第51話 東境の町セルカに入る
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■1.三日かけて東へ
ブルーの港を出て三日、馬車は乾いた東の街道を進んでいた。
海の湿った空気が、少しずつ土と草の匂いに変わっていく。窓の外に見えるのは低い岩山と、まばらな麦畑だ。人の姿が減り、荷馬車とすれ違う回数も減っていった。二日目の昼を過ぎると、対向から来る旅人の姿もほとんど消えた。三日目の朝には、街道の轍が薄くなり、馬車がときどき草の茎を踏む音がした。
「静かですね」
ミナが地図を膝に広げながら言った。声に少し緊張が混じっている。
「静かすぎる」鍵は答えた。「東の国境は、本来なら交易でにぎわう場所だ。帝国と王国のあいだの物流が全部通る。商人、馬車、行商の荷台——それが、ほとんど来ない」
「以前はもっと賑わっていたんですか」
「宰相府の記録では、三年前の通行量の六割が消えているそうです」アリアが地図の端を指で辿りながら言った。「依頼状に書いてありました」
鍵は宰相府の依頼状を思い返した。フィルバート・レーゲという役人からの文書で、多くは書かれていなかった。「商業、農業、情報流通のいずれかに異変」。それだけだ。レーゲは原因を掴めないまま、とにかく現地を見てほしいと繰り返していた。手紙の末尾には、「どこに問題があるのか、私自身にもよくわからないのです」と、珍しく正直な一文が添えられていた。
「情報が少なすぎる依頼は、たいてい厄介だ」鍵は言った。「依頼した側も、何が起きているか分かっていない。でも、分からないということは分かっている。まず、異変を『見える形』にするところから始めないといけない」
「見える形、というのは」ミナが問う。
「数字に直す。記録と記録を比べる。時系列に並べる。診断できないのは、患者のどこが悪いかをまだ検査していないからだ。検査結果が手元にあれば、あとは絞り込んでいくだけでいい」
アリアが窓の外を見た。「なのに、荷馬車が来ない」
『流れが止まっている。』
鍵は心の中でそう思った。製造ラインでも同じだ。工程のどこかで詰まると、その先の全部が静かになる。ライン全体が「動かない」ように見えても、たいていは一箇所だけが問題だ。その一箇所を見つけて、開いてやる。異変というのは、たいてい「動いているべきものが動いていない」という形で最初に現れる。問題はその「どこが詰まっているか」だ。
夕方、盆地のなかに町が見えてきた。石壁に囲まれた、こぢんまりとした国境の町——セルカ。
馬車が門を抜けると、石畳の音が変わった。馬の蹄の響きが、狭い建物の間で跳ね返る。門の脇に控えた番兵が、こちらを一瞥したが、とがめる様子はなかった。市場のあるはずの広場には、店の台が並んでいたが、売り物が少なく、客もまばらだった。果物を売る老人が一人、暇そうに空を眺めている。隣の台はもぬけの殻だ。以前は賑わっていたのだろう、石畳の上に古い染みが残っていた。
「ここも静かだ」アリアがつぶやいた。
「入ってから、すれ違った人が六人」クロードが静かに言った。「時刻と場所から推定すると、平均的な国境の町の三分の一以下の人出です」
鍵は石畳を踏みながら、広場の端まで視線を流した。
『静かさには、理由がある。必ず。』
■2.噛み合わない三つの記録
宿を取るより先に、鍵は町の会所へ向かった。
会所は広場の奥にある石造りの二階建てだ。扉を開けると、くたびれた机と羊皮紙の束が目に入った。役人が二人、向かい合って座っていたが、どちらも疲れた顔をしている。片方が顔を上げ、AIカンパニーの名を聞くと、露骨に安堵した。宰相府から「王都の連中が来る」と先に報せが届いていたらしい。
「助かります」役人は立ち上がり、机の上の書類を片端に寄せながら言った。「三ヶ月、この問題を抱えたまま、どこから手をつければいいか分からなかった」
「何が起きているんですか」
鍵が単刀直入に聞くと、役人は疲れた顔で首を振った。
「それが……分からんのです。物が、合わない」
「もう少し具体的に」
「記録が合わない、ということです。荷の通行記録と、倉庫の記録と、商人組合の受け渡し記録——この三つが、本来なら同じものを指しているはずなのに、どこを見ても数が一致しない。担当者に聞いても、自分の帳簿は正しい、と言うばかりで。どこが間違えているのか、誰が間違えているのか、どうにも掴めなくて」
役人は肩を落とした。「最初は誰かの記録ミスだと思っていました。でも三ヶ月見ていると、どうもそれだけじゃない気がして」
鍵はまず、町にある三つの記録を出させた。関所の通行台帳、商人組合の荷の受け渡し記録、そして町の共同倉庫の入出庫簿。この三つは、本来なら同じ荷を別の角度から記録しているはずだ。関所は「入ってきた荷」を、組合は「受け取った荷」を、倉庫は「保管された荷」を記録する。同じ荷が三段階で記録されるから、どこかで数が変わっていれば、比べれば見える。
「クロード、突き合わせてくれ」
鍵が石板に指示を書くと、クロードの光が三つの帳簿の上を走った。文字を読み取り、数値を抽出し、日付ごとに整理していく。会所の役人二人が、その光をぽかんと眺めていた。
「……一致しません」
「どれくらいだ」
「関所を通った荷の数と、倉庫に入った荷の数が合いません。差は一定ではなく、日によって揺れています。通行記録にはある荷が、倉庫記録から消えている例が、この一月で四十件を超えます」
「四十件」鍵は数字を確かめた。「月に四十件。一日あたり一件以上だ。これはミスじゃなく、構造的なものだ」
役人が青ざめた。「盗まれている、ということですか」
「まだ分かりません」鍵は帳簿をなぞった。「盗みなら、倉庫の在庫の数が実際に減る。でもこれは、記録そのものが食い違っている。荷が消えたのか、記録が消えたのか、まずそこを分けないといけない」
鍵はクロードに、三つの記録の差を日付ごとに折れ線にさせた。荷が実際に減ったのなら、倉庫の在庫がなだらかに落ちるはずだ。だが線は、そうならなかった。前後の在庫量は繋がっているのに、ある特定の日だけ、記録が一行ごっそり抜けている。前日の残高から翌日の残高を引いた差と、その日の出入庫記録が噛み合わない。
「在庫の流れは切れていません」クロードが言った。「前の日の残高と、翌日の残高を見ると、物は動いている。ただ、動いた事実が書き残されていない。在庫の帳尻は合っているのに、その日の記録だけが白紙になっている」
「物より、記録に穴が開いている」鍵はつぶやいた。「それは、盗みじゃなくて、隠蔽だ」
会所の役人が小さく声を上げた。「つまり、誰かが意図的に——」
「そう考えるのが自然です」クロードが続けた。「ランダムな記録ミスなら、抜け方に規則性はない。ですがこの四十件の欠落には、共通のパターンがある。どれも、午後から夜の間の取引です。記録を扱う担当者が交代する時間帯に集中しています」
鍵は役人に聞いた。「帳簿の記録担当は、何人いますか」
「昼と夜で二人です。交代は、日暮れ前後で」
「引き継ぎのとき、帳簿を両者が同時に確認する仕組みはありますか」
役人は首を振った。「……それは、してませんでした」
「担当者が一人になる時間帯に、記録が消えている」鍵は整理した。「見ている人間がいない瞬間を狙っている。これは偶然じゃない」
もう一人の役人が、腕を組んで言った。「でも、担当者が自分でやったとなると——私たちの仲間が、ということに」
「今は、まだそこまでは言えない」鍵は首を振った。「担当者が意図してやっているのか、誰かに台帳を操作されているのか、まだ分からない。決めつけるのは、証拠が揃ってからだ」
■3.異変の輪郭
その晩、宿の主人からも話を聞いた。
夕食を終えた後、宿の主人が自ら酒を持って席についた。少し迷っている様子で、「差し支えなければ」と前置きしてから、椅子を引いた。自分一人で長い間、抱えてきた話を、ようやく吐き出す機会を見つけたような顔だった。
最近、東の村のいくつかで「人がいなくなる」という噂があるという。夜逃げでも、行方不明でもない。ある日、村人が「あの家、誰が住んでたんだっけ」と言い出す。名前を思い出せない。記録を見ると、その家の登録そのものが空欄になっている。
「気味が悪いでしょう」宿の主人は声を落とした。「物が消えるだけじゃない。人の記録まで、綺麗に抜けてるんです」
「その家の人は、どこへ行ったんですか」アリアが聞いた。
「それが、誰も覚えてないんです」宿の主人は首を振った。「顔も、名前も。でも竈の灰はまだ温かかった。ついこの間まで、確かに誰か住んでたはずなのに」
アリアが眉をひそめた。人が消えるだけでも異常なのに、消えたことを町の誰もが忘れている。まるで、記録が消えると同時に、人の記憶からも抜け落ちていくかのようだった。
「荷の記録が消える。人の登録が消える」ミナが静かに言った。「同じ手口が、物と人の両方に使われている気がします。連動していませんか」
鍵はミナを見た。「どういう意味だ」
「荷を消すためには、荷を運んだ人間も消した方がいい。証人がいなくなれば、不正を証言できる人間もいなくなる。物証と人証を、一緒に消している」
アリアの顔が少し青くなった。「それって——」
「証拠隠滅」鍵は静かに言った。「物証だけじゃなく、人証まで。ていねいな仕事だ」
ていねいな、という言い方は奇妙かもしれない。だがこれだけ体系立てて記録と人を消せる相手は、計画的で、資源がある。衝動や場当たりじゃない。
鍵はノートに書き留めた。物の欠落。人の欠落。どちらも「記録ごと」消えている。そして二つは、おそらく連動している。
『盗みでも、災害でもない。誰かが、記録を書き換えている。そして、書き換えを知っている人間を、記録から消している。』
会所に戻り、鍵はクロードに欠落した四十件の日付と品目を並べさせた。ばらばらに見えたその数字を、クロードが時系列に並べ替えたとき、光の板の上に薄い模様が浮かんだ。
「鍵さん」クロードが静かに言った。「この欠落、規則性があります」
「規則性?」
「消えている記録は、すべて——帝国方面へ向かう荷の日に集中しています」
鍵は顔を上げた。窓の外、東の空はもう暗い。その向こうに、帝国がある。
「帝国方面の荷だけが、消えている」鍵は繰り返した。「ランダムじゃない。方向が、一定だ」
ブルーで見た記録操作の痕跡が、頭の中で重なった。あのときも「消えた荷」は帝国方面に向かう船と重なっていた。海を挟んだ二つの都市で、同じ方向を向いた痕跡が現れている。点が、また一つ繋がった。
「明日、東の村を回ろう」鍵はクロードに向かって言った。「記録が消えた家を、直接確かめる」
クロードの光が静かに揺れた。了解の合図だ。
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