第43話 海賊王国だった国際商業都市ブルー
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■1.船旅
「船か……」
港の桟橋に立ち、鍵はしばらく目の前の船を見上げた。全長三十メートルはあろうかという木造帆船。マストが三本立ち、帆は折りたたまれているが、船体はゆっくりと波に揺れている。乗客用の中型輸送船で、定期便としてブルーとの間を往復しているらしい。
「問題ありますか」
クロードが隣に立っていた。いつもの白に近い光の体。荷物を持つ必要がないので、手ぶらだ。
「いや、ない。船に乗るのは初めてなんだ、この世界で」
「地球でも?」
「フェリーには何度か乗った。あまり得意じゃないが」
「揺れのデータを収集します」
「やめろ」
アリアが桟橋を駆けてきた。手に荷物袋を二つ提げ、目が輝いている。
「鍵さん、出港は昼前ですよ。もう乗り込んでいいって言ってました」
「わかってる」
「海、初めてですか」
「初めてじゃない」
「顔が初めての人の顔です」
鍵は答えなかった。三人で舷梯を上がり、甲板に出た。
出港してしばらくは、港湾の内海をゆっくり進んだ。風がなく、水面は穏やかで、両岸に岩壁と漁師の家が続いていた。鍵はとくに問題がなかった。なんだ、大丈夫じゃないかと思った。
外洋に出た途端、揺れが始まった。
波のうねりがゆっくりと船底を持ち上げ、そして下ろす。規則的だが、容赦がない。鍵は手すりを握り、遠くの水平線を見た。
「気分が悪いですか」
「黙ってくれ」
「揺れの周期は約八秒です」
「本当に黙ってくれ」
「了解です」
アリアは船首の方へ行って風に当たっていた。楽しそうに両手を広げ、ときおり何か叫んでいる。海が好きなのか、それとも単純に気分が上がっているのか。
鍵は手すりにもたれ、深呼吸を繰り返した。
二日目の朝になると、揺れには慣れた。完全ではないが、立って歩ける程度には落ち着いた。甲板に出ると、昨日とは風の質が違った。塩の匂いが濃く、空の青が深い。
海は広かった。
陸地はどちらの方角にも見えない。ただ水面が、地の果てまで続いている。波の頂に白い泡が立って、風が吹くたびにそれが散る。鍵はしばらくそれを眺めた。
「きれいだ」
「同意します」
クロードが隣に立っていた。揺れを感じないのか、どこか涼しげだ。
「陸にいると、この広さは想像できないですね」
「そうだな」
アリアが駆けてきて、ふたりの間に割り込んだ。
「見てください、海です」
「見えてるよ」
「いや、そういうことじゃなくて、ほら、あそこに!」
指さした先に、海面を跳ねる魚の群れがあった。銀色の体が光を弾いて、水面から飛び出しては落ちていく。
鍵はそれを黙って見た。
三日目の夕方、地平線の向こうに何かが見えてきた。最初は色の塊だった。橙と白と灰色が混じり合って、陽光の中に浮かんでいる。それがだんだんと形になり、建物になり、街になっていった。
「ブルーだ」と誰かが言った。甲板の乗客たちがざわめいた。
鍵は手すりから身を乗り出した。
■2.ブルーの港
港に近づくにつれて、音が増えてきた。
人の声、荷物を積み卸す音、水鳥の鳴き声、それから——複数の言語が交差する喧騒。鍵には何語かわからない言葉がいくつも飛んできた。ひとつの声が別の声に重なり、またその上にもう一つの声が乗る。それが港全体を満たしている。
「何語が聞こえますか」
「わからない。三つか四つ」
「私が確認したところでは、八つです」
船が岸壁に近づくと、ブルーの港が全貌を現した。
まず目に入るのは、色だ。陸の街で見る建物は石造りの白や茶が多いが、ここは違う。赤い壁、青い扉、黄色の布が窓から垂れていて、それらが雑然と積み重なっている。港沿いの通りには屋台が並び、吊るした幕には見知らぬ文字が書かれている。
船が何十隻も停泊していた。
大型の貿易船、小型の漁船、帆の形が鍵の知るものとは全く異なる南方系の船。旗の色も様々で、どれが何の国の船かまるで見当がつかない。荷揚げをしている男たちが大声で何か怒鳴り合っていて、監督らしき人物がそれを別の言語で制している。
「すごい」
アリアが小声でそう言った。
「ブルーには来たことあるか」
「ないです。父に話は聞いてましたが」
鍵も言葉が出なかった。
王都は整然としていた。通りは碁盤目に区切られ、看板の様式は統一されていた。エルムは工業の街で、煤と機械油の匂いがした。ヴェルトは学術都市で、どことなく落ち着いた空気があった。
ブルーはそのどれとも違う。
整然としていない。統一もされていない。あらゆる方向から人が来て、あらゆる方向へ去っていく。でもそれが混乱には見えなかった。全員が何かを知っていて、何かを目指して動いている。雑踏なのに、無秩序ではない。
「複雑な場所ですね」
クロードが言った。
「そうだ」
「情報の流れが不可視化されている匂いがします」
「まだ港にも着いていないぞ」
「感じます、ということです」
船が岸壁に着岸した。縄が投げられ、甲板員が固定作業を始める。舷梯が降ろされると、乗客たちが一斉に動き出した。鍵もアリアも荷物を手に、人の流れに従って陸へ降りた。
■3.ブルーの歴史
「AIカンパニーの方ですね」
声がした。
振り返ると、若い女性が立っていた。
年は二十歳そこそこだろう。背が高く、日に焼けた顔に黒い髪が短く揃えてある。服装は貿易局の制服——胸に錨のマークが入った青いジャケット——だが、ボタンを一つ外していて、どこかくだけた印象がある。手に羊皮紙を一枚持って、それを確認しながら鍵を見ていた。
「ルナです。貿易局の者です。今日からご案内します」
「鍵です。こちらはクロード、アリア」
「知ってます。評判は聞いてますよ、王都でもヴェルトでも。ここブルーでも話題になってます」
「どんな話題で」
「業務改革屋さんが来るって」ルナは少し笑った。「それで実際に会えるのが楽しみで」
アリアが「正直な人ですね」と言い、ルナが「正直が一番なので」と答えた。
港沿いの通りを歩きながら、鍵は街を見続けていた。
「海賊の街だったと聞きましたが」
「三十年前まではそうです」ルナは足を止めず、当然のように答えた。「私の父も元海賊ですし」
「……そうか」
「気にしないでください、みんなそうです。ここに生まれた人間の半分は、親の代に海賊かやってた家です」
鍵はその話の続きを求めた。
「現国王がヴォルフ王。三十年前、この一帯に割拠していた海賊団を全部まとめた人です。何十もの船団があって、互いに縄張り争いをしていた。それをヴォルフが武力ではなくて、交渉で統合した」
「どうやって」
「当時の各船団の親分を一堂に集めて、こう言ったらしいです」
ルナは少し間を置いた。
「『盗むより売る方が儲かる』」
鍵は足を止めた。
「それだけか」
「そこから四時間、具体的な計算を見せながら説明したそうです。陸の物産を海路で運んで売れば、どの港で何がいくらになるか、年間でどれだけの利益になるか。盗む場合のリスクと比較した試算も出した。当時の海賊親分たちは、説得されたというより——引き算で負けたんだと思います」
「ヴォルフは商人だったのか」
「元々は船乗りです。ただ、数字が読めた。それが他の海賊と違った」
街を見渡すと、港からまっすぐ伸びる大通りに両側から商館が建ち並んでいた。掲げられた看板の文字は、鍵が読めるものとそうでないものが混在している。
「三十年でこうなったのか」
「国際商業都市を宣言したとき、ここには海賊の船と岩礁の島しかなかったそうです。今は三十カ国以上と貿易協定を結んでいます」ルナは誇らしそうでも、自慢げでもなく、ただ事実を言うように続けた。「ヴォルフ王は言ってます。海賊と商人は同じだ、相手の持っているものを手に入れるのが仕事だ。ただ方法が違うだけだ、と」
「面白い人だな」
「会ってみますか。今日の夕方なら時間があるそうです」
「ぜひ」
アリアが「思ったより話が早い」と言い、クロードが「ブルーはそういう街なんでしょう」と静かに言った。
街の奥へ進むほど、建物の密度が増した。路地に入ると、頭上に洗濯物が渡してあって、二階から人が顔を出していた。子どもが駆けていき、老人が路上で将棋盤に似た何かを前に座っていた。
ここには王都にある種の整然とした静けさがない。だが、どこか生きている感じがする。鍵はそう思った。
■4.課題の最初
貿易局の建物は、港から三百メートルほど入ったところにあった。
三階建ての石造りで、外観は古い。元は船乗りの宿泊施設だったらしく、窓が多く廊下が広い。二階の会議室にあたる部屋に案内されると、大きなテーブルと地図が待っていた。
「まず何から聞きますか」ルナが聞いた。
鍵はノートを出した。
「で、何を解決したいんですか」
ルナは少し考えた。「どこから話せばいいか」と呟いて、それから口を開いた。
「貿易の記録がバラバラで、誰が何を誰に売ったか、全体像が誰にも分からないんです」
クロードが「なるほど」と言った。
鍵は続きを促した。
「どのくらいバラバラですか」
「商館ごとに記録の様式が違います。羊皮紙に手書きの帳簿、木の板に刻んだもの、あとは——」ルナは少し躊躇したあとで続けた。「口約束だけで済ませているところもあります」
「口約束」
「相手が信用できる人間なら、それで十分だという文化がある。海賊時代からの名残です」
「その約束が後で揉めた場合は」
「揉めます。よく揉めます」
鍵はノートに書きながら聞いた。「規模はどのくらいですか。扱っている取引の数」
「月に推定で二千件から三千件。ただ『推定』というのは、全部を把握できていないからです」
「把握できていない割合は」
「分かりません。把握できていないので」
それはそうだ、と鍵は思った。把握できていないものの量は、定義上わからない。
「ブルーに来ている商人の数は」
「常時、八百から千人。ただしこれも推定です。入港記録はありますが、そのまま住み着く商人もいて、名簿が追いついていません」
「三十ヶ国以上から来るんでしたよね」
「はい。なので言語の問題もあります。同じ商品名でも、国によって呼び方が違う。『南方の赤い繊維』が実は同じものを指していても、記録の上では別物になっていたり」
「なるほど」
クロードがもう一度言った。今度は少し違う言い方で。
鍵はペンを止めた。
問題の構造が、少しずつ見えてきた。記録がバラバラというのは表面だ。その下に、言語が多様すぎること、文化的に記録を軽視する慣行があること、そもそも誰が全体を管理する権限を持つかが定まっていないことがある。
一つ解決しても、別のところで詰まる。
「情報管理って何ですか」
ルナが聞いた。急に、というわけではなく、さっきから言いたかったような口調で。
「さっき依頼書に書いてあったんですが、AIカンパニーのご専門は情報管理と自動化、って。情報管理って、何をするんですか」
鍵はノートから目を上げた。
「誰が何を知っているかを、必要な人が必要なときに取り出せる状態にする、ということです」
「……難しいですね」
「難しいです」
「できますか、ここで」
鍵は少し間を置いた。
「まず全体を見ます。何がどのくらいバラバラなのか、数字で確認する。その後に、どこから手をつけるか考えます」
「つまり、まだ分からないということですか」
「分からないということが、今日わかりました」
ルナはしばらく鍵を見た。それから少し笑った。「正直な人ですね」と言った。
アリアが「鍵さんはいつもそうです」と言い、クロードが「正確には、分からないと言えることが、分析の出発点です」と補足した。
窓から海が見えた。港に停泊した船が揺れていて、陽光が水面で砕けている。あの船の一隻一隻が、記録されていない取引を運んでくる。
この街は広い、と鍵は思った。
そして、ここには整理されるのを待っているものが、相当な量あるらしかった。
「明日から調査を始めましょう」と鍵は言った。「まず現状把握から」
「了解です」ルナが背筋を伸ばした。「何でも案内します」
「三十ヶ国語全部話せますか」
「八ヶ国語しか話せないので、あとは通訳を手配します」
「十分です」
外では港の喧騒が続いていた。どこかで大声が上がり、鳥が鳴き、波が岸壁を叩いた。
ブルーの最初の夜が、近づいていた。
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