第32話 初の支社を設立する
■1.支社の話
エルムを発つ前夜、鍵はいつものように宿の卓に向かっていた。
ノートを開く。書きかけの「エルム案件まとめ」がある。完了したタスク、引き継ぎ事項、残課題。帰り際にこういう整理をするのは昔から変わらない癖だ。現場を去るときに何も記録を残さない人間と、残す人間とでは、半年後の仕事の品質が全然違う。
「鍵さん、少しよろしいですか」
戸口でアリアが声をかけた。ノックはしたが返事を待たずに入ってきた。そういうやつだ、と鍵は思いながら顔を上げた。
「なんだ」
「エルムの件なんですが」
アリアは椅子を引いて座った。珍しく少し迷っている顔をしていた。アリアが迷うのは、言い方を考えているときだ。内容はもう決まっている。
「このまま王都に帰ると、連絡が途切れませんか」
「途切れるな」
「エルム商会からは月に一件以上、新しい相談が来ると思います。今回の伝票管理システムが動き出したら、次は仕入れ先との照合、その次は在庫の——」
「わかってる」
鍵はペンを置いた。
自分でも考えていた話だった。エルムの案件は今回一度きりではない。動き始めたシステムには必ずメンテナンスが発生するし、使い慣れてくると「これもできますか」という要望が出てくる。それをいちいち王都から出向いて対応していたら、移動だけで三日が消える。
「誰かを常駐させたい、ということか」
「そうです」アリアは膝に手を置いた。「エルムに担当者を一人置く。相談の窓口になって、軽い改修はその場で対応して、大きな案件だけ王都に上げる。そういう仕組みを作りたい」
「支社だな」
「……支社?」
「一つの組織が、拠点を複数持つ場合の言い方です。本社があって、地方に支社がある」
アリアはその言葉をゆっくり繰り返した。「支社」。口の中で転がして、意味を確かめるような間があった。
「異世界では聞かない言葉ですね」
「たぶん初めてだろうな、この世界に」
鍵はノートに「エルム支社」と書いた。それだけで少し実体が生まれた気がした。言葉にすると重みが変わる、というのは本当のことだと思う。
問題は人だ。
王都から誰かを送るか、エルムで新たに雇うか。前者は即戦力だが、生活拠点を移すことになる。後者は時間がかかる。いずれにせよ、相手がコード魔法の運用に慣れていなければ話にならない。
「候補者はいますか」
アリアが聞いた。
鍵は少し考えた。
「今のメンバーの中で言えば——」
と、鍵が言いかけたところで、アリアがすでに「テオさんですよね」と言った。
■2.テオへの打診
翌朝、四人で食堂に集まった。
テオとミナは早起きで、すでに朝食を半分食べていた。クロードは窓際に立っていた。クロードは食事をしないし、椅子に座ることもほとんどない。
「テオ」
鍵が座るなり、テオが「はい」と背筋を伸ばした。
「エルムに残れるか」
一瞬の間があった。テオは箸——正確には木のスプーン——を置いて、鍵を見た。
「……俺が、ですか?」
「そうだ」
「エルムに」
「支社を設置する。誰か一人、ここに常駐させたい。窓口になって、日常的な対応をさせたい」
テオはしばらく黙った。ミナが隣で、静かに様子を見ていた。
「俺で……大丈夫ですか」
「なぜ大丈夫じゃないと思う」
「えっ。いや、俺、鍵さんやアリアさんみたいにうまく話せないし、クロードみたいに何でも知ってるわけじゃないし」
「窓口だ」鍵は言った。「全部一人で解決しなくていい。大きい話は王都に回せばいい。必要なのは、相談を受けて、整理して、どこに投げるかを判断できる人間だ」
テオは口をつぐんだ。
アリアが引き継いだ。
「テオさん、エルム商会の人たち、あなたのことを覚えてますよ」
「え」
「今回の仕事で、倉庫の整理手伝ったでしょう。伝票の読み方を一緒に確認したでしょう。ラーフさん——あの倉庫主任の人、テオさんのこと名前で呼んでましたよ」
テオが少し固まった。
「テオくん、また来てほしいって言ってたんです、私に」
「……そうなんですか」
「彼らはシステムを信頼しているけど、それ以上に顔を知っている人間を信頼しています。あなたがここにいるだけで、エルムの人たちは安心する。それだけでも価値があります」
テオは俯いた。何かを考えているときの顔だった。
鍵はそれ以上言わなかった。こういうとき、言葉を重ねると逆効果になる。人が「決める」のを待つのも仕事のうちだ。
ミナがパンをちぎりながら、さりげなく言った。
「テオ、あたしは反対じゃないよ。テオが向いてると思う」
「ミナ……」
「なんか、テオって人の話ちゃんと聞くじゃない。焦らないし。それって意外と少ないよ、うちのチームの中でも」
テオはミナを見て、鍵を見て、アリアを見た。
「……少し考えさせてもらえますか」
「出発は明後日だ」と鍵は言った。「それまでに答えを聞かせてくれ」
■3.テオの決意
答えは翌日の昼前に来た。
鍵が街の水路沿いを歩いていると、テオが走って追いついてきた。
「やります」
息を整える間もなく、テオは言った。
「エルムに残ります。やらせてください」
「決め手は何だった」
「ラーフさんに会ってきました。昨日の夜」
鍵は少し驚いた。自分で動いたか、とテオを見た。
「会ってどうだった」
「ラーフさんが……「また困ったことが出たとき、誰かに聞けると思うと助かる」って言ってました。それだけです。その一言で決まりました」
「そうか」
「ただ」テオは少し声のトーンを下げた。「一つだけ、お願いがあるんですが」
「聞く」
「週に一回、クロードに指示出しをさせてもらえませんか。大きい案件だけじゃなくて、日々の業務確認とか、ちょっとした自動化の更新とか、俺一人で判断できないことが絶対出てくると思って。クロードと繋がっていれば、拾えることがある気がする」
鍵が答える前に、少し後ろで話を聞いていたアリアが口を開いた。
「それは俺の仕事だ、って言いたいんですよね、鍵さん」
鍵は振り返った。
アリアが腕を組んで立っていた。
「……まあ、そうだな」
「分業です」アリアはあっさり言った。「王都からの案件はクロードが対応する。テオさん経由の案件もクロードが対応する。クロードの処理能力に上限があるなら話は別ですが、今のところ問題ないですよね」
「処理の競合は発生しません」クロードが水路の反対側から応じた。いつのまにかそこにいた。「テオさんの案件を優先キューに入れる形にすれば、対応は可能です」
「優先キュー……」テオが繰り返した。「なんか、俺専用の窓口みたいですね」
「そうです」クロードは言った。「テオさんの担当、引き続き対応します」
テオは一瞬だけ目を細めた。嬉しさと照れが混ざった顔だった。
「テオさん専用、と言ってもらえると理解しやすいです」とテオが言った。
「それでいい」と鍵は返した。名称なんて何でもいい。機能すれば。
鍵はノートを出した。「エルム支社」のページを開いて、下に書き加えた。
『担当:テオ。週次報告あり。クロードと直接連携可。』
ペンを止めて、少し考えて、一行追加した。
『設立日:本日。』
「これで組織になったな」
アリアが隣から覗き込んで、「本当に文字にするんですね」と言った。
「書かないと実体がない」
「鍵さんは何でもそうですね」
「そういうもんだ」
■4.出発の朝
出発は夜明け直後だった。
馬車の準備が整い、荷物を積み終えた頃には空がようやく白み始めていた。エルムの街はまだ静かで、石畳の上に薄い朝靄が漂っていた。
見送りに来たのはラーフとエルム商会の人間が三人、それから泊まっていた宿の主人だった。小さな見送りだったが、鍵には十分だった。案件が終わったら次の場所へ。それが仕事だ。
テオだけは宿の前に一人で立っていた。昨日から今日にかけて何か整理をしたのか、顔がすっきりしていた。迷っている色がなかった。決めた人間の顔というのは、見ればわかる。
テオは馬車の横に立っていた。
鍵が近づくと、テオが先に手を出した。握手だ。最初に教えたのは鍵だったが、テオはもうそれを自然にやるようになっていた。
「困ったらすぐ連絡しろ」
「はい」
「ためるな。小さいうちに投げろ」
「わかりました」
「週次報告はクロードのフォーマットを使え。書くことが決まっていると楽になる」
「わかりました。あと——」
テオが少し間を置いた。
「ありがとうございます」
「仕事を頼んでるだけだ」
「そうじゃなくて」テオは続けた。「なんか……拾ってもらった感じがするんです。俺、最初に採用されたときも思ったんですけど、鍵さんって使えない人間を切らないじゃないですか」
「使えない人間なんかいない」
「え」
「やり方と場所が合ってないだけだ。テオはここが合ってる。それだけだ」
テオは何か言いかけて、やめた。代わりに、一度だけ頷いた。
ミナが「テオ、また来るから」と手を振った。テオが「はい」と返した。アリアが「報告、待ってます」と言った。テオが「はい、必ず」と返した。
クロードが最後に言った。
「テオさんの処理担当、引き続き対応します。何かあれば、どうぞ」
「……はい。よろしくお願いします、クロード」
馬車が動き始めた。
石畳の上を、蹄の音が一定のリズムで刻んでいく。鍵は窓から後ろを見た。テオが立っていた。手を上げていた。それだけだった。
「……支社か」
鍵は前を向いて、ノートを開いた。次の案件のことを考え始めていた。頭の中はもう動いている。それが性分だから仕方ない。
ただ——今日のことはきちんと書き残しておきたかった。
ノートの余白に、一行だけ書き加えた。
『エルム支社、始動。テオに任せた。』
それで十分だった。
クロードが隣に座っていた。正確には座っているように見えた。窓の外を見ている。
「クロード」
「はい」
「テオ、大丈夫そうか」
「充分です」クロードは即答した。「テオさんは、話を最後まで聞きます。それがあれば、ほとんどのことはなんとかなります」
鍵はそれを聞いて、また前を向いた。
馬車は街道を走っていた。エルムの街は、もうずいぶん遠くなっていた。
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