第45話 海上貿易の全体像をデータで可視化する
毎日20時、更新予定です!
■1.変換作業
羊皮紙が積み上がっていた。
港湾管理局の作業室——もとは倉庫の一角だったらしい——に、鍵とクロード、それにミナとルナが並んでいる。窓の外では波の音がしている。テーブルの上には30ヶ国、10種類の帳簿が分類されて束になっていた。昨日までの作業だ。
「では、変換を始めます」
クロードが口を開いた。いつもの落ち着いた声。手元には白紙の羊皮紙が何枚も重ねてある。鍵がそこに指示を書き込むと、クロードがそれを実行する——この港に来てから三日、その繰り返しだった。
「最初は大陸北部型の帳簿から」とミナが束を持ち上げた。「確認します——日付はここ、一番上の行に縦書きで。商品名は左列、でも単位と一緒に書かれています。『布4反』とか『小麦3袋』みたいな感じで」
「了解しました」クロードが復唱する。「日付は縦書き一行目。商品名と数量は左列を分割。単位を除いた文字が商品名、数値が数量。次は金額ですか」
「金額はここ——右下の欄です。ただし通貨が三種類混在しています。ダール銀貨、グロスト金貨、あとは現物の場合は『物々』と書かれているだけで換算レートが別紙です」
「別紙はありますか」
ミナが束の間を探した。ルナが後ろの棚から薄い紙を一枚引き出した。「この取引レート表ですか」
「それです。ありがとうございます」
鍵は作業を見ながら、進捗をノートに記録していた。一種類目の帳簿の変換定義をまとめるのに、小半刻ほどかかった。二種類目はもう少し早かった。三種類目は項目の並び順が逆で、ルナが読み上げるたびにミナが確認を入れた。
「この南洋型の帳簿だけ、取引相手の欄がありません」とルナが言った。「船籍は書いてあるんですが」
「船籍と取引相手、一致しないこともありますか」
「します。代理人経由の取引なんかは特に」
「では取引相手は船籍から推定、と明記した上で変換します。推定値は区別できるようにします」
ルナが鍵を見た。「そういうことって、できるんですか。確定じゃないとわかるようにしておくって」
「データの品質を記録するのは基本的なことです」と鍵は答えた。「後で使う人が判断できるように、どこが確実でどこが推定かを残しておく」
「……なるほど」
ルナはその返答を少し考えるように受け取って、また手元の帳簿に視線を戻した。
四種類目、五種類目、六種類目——作業は続く。日が傾きかけた頃、十種類目の変換定義が完成した。
「定義、確定しました」とクロードが言った。「変換処理を開始します」
「どのくらいかかりますか」と鍵。
「三十分ほど」
作業室にしばらく静寂が戻った。クロードだけが羊皮紙に書き続けている。ミナは机に頬杖をついていた。ルナは窓の外を見ていた。港の船の影が夕日に黒く伸びている。
■2.初めて見える全体像
「完了しました」
三十分が経っていた。
クロードの前に、大きな羊皮紙が広げられていた。鍵が特別に用意させたもので、通常の二倍の大きさがある。そこに、整然とした文字が並んでいた。
「ブルー港湾・月次取引一覧。過去五年分です」
鍵とミナとルナが立ち上がり、テーブルの前に集まった。
「多いな」とミナが言った。
「品目数で127、取引国数で29です」とクロードが返した。「うち定期取引は83品目、単発または不定期が44品目」
ルナが紙の上を指でなぞった。数字を目で追っている。しばらくして、「これ」と言った。
「海賊草というのが、取引量の一位ですね」
「はい」
「知ってます。染料です——南洋群島が原産の。染めると色が落ちにくくて、布に使われます。高級品ではないんですが、需要が安定している」
「取引量は月平均で二百三十単位です。二位の薬草類が八十単位ですから、差は大きい」
ルナが少し驚いた顔をした。「そんなに多かったとは思っていませんでした」
「三位のクロス木材を見てください」とクロードが続けた。「こちらは過去五年で輸入量が三倍になっています」
「三倍——」ルナが数字を確認した。「本当ですね。一年目が二十単位で、五年目が六十三単位……」
「クロス木材は船の材料です」とミナが口を挟んだ。「ブルーで最近、造船が増えているんですよ。特に南の島嶼部向けの小型船。だから材料の需要も上がっているはずで——でもこんなに倍率が出るとは」
「三倍というのは直感と一致しますか」と鍵が聞いた。
「……体感では増えているとは思っていましたが、三倍とは言えなかった。言えなかったというか、言う根拠がなかった」
鍵はメモをとった。
「次に季節性を見ます」とクロードが言い、別の羊皮紙を取り出した。品目ごとの月別取引量を一覧にしたものだった。「冬の第十一月から第一月にかけて、海産物の輸入が全体の四十パーセントに集中しています」
「北の港が閉まるからです」とルナがすぐに答えた。「北方の漁港は冬に氷が張って、船が出せなくなる。だから秋のうちに大量に持ち込んでくる。——でも四十パーセントとは」
「知っていましたか」と鍵。
「知っていました。でも——こうして数字で見ると、なんか」ルナは少し言葉を探した。「知っていることと、見えることが違うんですね」
「そうです」と鍵は言った。「分かっていても、数字になるまでは分かっていない」
ルナは少しの間、その言葉を噛み締めるように黙っていた。
「こんなの、初めて見ました」
静かに、そう言った。
「帳簿はずっとあったんです。私が生まれる前からここにあった。でも、全部つながって見えたことは一度もなかった。各業者の帳簿を読んでも、それは一軒分の話で——全体がこんなふうになっていたなんて」
ミナが腕を組んで羊皮紙を見下ろした。「すごいな。これだけ情報があって、今まで誰も整理しなかったのか」
「整理できなかったんだと思います」と鍵は答えた。「手作業では無理だった」
■3.誰も知らなかったパターン
「この数字、知ってた人いますか」
鍵がルナに向けて言った。
「全体で、という意味ですか」ルナが確認する。
「はい。たとえば、海賊草が一位だということ。クロス木材が五年で三倍になっていること。冬に海産物が四割集中すること——これを全部知っていた人が、このブルーにいましたか」
ルナは少し考えた。長い間ではなかった。
「……いなかったと思います」
「誰も?」
「各業者は自分の取引しか知らない。税関の役人は通関記録を持っていますが、品目ごとの集計はしていない。港長は全体の船の出入りは把握していますが、品目別の分析まではしていない——私も一部は知っていましたが、全体ではなかった」
「国王も?」
ルナがわずかに目を伏せた。
「国王も、おそらく」
作業室が静かになった。ミナが「そういうものか」とつぶやいた。鍵は何も言わなかった。
「記録はあった」と鍵はゆっくり言った。「でも読めていなかった」
「読めていなかったというか」ルナが少し言葉を直した。「読む形になっていなかった。それぞれ別の場所に、別の形式で保管されていて、つなぐ手段がなかった」
「そのとおりです」とクロードが言った。「今回の変換作業は、形式の違いを一度だけ解決しました。今後は同じ変換定義を使えば、新しい帳簿も同じ形式に変換できます」
ミナが顔を上げた。「それって——毎年、続けてやることができるってこと?」
「できます」
「じゃあ、来年も、再来年も、同じように全体像が見える?」
「はい。定義が維持されている限り」
ミナはしばらくの間、何か遠いものを見るような顔をしていた。それから「なんか、やばいな」と言った。珍しく、率直な感想だった。
鍵はノートに書き足した。「記録はあったが、読める形にする手段がなかった。今回それを作った。再現可能」。そう記した。
「でも」とルナが言った。「これを使って何をするか、ということが問題になりますよね」
「そうです」と鍵は答えた。「データは道具です。使い方が問われる」
「私がこれを見て最初に思ったのは——誰かが不当に得をしていないか、ということでした」
「税収の話ですか」
「それもあります。でも、もっと単純に——誰かが正直に申告していなかった場合、それがここで見えてしまうかもしれない」
「見えますか?」と鍵はクロードに向けた。
「見えます」とクロードが答えた。「申告量と実際の通関量を照合すれば、差異のある業者を特定できます。ただし——」
「ただし?」
「照合には通関記録のほうも統一形式で揃える必要があります。現状では帳簿と通関記録のフォーマットが異なるため、もう一段の変換が必要です」
「次の作業ですね」とルナが言った。少し落ち着いた声だった。「順番があるんですね、こういうのは」
「あります」と鍵は答えた。「一度に全部は見えない。見えるものを積み上げていく」
■4.次の問い
「全体像が分かった」と鍵は言った。「次は何をしますか」
ルナが鍵を見た。問いかけというより、問い返しのような口調だった。
「私が決めることですか」
「あなたの港です」
「……私は」ルナはゆっくりと言葉を選んだ。「税収の最適化、という方向は、考えたくないんです」
「なぜですか」
「取引の目的は稼ぐことではなくて——このブルーを、様々な国の商人が安心して使える港にすることです。そのための公平な場所を守ることが、私たちの仕事だと思っているので。数字で締め付けることが目的にはなれない」
鍵はそれを聞いて、何も言わなかった。
「でも」とルナが続けた。「公平かどうかを確認するためには、全体が見えていないといけない。だから、このデータは必要です。それは——分かりました」
「筋が通っています」とクロードが言った。
ルナがクロードを見た。少し驚いた顔をした。「AIさんが評価するんですね」
「評価ではありません。論理の整合性を確認しました」
「同じじゃないですか」とルナが言った。わずかに笑みがあった。
鍵がノートを開いた。「では、次の作業の候補を整理します。一つ目は通関記録との照合——これは差異の把握につながる。二つ目は取引量の推移分析——五年では分かったが、十年に伸ばすと何が見えるか。三つ目——」
「密輸の可能性も見えています」
クロードが静かに言った。
作業室が止まった。
「密輸?」
ルナの声が、少し上がった。
「帳簿に記録された品目の中に、輸入が禁止されているはずの物品が含まれています」とクロードは続けた。「ブルーの規則では、一定量以上の南洋産毒草は輸入禁止のはずです。しかし今回の統合データでは、過去三年間、毎年一定量が記録されています。帳簿には商品名が別名で書かれていましたが、原産地と特徴の記述が一致しました」
「……」
ルナは答えなかった。
「確認できますか」と鍵が言った。
「……できます。確認する必要があります」ルナはゆっくりと立ち上がった。「これは——港長に報告する前に、もう少し絞り込んだほうがいい。誰のどの取引か、特定できますか」
「通関記録との照合が必要です」とクロードが答えた。「今夜か明日、記録の追加取得をお願いできますか」
「します」
ルナは羊皮紙を一枚、丁寧に折りたたんだ。それを自分の荷物の中に入れた。
鍵はその動作を見ていた。データを使うとはこういうことだ、と思った。知識が増えると、見えてくるものが増える。そして見えてしまったら、見なかったことにはできない。
「明日また来ます」とルナが言った。「通関記録を持って」
「よろしくお願いします」と鍵は答えた。
ミナが小声で「大事になってきたな」と言った。
「最初からそのつもりでした」と鍵は返した。
窓の外、ブルーの海は夕暮れに染まっていた。
面白いと思ったらブックマーク・評価をいただけると励みになります!




