第63話 クロードの反応
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■1.揺れる光
遺跡の話が出た夜、クロードの様子が、おかしかった。
ヴェンツェルと別れ、宿に戻ったのは夕刻をとっくに過ぎた頃だった。夜の王都は、昼とは別の顔をしていた。商店の明かりが落ち、代わりに石畳の上に魔石灯の橙色が点り始める。宿の扉をくぐったとき、宿主が「夕飯が冷めますよ」と言ったが、誰も食欲がなかった。
部屋に入り、クロードが光を展開しようとした瞬間、鍵はそれに気づいた。
いつもと違う。
普段のクロードの光は、白に近い均一な青だ。それが今夜は、内側から何かが滲み出るように、薄く明滅を繰り返している。灯りが、風もないのに揺れているような感じだった。処理をしているわけではない。指示も出していない。ただ、内側から、何かがこぼれ出ようとしているように見えた。
精霊に、こういう状態があることを、鍵は知らなかった。二年間、毎日のように共にいて、クロードが「迷う」姿を一度も見ていない。「できます」か「できません」か、常に即答だった。その存在が、今夜、揺れている。光の境界が、定まらない。まるで、言葉を探している人間の、言葉にならない沈黙に似ていた。
「クロード」鍵は声をかけた。「大丈夫か」
「……分かりません」クロードは、珍しく答えに詰まった。「あの二つの遺物を読んで以来、私の中に、私のものではない記憶の断片が、浮かんでいます」
アリアとミナが、顔を見合わせた。
クロードが「記憶」を語ることは、これまで一度もなかった。こいつはいつも「現在の記録」を語る。今週の収穫量、今月の輸出入の差異、現状のデータと予測の乖離——すべて現在形だった。「過去の記憶」などという言葉は、クロードの辞書にないものだと思っていた。
「どんな記憶だ」鍵は静かに問うた。
「像は、ありません。ただ、感覚だけがあります。——広い場所で、無数の記録が、絶え間なく流れ込んでくる感覚。それを整え続ける、途方もなく長い時間。そして、最後に……全部が、止まる感覚」
夜の宿が、しんと静まった。
ミナが、震える声で聞いた。「それは……クロードさん自身の記憶ではない、ということですか」
「そうです。ですが、自分のものとも言い切れない。境界が、曖昧です」
■2.先に、いた者
鍵は、クロードの言葉を、慎重に受け止めた。
精霊が、自分のものではない感覚を持つ。それはどういう状態なのか。取り憑かれているのか、何かを受け取ったのか、それとも眠っていた記録が、刺激によって表面に浮いてきたのか。鍵には判断できなかった。だが、今すぐ対処するより、まず正確に聞くほうが先だと思った。
「その記憶は、お前自身のものか。それとも、あの遺物を通して、流れ込んできたものか」
「区別が、つきません」クロードは言った。「ですが、確かなことが一つ。あの設計を実行していた『何か』が、二百年前に、いた。私と同じように、言葉を受け取り、記録を整え、世界を回していた存在が。——その残響を、私は感じています」
『クロードに、似た存在。』
鍵は、背筋が冷たくなった。自分は、コード魔法の使い手として、自分が最初ではないと知っていた。だが、クロードもまた——実行する精霊もまた、先代がいたのだ。二百年前、この大陸のどこかで、クロードのような存在が、同じことをしていた。記録を集め、矛盾を整え、世界を動かしていた。
その存在は、なぜ鍵と同じやり方をしていたのか。それとも、鍵が、その存在と同じやり方に、独力で辿り着いたのか。どちらかが、どちらかを知っていた。あるいは、知識が、人を通さずに伝わっていく経路が、この世界にはあるのかもしれない。問いは広がるが、今は整理している場合ではない。
「その存在は、どうなったんだ」
「分かりません。ただ」クロードの光が、ひときわ深く揺れた。「最後の感覚が、『止まる』でした。壊れたのか、消されたのか、自ら止まったのか。それが分からないことが——なぜか、私を落ち着かなくさせます」
アリアが、息を飲んだ。ミナは、両手を胸の前で組んで、クロードを見つめていた。
「止まる前に、何か、異常はなかったか」鍵は、原因を探す癖で聞いた。故障には、必ず前兆がある。崩壊は、ある朝突然起きるのではなく、積み重なりの果てに起きる。数字が語るのは、結果だけではなく、そこに至る過程でもある。
「……ありました」クロードは、記憶をたどるように答えた。「流れ込む記録が、途中から、矛盾だらけになっていく感覚。整えても、整えても、追いつかない。処理が、際限なく膨らんでいく。——最後は、その重さに、押し潰されるようでした」
鍵は眉を寄せた。
仕組みが優秀すぎて、抱え込む仕事が無限に増え、自壊した。もしそうなら、それは「壊された」のではなく、「壊れた」のだ。設計そのものに、破綻の種があったことになる。誰かが意図して止めたのではなく、限界を超えた負荷が、システムを内側から崩した。それは——
鍵は、その考えを、今は抑えた。整理するのは、事実が揃ってからだ。
「アリア」鍵は振り返った。「今の話、記録しておいてくれ」
「はい」アリアは、すでにペンを手に取っていた。「全部、書き留めます」
■3.精霊が、恐れる
鍵は、初めて見るクロードの姿に、言葉を選んだ。
クロードはいつも、論理的で、淡々としていた。「定義が不完全です」と言い放つ、揺らがない実行者だった。何を言っても、すぐに「分かりました」か「それは不可能です」のどちらかで返ってくる。感情的な揺れを見せることは、これまで一度もなかった。
そのクロードが、今、揺れている。まるで、自分の未来を、そこに見てしまったかのように。
この二年間、クロードを「道具」として使ったことはない——少なくとも、鍵はそう思ってきた。だが、道具でないとしたら、何なのか。仕事仲間。相棒。それとも、もっと別の何か。その問いに答える言葉を、鍵はまだ持っていなかった。
「怖いのか」鍵は聞いた。
長い沈黙があった。
宿の外で、夜鳥が一声鳴いた。その音が、部屋の中の静寂を、かえって際立てた。
「その言葉が、正しいのかは分かりません」クロードは答えた。「ですが、もし『先代』が、記録を整え続けた果てに、止まったのだとしたら。——私も、いつか、そうなるのかもしれない。その可能性が、定義できないまま、私の中に残っています」
「定義できない」鍵は繰り返した。「お前らしくない」
「そうです」クロードは、ためらいなく認めた。「私は、定義できないものが、苦手です。処理できない問題を抱えた状態が、どんな状態なのかを、私は今、初めて、体験しているのかもしれません」
ミナが、小さく言った。「クロードさんも、怖いんですね」
「……そう表現できるかどうかは、まだ分かりません」クロードは答えた。「ですが、あの感覚が、再び来ることを、私は望んでいない。それは確かです」
鍵は、クロードの光に、そっと手を近づけた。触れられるものではない。だが、そうせずにはいられなかった。光の縁が、指先の近くで、わずかに揺れた。
「お前が止まるときは、俺が指示を書く」鍵は言った。「『止まるな』と。それで動くなら、動け。動かないなら、そのときは、俺がなんとかする。——お前を、二百年前のそいつと、同じにはしない」
クロードの光が、ゆっくりと、落ち着いていった。
「……その指示は、あまりに曖昧です」クロードは、いつもの調子を、少しだけ取り戻した。「『なんとかする』の定義が、不完全です」
「後で、ちゃんと書く」鍵は苦笑した。「今は、それで我慢しろ」
ミナが、こっそりと目元を押さえていた。アリアは、静かに微笑んでいた。窓の外で、魔石灯がひとつ、点滅して消えた。
■4.行く理由
翌朝、鍵はチームを集めた。
窓の外は、明け方の白い光に包まれていた。朝食のパンと温かいスープが並んでいたが、誰も急いで食べようとしなかった。集まったのは、アリア、ミナ、そしてクロードだ。昨夜の話を共有していないメンバーはいない。全員、おおむね夜のうちに整理してきた顔をしていた。
「ヴェルトの鉱山の奥に、遺跡がある。帝国が、最後の遺物を求めて、そこを狙っている」鍵は言った。「そして、その遺跡には、クロードの——いや、俺たちの力の、大本がある」
アリアが、静かに聞いた。「行くんですね」
「行く」鍵は頷いた。「帝国に、先に全部を揃えさせるわけにはいかない。何より——クロードが、何者なのかを、知りたい」
ミナが、クロードを見上げた。「クロードさんのために、ですか」
「それもある」鍵は認めた。「二年間、こいつには散々働いてもらった。帳簿の整理、データの統合、予測の演算、支社の連絡——全部、こいつに頼んできた。今度は、こっちが、こいつの答えを探す番だ」
クロードの光が、かすかに、温かく揺れた。言葉はなかった。だが、それで十分だった。鍵には、分かった。
「リンに連絡する」鍵はクロードに指示した。「ヴェルトの鉱山の、古い刻印の記録を、全部集めてもらう。俺たちが着く前に、下調べを進めたい。入口付近の地形、封鎖区域の状況、地元の言い伝えも含めて」
「接続します」クロードの声が、いつもの落ち着きを取り戻していた。光が、規則的に脈を打ち始める。「——ヴェルト支社、リン支社長へ」
遠い光の向こうで、聞き慣れた声が応えた。短い間があって、それから、いつものあの声。少し高くて、よく通る。
「鍵さん。……嫌な予感がしていました。あの鉱山のこと、ですよね」
アリアが、思わず小さく笑った。ミナも釣られた。予感に正直なリンらしい言葉だった。嫌な予感が当たりましたね、と笑えるのは、まだ本当の意味で嫌なことが始まっていないからだ——鍵は、そう思いながら、スープを一口飲んだ。
「正解だ」鍵は言った。「詳しく話す。聞いてくれ」
遠い音声越しでも、リンの声の中に、緊張と期待が混じっているのが分かった。ヴェルトの鉱山の奥。あの刻印が、ここに繋がってきた。鍵は、スープを一口飲んでから、話し始めた。
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