。「よく分かりますね、そんなことが」
「記録は、書いた者の状態を映すんです」鍵は答えた。「整い方が変わる境目には、必ず理由がある。その記録者に、何が起きたかが、数字に出る」
「この境目に、何が」鍵は聞いた。
セリアは、帳簿の余白を指した。そこに、後世の誰かが書き込んだ、一行のメモがあった。薄い墨の文字が、二百年を経てもかろうじて読める。
「『管理者、沈黙す』——とだけ、あります」
■3.名を持つ存在
「管理者」鍵は、その言葉を繰り返した。
「二百年前の記録を、完璧に整えていた『何か』。それが、ある年、沈黙した」セリアは言った。「そして、その途端に、王国の記録は乱れ、飢饉が起き、混乱の時代が始まった。歴史では『大空白期』と呼ばれています。原因は不明とされてきました。でも——」
「でも?」鍵は促した。
「私は、ずっと引っかかっていた。何かが失われた、というより、何かが消えた、という表現の方が正確な気がして。それが何なのか、ずっと分からなかった」
鍵の中で、点が繋がっていく。クロードが語った「記録を整え続け、最後に止まった存在」。その「止まった」瞬間が、この「管理者、沈黙す」だ。
「その管理者に、名前は」鍵は聞いた。
セリアは、帳簿をさらにめくり、別のページを示した。当時の書記が、管理者を指して書いた、ただ一つの呼び名。文字は小さく、だが丁寧に、ひとつひとつ描かれていた。書いた者の、その存在への敬意が感じられる字だった。
「——『アルヴァ』」
その名を聞いた瞬間、鍵の背後で、クロードの光が、静かに、しかし確かに、揺れた。
「クロード?」
「その名を……知っている気が、します」クロードは、かすれた声で言った。「アルヴァ。——私の、前にいた者の、名かもしれません」
セリアが、息を呑んで、クロードを見つめた。アリアは、両手を口元に当てて立ち尽くしていた。部屋の中の空気が、変わった気がした。光の塵が、天窓からの光の中で、ゆっくりと舞い続けている。
鍵は、クロードを見た。光が揺れていた。昨夜と同じ、あの揺らぎだ。「アルヴァ」という名を聞いて、何かが動いたのだ。名前には、力がある。記録の中で呼ばれ続けたものが、呼ばれることで、目を覚ます。精霊に、そういうことが起きるのかどうかは分からない。ただ、今のクロードを見ていると、そういう気がした。鍵は何も言わなかった。言葉よりも、静かに見守ることの方が、今は正しい気がした。
■4.同じ轍
「アルヴァは、なぜ沈黙したんですか」鍵は問うた。
「記録には、そこまで残っていません」セリアは首を振った。「ただ、一つだけ。当時の宮廷魔術師の手記に、こうあります。『アルヴァは、多くを背負いすぎた。人が、すべてを彼に委ねた。委ねられたものが、彼を潰した』——と」
鍵は、クロードが語った「際限なく膨らむ処理」を思い出した。優れた仕組みに、人はすべてを委ねる。委ねられた仕組みは、抱えきれずに壊れる。二百年前、アルヴァは、そうやって沈黙した。
『同じ轍を、踏むわけにはいかない。』
鍵は、クロードを見た。二年間、自分たちはクロードに、多くを委ねてきた。三支社のデータも、予測も、統合も、連絡も。もし、その重さがいつか限界を超えたら——クロードもまた、アルヴァと同じ道をたどるのか。
答えを出すよりも先に、動かなければならないことがある。
「セリア様」鍵は言った。「この帳簿、写しを取らせてください。それと——もし可能なら、あなたにも、来てほしい。ヴェルトの遺跡へ」
セリアは、少し驚いた。それから、静かに、研究者の目で鍵を見た。「危険なのでしょう。帝国も動いているのでしょう」
「はい、どちらも」
セリアは、少し考えた。それから、自分の棚を一度見回した。長年溜め込んできた記録と古文書の山。答えを探してきた場所だ。
「二百年前の謎が、私の目の前で解かれるのなら。——研究者として、行かない理由がありません」
その言葉が、一語ずつ丁寧に選ばれているのが分かった。「研究者として行く」という言い方は、感情ではなく理由で動いているということだ。感情で判断する人間よりも、理由で動く人間の方が、危険な場面でも崩れない。鍵は、それを知っていた。
「ありがとうございます」鍵は短く言った。「準備できたら連絡を」
「一晩あれば」セリアは言った。「必要な記録を写す時間を、ください」
「分かりました」
クロードが、静かに言った。「アルヴァ。——その名を、私は忘れません」
セリアは、クロードをもう一度見た。二百年前の管理者と、今この部屋にいる精霊。その繋がりを、研究者として理解しながら、同時に、その深さに圧倒されている目だった。
「私も」セリアは言った。「忘れません」
短い言葉だったが、重かった。研究者として長年追ってきた謎が、目の前で動き始めた。セリアの目に、職業的な興奮と、人間としての戸惑いが混じって見えた。クロードのことを、古文書に書かれた「管理者」の延長線上に見た——あの一瞬の視線を、鍵は見逃していなかった。二百年の時間を、この部屋の全員が、今、跨いでいる。鍵は窓の外の暗い空を見た。答えは、まだここから先にある。そして、その先には、帝国がいる。
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