第31話 アリアが家族と向き合う決断をする
■1.一段落した夜
商業データの統合が完成した翌日の夜。
鍵とアリアとテオは、宿の食堂で夕飯を食べていた。テーブルには豆のスープと硬めのパンが並んでいる。エルムの定番らしい組み合わせで、三日続いているが、鍵は特に気にしていなかった。
クロードは壁際で静かに待機していた。食事には参加しない。ただそこにいる、というのがクロードのいつものスタイルだ。
「ランキング4位か」テオが皿を見ながら言った。「もうちょっとで3位だったんですけどね。なんか悔しくないですか鍵さん」
「目標は順位じゃない」鍵は言った。「ギルドに信頼を持ってもらうことだ。それはできた」
「わかってますよ。でも悔しいものは悔しいです」
アリアはスープを飲みながら、黙って聞いていた。
テーブルの上のランタンが揺れる。食堂には他に二、三組の客がいたが、いずれも静かに食べていた。エルムの夜は早い。商人の街だから、朝が仕事の本番なのだろう。
「とりあえず次の依頼を考えましょう」鍵は言った。「ここでの仕事は終わった。システムは動いてる。あとは現地が回せるかどうかだ」
テオが「次はどこに行くんですか」と聞いた。鍵は「まだ決めてない」と答えた。
食事はしばらく続いた。
「……少し時間をください」
唐突にアリアが言った。
テオが顔を上げる。鍵もパンをちぎる手を止めた。
「明日の朝、一人で行きたい場所があります。午前中は外します」
声はいつものアリアだった。落ち着いていて、平坦で、感情が乗っていない。ただ、その目だけが、どこか遠くを見ていた。
テオが何か言いかけた。
「わかった」鍵が先に言った。「何かあれば連絡を」
「はい」
アリアはスープを一口飲んで、話を終わらせた。
テオは口を閉じた。クロードは壁際で静かにしていた。
それ以上のことは誰も聞かなかった。鍵には、だいたいの見当がついていた。ソルの話は、昨日アリア自身がしていた。「明日また話してみます」という言葉の意味は、今になって分かった気がした。
■2.アリアとソルの対話
翌朝、アリアが訪ねたのは商人通りの外れにある屋敷だった。
石造りの門。磨き込まれた真鍮の表札。エルム商業ギルドの最上位取引先として名前の挙がる、ソル商会の本宅。アリアが十八年間暮らした場所だ。
執事に名前を告げると、しばらく待たされた。
庭の手入れが行き届いていた。季節の花が咲いている。植木の形は昔と変わっていない。こういう細かいところを変えない人だ、とアリアは思った。
通された応接間には、昔と同じ青い絨毯が敷いてあった。壁には取引先との契約書と、商会の歴代頭首の肖像画が並んでいる。その一番端に、まだスペースが残っていた。誰かを飾ることを想定して、あえて空けてあるのだろう。
「来たか」
ソルが入ってきた。あの夜と同じ格好だ。仕立てのいい上着、整えられた白髪、真っすぐな背筋。変わっていない。ただ、顔の皺が少し深くなったような気がした。それだけが、時間の経過を示していた。
「座れ」
「立ったままで話します」アリアは言った。「短く済みます」
ソルが眉をわずかに動かした。
「私は今日、父の商会の娘として来たのではありません」アリアは続けた。「AIカンパニーのアリアとして来ました」
部屋が静かになった。
窓の外から、通りを走る荷車の音がした。誰かが大声で挨拶を交わしている。エルムの朝は賑やかだ。
「……聞こう」
ソルは椅子に座らず、立ったままアリアを見た。
「私は家を出たことを後悔していません」アリアは言った。「それは変わらない。あの決断は間違っていなかった」
「そうか」
「でも」
アリアは一度だけ、息を整えた。
「昨日のランキング結果を見ていました。ソル商会は4位です。三ヶ月前まで1位だった。データを見れば、何が起きているかは分かります。帳簿の管理が追いついていない。在庫と仕入れのズレが積み重なっている。今のままでは、じきに5位、6位になる」
ソルは何も言わなかった。
「私たちが今回エルムでやったのは、そういう問題を整理することです。データを繋いで、見えるようにして、担当者が判断できる形にする。それだけです」アリアは続けた。「困っているなら、手を貸せます。AIカンパニーとして」
沈黙が続いた。
ソルは窓の外を見た。通りの景色を眺めながら、しばらくそのままでいた。荷車が行き来する。売り子の声が遠く聞こえる。商人の街の朝は止まらない。
「お前が出て行ったとき」ソルはゆっくりと言った。「引き止めなかった。それは正しかったと今も思っている」
「はい」
「一人で始めたんだろう。商会の看板も金も使わずに」
「はい」
「それで今、ここに来た」
ソルが振り返った。その目は、アリアが知っているソルの目だった。感情を見せない、計算するような目。だがその奥に、何か別のものが混じっていた。怒りでも悲しみでもない。もう少し複雑な、言葉にしにくいものが。
「お前は本当に、ビジネスとして言っているのか」
「はい」アリアは答えた。「娘としてではなく、取引先として」
「……そうか」
ソルは小さく息を吐いた。
■3.ソルの「頼む」
ソルは部屋を一度歩いた。
壁の肖像画を見て、窓を見て、それからアリアに戻ってきた。腕を組んで、少しの間黙っていた。こういうときのソルは、計算しているのではなく、整理しているのだと、アリアは昔から知っていた。
「正直に言う」ソルは言った。「三ヶ月で4位になった理由は分かっている。番頭のウォルドが辞めた。あいつが全部の帳簿を頭の中に入れていた。後任が追いつけていない」
「知っています。ギルドの記録に出ていました」
「……全部見たのか」
「仕事ですから」
ソルは短く笑った。苦笑、というより、何かを認めるような笑い方だった。本気で腹を立てているわけではない。ただ、その状況をどう受け取るべきか測りかねている、という顔だった。
「お前に頼むのか」
呟くような声だった。
部屋の空気が変わった気がした。
「娘に頼む日が来るとは思わなかった」
窓から光が差し込んでいた。午前の光。柔らかくて、少し埃っぽい。昔、アリアはこの部屋で算盤を習った。ソルの隣に座って、数字の読み方を覚えた。間違えると叱られた。正解すると「もう一度」と言われた。褒められた記憶は少ないが、それがこの人の教え方だった。
アリアは何も言わなかった。
ソルが何を言っているか、分かっていた。それは返答を求めた言葉ではなかった。ソルが自分自身に向けて確認しているだけだ。
「ビジネスです」アリアは言った。「娘ではなく、取引先として扱ってください」
ソルがまた笑った。
今度は、本物の笑いに近かった。苦さはまだあった。でも、何か別のものも混じっていた。
「わかった」ソルは言った。「……頼む」
その言葉は短かった。だがソルがその言葉を口にするのに、どれだけの時間がかかったか、アリアには分かった気がした。
「契約書を用意します」アリアは言った。「三日以内に」
「ああ」
「では」
アリアは頭を下げた。執事に案内されて、玄関へ向かった。石畳の廊下を歩きながら、一度だけ振り返った。
応接間の扉は、静かに閉まっていた。
通りに出ると、光が眩しかった。空が青くて、風が少しあった。アリアはしばらく立っていた。特に何を考えていたわけでもない。ただ少しだけ、目が熱くなった。それだけだった。
■4.報告と次のステップ
宿に戻ったのは、昼前だった。
テオが食堂で昼ごはんを食べていた。クロードが壁際に立っていた。鍵は宿の入り口のベンチで、次の仕事候補の書類を読んでいた。
「戻りました」
アリアが言うと、三人が顔を上げた。
「どうでした」鍵が聞いた。
「ソル商会の帳簿整備を請け負います。正式な依頼として」アリアは言った。「三日以内に契約書を出します」
「わかりました」鍵は書類をたたんだ。「では午後から動きましょう」
「はい」
テオが「おお」と声を出した。「ソルさんが認めたんですか」
「認めた、というより」アリアは少し考えた。「頼む、と言いました」
「それって結構すごくないですか」
「ビジネスです」
テオが何か言いかけた。
「解決したわけじゃないですけど」アリアは続けた。「整理はできました」
その言葉はどこか軽かった。意図的に軽くしているのか、本当にそう思っているのか、テオには判断できなかった。
「関係性のステータスが更新されました」
クロードが静かに言った。
全員が一瞬クロードを見た。
「……何のステータスですか」テオが言った。
「アリアさんとソルさんの関係性です。ログ上、前回の接触から大幅な変化を確認しました。距離が縮んだとは分類しにくいですが、形式が定まったという意味では、安定したと言えます。ステータスを『未解決・係争中』から『継続中・業務的関係』に変更しました」
「そういう言い方するんですね」テオが言った。
「事実を記録しています」
「いや、もうちょっとなんか……」テオが言いかけて止まった。「あ、ところで」
テオがアリアを見た。少し迷うような顔をした。
「アリアさん、泣いてましたか」
食堂が静かになった。
鍵はテオを見た。クロードは壁を見ていた。
アリアは少しの間、返事をしなかった。
「……少し」
それだけ言った。
テオが「そうですか」と頷いた。それ以上は追わなかった。
鍵は立ち上がり、書類をテーブルに置いた。
「じゃあ、午後から契約書の下書きを始めましょう。クロード、ソル商会の規模と取引先一覧を整理してくれるか」
「了解です。現在把握しているデータから生成します」
「テオは食べ終わったら手伝って」
「はい。でも僕、字きれいじゃないですよ」
「書類の清書じゃない。確認作業だ」
「なら大丈夫です」
アリアは椅子に座った。荷物を下ろして、少しだけ肩の力を抜いた。
昼の光が食堂に差し込んでいた。窓の外では、エルムの通りが静かに続いていた。荷車が行き来して、売り子の声がして、普通の昼だった。
次の仕事は、もう始まっていた。
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