第50話 ルナを支社長に任命してArc3を締める
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■1.ヴォルフへの報告
ブルー支部の執務室に、王国文書の封蠟が積まれていた。
鍵はその一角に数字を並べた羊皮紙を広げ、最終確認をした。参加率、取引量、脱税件数。30日間の集計。クロードが整理した数字は、嘘をつかない。
「行こう」
王城の謁見室は、三週間前と同じ石造りの空気だった。でも鍵の感覚は違った。あのとき手元にあったのは「仮説」だけだった。今日は「結果」がある。
ヴォルフは椅子の背にもたれ、鍵を見た。アリアが隣に立ち、ミナが扉のそばで控えている。
「30日経ったな」
「経ちました」
「で、どうだった」
鍵は羊皮紙を差し出した。
「参加率70パーセント。取引量85パーセント増。——そして」
「そして?」
「脱税件数は、30日間でゼロになりました」
ヴォルフが眉を上げた。
「ゼロ?」
「はい」
「罰則を強化したのか」
「いいえ」鍵は首を振った。「取り締まりも、罰金も、増やしていません。変えたのは記録の方法だけです」
「……どういうことだ」
「記録が可視化されたので、隠せなくなったんです」
ヴォルフがしばらく無言だった。謁見室の窓から差し込む光が、石の床を斜めに切っている。
「統一記録制度で、取引ごとに証跡が残るようになりました。脱税をしようとすると、数字の食い違いがそのまま記録に残る。誰かに見られているかどうかではなく、記録そのものが矛盾を指摘する構造です」鍵は続けた。「摘発が怖いから正直にするのではなく、不正をする余地がなくなった、ということです」
ヴォルフが羊皮紙を手に取り、数字に目を落とした。
長い沈黙。
「……面白い」
それだけだった。でも鍵には充分だった。ヴォルフが「面白い」と言うとき、それは本当に感心しているときだと、もう知っていた。
「クリアでいいですか」
「ああ」ヴォルフは羊皮紙を机に置いた。「条件はクリアだ。お前、本当にやったな」
アリアが小さく息を吐いた。ミナが扉のそばで、ほんの少し口元を緩めた。
「ひとつ、お願いがあります」
鍵は続けた。ヴォルフが視線を向ける。
「ブルーの記録を、これからも維持したい。ただ、私たちだけでは限界があります。現地に、専任で動ける人間が必要です」
「誰を考えている」
「ルナ・ハービスを、ブルー支社長に任命したい」
ヴォルフが少し目を細めた。それから、短く頷いた。
「貿易局との調整は?」
「これからします」
「なら任せる」
「ありがとうございます」
鍵は頭を下げ、アリアと目を合わせた。アリアが小さく頷いた。——次は、ルナのところへ行く番だ。
■2.ルナへの打診
港の事務所は、いつも通り書類の山だった。
ルナ・ハービスは窓際の机で羊皮紙を広げ、何かを書き込んでいた。鍵とアリアが入ってきても、「少し待ってください」と言ったまま、ペンを止めなかった。
三行ほど書き終えて、ようやく顔を上げた。
「——どうぞ」
「話があります」
「30日の報告は聞きました。おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも今日の話は、それとは別で」
ルナが背筋を伸ばした。
「ルナさんを、ブルー支社長にしたいと思っています」
沈黙。
ルナは鍵を見た。それからアリアを見た。それからもう一度、鍵を見た。
「……私は、貿易局の職員で——」
「掛け持ちでいいです」
「え?」
「ブルーの貿易データを本当に理解しているのは、ルナさんしかいない。この30日間でわかりました。記録制度を動かしたのも、業者との信頼を作ったのも、全部ルナさんがいたからです」
「でも、支社長というのは——」
「形式上の話でいえば、あなたはすでに動いていた。名前をつけるだけです」
ルナがしばらく机の上を見つめた。何かを考えるとき、ルナはいつも視線を落とす。それも、もう知っていた。
「……責任の範囲は、どこまでですか」
「ブルーの取引記録の管理、業者との窓口、クロードへのデータ連携の判断。それだけです」
「クロードというのは、あの精霊?」
「はい。クロードが処理する前に、ルナさんが内容を確認する役割です」
もう一度の沈黙。
「……やります」
それから、ルナは少し顔を上げた。
「でも」
「はい」
「給料は?」
アリアが吹き出しそうになるのを、鍵は横目で見た。ルナらしい、と思った。感動的な場面でも、現実を手放さない。
「そこは交渉します」アリアが笑いながら言った。「ちゃんと払います。貿易局の給与に上乗せで」
「上乗せ?」
「ブルーの取引量が増えれば、私たちの売上も増えます。ルナさんの取り分もそれに連動させたい」
ルナが目を細めた。計算している顔だった。
「……悪くないですね」
「悪くないでしょう」
「わかりました」ルナは羊皮紙を片付け、立ち上がった。「では、いつから?」
鍵はアリアと顔を見合わせた。
「今日から、でも構いませんか」
ルナが短く息を吸い、頷いた。
「構いません」
ブルー支社、始動——と鍵は思った。
■3.3支社体制の完成
宿の広間に、クロードが新しい組織図を展開した。
光の輪郭で描かれた図の中に、三つの拠点が並んでいた。エルム。ヴェルト。そして今日から加わったブルー。それぞれの下に、名前がある。
「支社が3拠点になりました」クロードが言った。「エルム・テオ。ヴェルト・リン。ブルー・ルナ。——処理キューを3分割します」
「3分割」アリアが繰り返した。「それぞれ独立して動くということ?」
「はい。ただし、統合レポートは私が毎週まとめます。鍵さんは全体を見る。各支社長は現地を見る。役割の分離です」
「いい構造だ」鍵は腕を組んだ。「テオとリンにも報告しよう」
「今から、ですか?」
「今から」
アリアが少し顔を輝かせた。クロードが静かに頷く。
「接続を試みます」
クロードの周りに、薄い光の層が広がった。遠距離での情報連携——クロードが各拠点の担当AIと繋がる、新しい試みだった。
「……エルム支社との接続、確認しています」
しばらく待った。
「テオ、聞こえるか」
鍵が声をかけた。
クロードの光の中に、別の声が混ざってきた。エルムのイントネーション。少し訛りがある。
「——聞こえてます。鍵さん、久しぶりです」
テオの声だった。
アリアが小さく笑った。「久しぶり、テオ」
「アリアさん。何かありました?」
「ブルーに支社長が決まった。ルナさんという人で、貿易局の人間だ。3支社体制が整った」
一瞬の間があった。
「……おめでとうございます」テオの声が言った。「じゃあ、私たちは三人になったんですね」
「そういうことだ」
「リンにも繋いでみますか」
「頼む」
クロードの光が広がった。ヴェルト方向への接続。少し遅延があり——それから。
「……リン、聞こえますか」
「聞こえてます」
リンの声は落ち着いていた。いつも通りだ、と鍵は思った。
「テオも繋がっています」クロードが言った。「3支社、同時接続。初めての試みです」
「ルナさん」アリアがルナに目を向けた。「せっかくだから、自己紹介しますか」
ルナが少し戸惑いながら、光の方向に向き直った。
「——ルナ・ハービスです。ブルーの担当になりました。よろしくお願いします」
「テオです。よろしく」
「リンです。よろしくお願いします」
三人の声が、光の中に重なった。
クロードが静かに言った。
「3支社、接続完了です」
それだけの言葉だったが、鍵には何かが変わった感覚があった。点が、線になった瞬間。
■4.Arc3の振り返り
夕方の港は、橙色の光で染まっていた。
ブルーの海が広がり、漁師の船が沖から戻ってくる。鍵とアリアとルナとミナが、桟橋のそばの石段に腰を下ろしていた。クロードは少し離れたところに立って、海を見ていた。
「終わったな」
鍵が言った。
「終わりました」アリアが答えた。「Arc——とは言わないですけど、ブルー編が」
「ブルー編」鍵は繰り返した。「3つの都市をまわって、3人の支社長が揃った」
「テオ、リン、ルナ。みんな個性がありましたね」
しばらく誰も何も言わなかった。波の音が続く。
「どこが一番大変だったと思う?」
アリアが口を開いた。質問というより、独り言に近い声だった。
「エルムですか」ミナが静かに言った。
「なんで?」
「アリアさんの実家だったので」
「それを言わないでください」
アリアがすぐに返した。鍵は笑いをこらえた。
「でも確かに、エルムは複雑だった」鍵は続けた。「アリアの家族も関わってたし、商業ギルドの構造も古かった。テオを信頼するまでが時間かかった」
「テオは最初、頑なでしたからね」アリアが言った。「でも芯がある人だった」
「ヴェルトはどうだった」
「ヴェルトは……農業を私も知らなかったので、最初は不安でした」アリアが少し眉を寄せた。「鍵さんはどうでしたか?」
「俺も農業は素人だ。でもリンが全部知ってた」
「そうなんです」アリアが頷いた。「リンがいたから回った。私たちが知らないことを、現地の人が知っていた——ということが、ヴェルトで分かりました」
「支社長は教える人じゃない」鍵は言った。「知っている人を探す仕事だ」
「それ、最初から分かってましたか?」
「エルムで気づいた」
アリアが少し笑った。
「ブルーは?」ミナが聞いた。
「ブルーは言語が多かった」鍵は港を見渡した。「商人が入り混じって、それぞれ別の言葉で記録してた。標準化するだけで、相当な労力だった」
「でもルナさんがいた」アリアが言った。
「でもルナがいた」鍵が繰り返した。
ルナが少し首を傾けた。
「……私のことですか」
「あなたのことです」
「大げさじゃないですか」
「大げさじゃない」
ルナがまた視線を落とした。照れているのか、困っているのか、どちらとも判断できない顔だった。
「クロード」鍵は振り返った。
「はい」
「3拠点、全部まわって——お前はどこが一番面白かった?」
クロードが少し考えた。AIが「考える」というのが何を意味するのか、鍵にはまだ分からない。でも、間があることは分かっていた。
「定義が曖昧なまま現場が動いていた場所が、一番興味深かったです」
「それはどこだ」
「3拠点、全部です」
アリアが吹き出した。ミナが口元を押さえた。ルナが微妙な顔をした。
「お前、そういうやつだったな」
「はい」クロードは静かに言った。「でも、3拠点でそれぞれ違う解決策が出たのが面白かったです。エルムは信頼の問題で、ヴェルトは知識の問題で、ブルーは言語の問題でした。同じ『記録が残っていない』という課題でも、原因は全部違った」
鍵は海を見た。
「そうだな」
「問題の定義が違えば、解決策も変わります。当たり前のことですが、実際に見ると発見があります」
「それ、最初から言えよ」
「言いました。第1拠点の段階で」
「覚えてないな」
「記録が残っています」
「後で見る」
アリアがまた笑った。夕暮れの桟橋に、笑い声が溶けていった。
■5.Arc4へ
日が傾き、空が紺色に変わりかけた頃。
宿に戻った鍵たちのもとに、ミナが一枚の封書を持ってきた。王国紋章の封蠟。ただし、いつものヴォルフからの文書とは違う。
「鍵さん」
「何だ」
「王都から、緊急の手紙が来ています」
鍵が受け取った。重い紙質。封蠟を見ると——見覚えのない紋章だった。
「差出人は」
ミナが少し間を置いた。
「……王国宰相府です」
アリアが顔を上げた。
鍵は封書を開いた。文字は丁寧だったが、内容は短かった。
『王国の東の国境付近で、原因不明の異変が起きている。商業、農業、情報流通のいずれかに影響が及ぶ可能性がある。現地の情報整理を、貴社に依頼したい。至急の返答を求む。——王国宰相府、フィルバート・レーゲ』
鍵はしばらく手紙を見ていた。
アリアが横から覗き込み、読み終えてから、静かに言った。
「……規模が変わった」
「そうだな」
これまでの依頼は、ヴォルフを通じてきた。都市ひとつ、課題ひとつ。でもこれは宰相府——王国全体を動かす組織からの、直接の要請だ。
「東の国境」ミナが繰り返した。「どんな異変なんでしょう」
「わからない」鍵は手紙を折り畳んだ。「情報が少なすぎる。まず現地の状況を把握するところからだ」
「行くんですか」
アリアが聞いた。確認というより、確信している声だった。
「行こう」
鍵は立ち上がり、クロードを見た。クロードが静かに頷く。
「クロード。宰相府の依頼を受けるとして、まず何が必要だ」
「現地に近い拠点の確認と、情報収集の優先順位の定義が必要です」クロードは言った。「それから、これまでの3支社のデータと、東の国境付近の既存記録を照合します」
「照合できる記録があるか?」
「一部あります。貿易ルートと農産物の流通記録が、ヴェルト支社のデータと重なる可能性があります。リンに確認を依頼します」
「頼む」
クロードの光が揺れた。
「それから」クロードが続けた。「新しい定義が始まります」
「どういう意味だ」
「これまでは、課題が見えていました。業者が記録を持っていない。農業のデータがない。言語が統一されていない。でも今回は——課題の定義から始める必要があります。何が起きているのか、まだ誰も知らない」
鍵は少し考えた。
「それのほうが、面白いかもしれない」
「そうかもしれません」
アリアが立ち上がり、上着を手に取った。
「ブルーにいるのは、あと何日ですか」
「ルナへの引き継ぎが終わったら出る。3日あれば充分だろう」
「じゃあ3日後に出発ですね」
「そうなる」
ルナが少し黙って、それから言った。
「——任せてください。ブルーは私が守ります」
鍵はルナを見た。
「ありがとう」
「でも給料の件は、出発前に書面で」
「書きます」
アリアがまた笑った。ミナが静かに扉を開けた。夜の海風が入ってきて、クロードの光が少し揺れた。
東の国境。情報不足。宰相府からの依頼。
鍵はノートを開き、一番上に書いた。
『Arc4:東の国境、情報収集と課題定義。』
「クロード」
「はい」
「定義、始めよう」
「了解しました」クロードが言った。「——新しい処理を開始します」
異世界AIカンパニー、Arc4——幕が開く。
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