第44話 30ヶ国の商人が集まる貿易港の混沌
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■1.朝の港
夜明けの光が海面を橙色に染めていた。
「さあ、行きましょう!」
ルナが振り返り、満面の笑みで手招きした。昨日出会ったばかりとは思えない屈託のなさだ。22歳という年齢のせいか、それともブルーという海の街で育ったせいか——鍵はどちらでもいいと思いながら、その背中を追った。
桟橋に出た瞬間、音と気配が変わった。
船のきしむ音。縄をひく声。荷物を投げ渡すときの叫び。そのひとつひとつが十種類以上の言語で飛び交っていて、鍵には半分も聞き取れなかった。だがルナは歩きながら次々と手を振った。
「あの大きいのがラーン商会の船です。穀物の専門で、東大陸から月に二便」
「あそこで荷下ろししてるのはアマル連合の人たちで——」
「ルナ! 今日も来たか!」
髭の太い男が桟橋の端から怒鳴った。言葉は北部訛りだったが、ルナは同じイントネーションで「商品は来週着きます!」と怒鳴り返し、男は豪快に笑った。
「何語で話したんですか、今」
「カライ語です。北の商人はあれで通じます」
何気なく言うが、鍵は昨日の自己紹介を思い出した。「八ヶ国語話せます」——それは誇張ではなく、むしろ現場では普通のことらしい。
港をぐるりと見渡した。
大型帆船が三艘、中型が五艘、それより小さな船が数え切れないほど係留されている。旗の色もかたちも違う。積み荷は香辛料、布、金属器、陶磁器——鍵の目には判別できないものも多くある。人の肌の色も服装もまちまちで、それでいてなぜかひとつの混沌として動いている。
「こんな場所は、現代でも珍しい」
思わず口に出た。
「現代?」
ルナが首を傾けた。
「……私がいた国でも、という意味です。これだけ多くの国の人間が一ヶ所に集まっているのは」
「そうですか? ブルーでは普通のことですが」
普通、という言葉が重かった。三十ヶ国から商人が集まる港を「普通」と言い切れる街。鍵はクロードをちらりと見た。精霊は静かに周囲を観察していた。その目には、処理すべき情報の多さへの反応も感情もなく——ただ静かに、見ていた。
「ここの取引量は、一日どのくらいですか」
「昨年の記録では、一日平均で三百二十件です」
「記録は全部残っている?」
「はい——それが今日お見せしたいものです」
ルナが歩みを速めた。港の奥、石造りの建物の群れに向かって。
■2.帳簿の山
貿易局の倉庫は、港から路地を二つ入ったところにあった。
扉を開けると、本の臭いがした。いや——正確には羊皮紙と革表紙と、わずかにカビの混じった、古い記録物の臭いだ。
棚が壁の上まで並んでいて、その全面に帳簿が詰まっていた。
「これが……」
「昨年分だけです」とルナが言った。「十年分はこの倉庫の奥の部屋にあります」
鍵は一冊を手に取った。表紙には「ラーン商会・年次取引記録」とあり、ページを開くと縦に細かい列が並んでいた。日付、商品名、数量、単価、合計、担当者名——それぞれ独自の様式で書かれている。
「これはA国……ラーン形式ですね」
「そうです。ではこちらはアマル連合のもの」
別の一冊を取り出した。同じく取引記録だが、列の並び順がまったく違う。左端が商品名から始まり、日付は右端にある。数量と単価の記載欄はあるが、合計欄は自分で計算する形らしく、空白になっているものもあった。
「こっちは?」
「カルーガ王国形式です。表の上に取引相手の名前が先に来ます」
三冊目を開いた。今度は横書きではなく、縦に文字が並んでいた。
「読めますか」
「少し。これはシェリカン語です」
ルナが棚を順に指差した。
「これがダーク連盟形式、これがイスタン商人組合形式、これがフリーポート自由書式、これが——」
「待ってください」
鍵は手帳を取り出し、書き始めた。
「全部で何種類ですか」
「十種類です」
「十種類」
繰り返した。一年間、三百二十件×三百六十五日の取引が、十種類の異なる形式で記録されている。
「それで、貿易局がやりたいのは、これを統合することですね」
「はい。全体の売買量・商品ごとの動向・主要取引先——そういう情報が今はまったく見えないんです。帳簿を一冊一冊読めば分かるんですが、それをやってる時間がなくて」
「どれかひとつの形式に統一すればいいのでは?」
言ってから、ルナの顔が曇ったのがわかった。
「それが難しくて——どの形式に合わせるかで、国ごとに主張が違うんです。ラーン形式にすると言ったらアマル連合が反発して、アマル形式にするとラーンと三ヶ国が異議を出して。どの国も『自分たちのやり方が一番合理的だ』と思っているから」
政治問題だ、と鍵は思った。
帳簿の統一は、技術の問題ではなく、誰の形式を採用するかという権力の問題でもある。
「形式を変えるのではなく、形式を跨いで読む方法が必要なんですね」
ルナが目を開いた。
「……そうです。そうなんです」
■3.クロードの問い
棚の前に椅子を持ってきて、三人で輪になった。
クロードは帳簿を一冊手に取り、ページをゆっくりとめくった。それから次の一冊を取り、同じようにめくった。鍵はその様子を黙って見ていた。クロードが何かを考えているとき、下手に声をかけない方がいいとわかってきていた。
しばらくして、クロードが口を開いた。
「各帳簿に共通する項目は何ですか」
ルナが考えた。
「……取引の日付、それと商品の名前、数量、金額——あとは取引相手の名前でしょうか」
「この五項目は、全ての形式にある?」
「はい。書く場所や順番は違いますが、どの帳簿にも必ずあります。これがないと取引記録にならないので」
「では、統合は可能です」
クロードが言った。鍵は手帳に書き込んだ。ルナは少し前のめりになった。
「どういうことですか」
「統合するとは、全部を同じ形式にすることではありません。各形式から、共通の五項目を取り出す手順を定めれば、異なる形式の帳簿であっても、同じ場所に並べて比べることができます」
「手順を……定める?」
「はい。これをマッピングと呼びます」
「マッピング」
ルナがその言葉を口の中で転がした。聞いたことのない語感だという顔だ。
「どういう意味ですか、マッピング」
「対応づけ、という意味です」クロードが続けた。「たとえば——ラーン形式の帳簿では、左から二列目に商品名があります。アマル形式では左端に商品名があります。この違いを事前に記録しておけば、どちらの帳簿を読んでも、商品名の列を見つけられます」
「形式ごとに……地図を作るようなものですか」
ルナが言い、クロードが一瞬止まった。
「的確な表現です」
「じゃあ、十種類の帳簿に対して、十枚の地図を作れば——」
「全部を同じように読めます」
ルナは棚を見渡した。積まれた帳簿の山を、何か別のものとして見ている目だった。
「それ、すごくないですか」
「技術的にはシンプルです」とクロードが言った。「ただし、マッピングの定義を正確に作ることが前提になります。形式ごとに、どの列が何を意味するかを事前に整理しておかないと、読み誤りが起きます」
鍵は手帳から顔を上げた。
「つまり、最初にやるべきことは——」
「各帳簿の構造を一冊ずつ確認して、五項目がどこにあるかを記録することです」
ルナが手を挙げた。まるで授業中の生徒のように。
「それ、私にもできますか」
「帳簿を読める方であれば」
「読めます。八ヶ国語、全部」
クロードがルナを見た。感情のない目だが、何か評価するような間があった。
「では、作業を分担できます」
■4.作業開始
「まず、全帳簿のサンプルを集めましょう」
ミナが声を上げたのは、倉庫の奥から出てきた直後だった。
昨日から黙って話を聞いていた彼女が、珍しくはきはきした口調で言った。手には白紙の羊皮紙を十枚束ねて持っている。
「十種類ぶん、一枚ずつ見本を抜き出して、横に並べます。そうすれば比べやすい」
「それがいいですね」とクロードが言った。
「手伝います」
ルナが立ち上がった。
「棚の配置は私が分かります。どの棚がどの国の形式か、全部頭に入ってます」
「では」ミナが羊皮紙を半分に分けた。「ルナさんが案内して、私が抜き出す。クロードさんは最初の照合をお願いします」
「了解です」
三人が動き始めた。
鍵は手帳に書きながら、作業の動線を目で追った。ルナが棚の前に立って帳簿の場所を示し、ミナが一冊ずつ取り出してページを開く。クロードはその横で一冊ずつ確認して、五項目の位置を記録していく。
「ミナとルナの組み合わせは意外と合うな」
思ったことが口から出た。
二人の性格は正反対に見えた。ルナは明るく話しかけ、ミナは口数少なく手を動かす。だが作業になると、その差が噛み合った。ルナが「これはシェリカン語で、商品名は右から三列目です」と言い、ミナが「確認しました、次は?」と返す。言葉のやりとりがリズムになっていた。
「数字好き同士だからかもしれません」
クロードが、鍵だけに聞こえる声で言った。
「そうかもしれないな」
窓の外、日が傾き始めた頃には、机の上に十枚の羊皮紙が並んでいた。
各国の帳簿から一ページずつ抜き出したサンプルと、その横にミナが書き込んだ列の名前一覧。取引日付がどこにあるか。商品名がどこか。数量、金額、取引相手——五項目の位置を、十種類分整理したものだ。
「これが……共通定義ですか」
ルナが並んだ羊皮紙を見下ろして言った。
「そうです」とクロードが答えた。「この定義があれば、どの形式の帳簿も同じように読めます」
「全部の帳簿を合わせて読めるようになるってことですよね」
「はい」
ルナが机に両手をついて、並んだ羊皮紙をしばらく見ていた。
「一年かかると思っていたことが——」
「定義を作るのに一日かかりました。集計の仕組みを作るのには、もう少し時間がかかります」
「でも見えた、ということですよね。どうすればいいかが」
鍵は手帳を閉じた。
港の音が遠くから届いていた。波の音と船の音と、多国語の声。昼間に見た混沌がそのまま続いているはずだが、この倉庫の中では、その混沌がすでに整理され始めていた。
「全部の帳簿を見せてくれ」——それが今日の始まりだった。
ルナが顔を上げた。
「明日から、集計の仕組みを作りましょう」
口調が少し変わっていた。案内係ではなく、一緒に仕事をする人間の声だった。
「はい」とクロードが言った。
ミナは黙って羊皮紙を揃え始めた。
窓の外で、港の灯りがひとつずつ点きはじめた。
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