第3話 最初の仕事は農村の帳簿です
■1.アリアの提案
調査三日目の朝、アリアが来た。
鍵が王城の一室で王国の物流マップを書いていると、扉を叩く音がした。「どうぞ」と答える前にアリアは入ってきた。商人の娘というのはどうやら、了解を待つより先に動くものらしい。
「最初の案件、見つけました」
羊皮紙を机に広げながら彼女は言った。地図のようなものが書かれていて、王都から南に走る道と、点線で示された集落がいくつかある。
「農村ですか」
「王都から馬で二時間。私の幼なじみがいる集落です」アリアは指で一点を示した。「農家の娘でね。父親が去年亡くなって、農地を引き継いだばかり。ただ、台帳の管理が全然できていないって聞きました」
「台帳というのは」
「収穫記録です。どの土地に何を植えて、どれだけ穫れたか。それが三十年分の手書きで残っているんですが、本人は何もわからないって言ってました」
鍵はペンを置いた。
三十年分の手書き記録。整理されていない生データ。あとは正しい問いさえあれば何かが見える——そういう案件だ。
「最初の仕事として向いてますね」
「そう思います。難しい交渉もいらないし、失敗しても傷が小さい」アリアはあっさりと言った。「成功したら実績になるし、私のほうでも信頼できる紹介先から始めたかった」
算盤が速い。鍵は素直に感心した。
「わかりました。明日、行きましょう」
「今日じゃないんですか」
「台帳の分量次第でクロードへの指示の書き方が変わります。事前に少し準備したい」
アリアが少し首を傾けた。「……よく分かりませんが、わかりました。明日の朝、馬を手配しておきます」
鍵はノートを開き、「農村台帳案件・事前検討」と書いた。
準備なしに現場に行って、何もできませんでしたでは話にならない。最初の仕事だからこそ、ちゃんと当てにいく。
■2.リンとの出会い
農村は静かだった。
王都の喧騒とは別の時間が流れていた。朝の光のなかで鶏が鳴き、遠くで誰かが畑を耕している。馬を降りたアリアが「こっちです」と小道を進んだ先に、木造の小屋が見えてきた。
「リン! いる?」
アリアが声をかけると、扉が開いた。
出てきたのは十九歳ぐらいの娘だった。日に焼けた頬、短くまとめた黒髪、作業着のまま手に土がついている。目は大きくて、鍵を見た瞬間に少し険しくなった。
「……魔法使い?」
「違います、勇者です」と鍵が答えたら、アリアに脛を蹴られた。
「この人は特別な技術を持つ仕事人です」アリアが引き取った。「帳簿の整理を手伝ってもらおうと思って」
「魔法使いに農業の何がわかるんですか」
リンの声に刺はなかったが、芯があった。お世辞を言う気もない、ただ疑問に思っていることをそのまま口にしている——そういう性格だと一目でわかる。
「農業は分かりません」鍵は正直に言った。「でも、数字を整理することはできます。三十年分の記録があるなら、そこから見えないものが見えてくる可能性がある」
「見えないもの?」
「たとえば、去年と一昨年で収量が変わった原因とか。どの土地が何年ごとに休ませると効果が出るとか」
リンはしばらく鍵を見た。
品定めをしている目だ、と鍵は思った。詐欺師か本物かを見極めようとしている。農村で生きていれば、口のうまい旅人には散々煮え湯を飲まされてきたはずだ。
「……見せることはできます。ただ、役に立つかどうかは、やってみないとわかりません」
「それで結構です」
リンが一瞬だけ、ほんのわずか表情を緩めた。
小屋の中は質素だった。机の上に積まれていたのは、厚みのある台帳が七冊。どれも日焼けし、角が潰れていた。いちばん古いものを開くと、細かい数字と農地の名前が几帳面な字で連なっていた。
「父の字です」リンが静かに言った。「毎年、春と秋に記録していたみたいで」
鍵は台帳を一冊ずつ確認した。日付、農地の区画名(「南の上」「川沿い」「石畑」など)、作物名、数量。フォーマットは統一されていないが、書いてある内容は一貫している。
「三十年分、全部ありますか」
「はい。ただ、十二年前の台帳だけ水に濡れたみたいで、半分読めません」
「それ以外は読める?」
「たぶん」
「充分です」
鍵はノートを取り出した。ここから先が本番だ。
■3.クロードへの指示
小屋の外、日陰のある木の根元に腰を下ろして、鍵は指示文を書きはじめた。
まずは入力形式の定義から。台帳のデータを読み込ませるためには、クロードが「何を」「どんな形で」受け取るか、明確にしておかなければいけない。
「クロード」
青白い光が樹上から降りてきた。森の中に来ると少し目立つが、アリアはもう慣れた顔をしているし、リンは少し目を丸くしていた。
「台帳のデータを整理してほしい。農地区画ごとに、年別の作物と収量を集計する」
クロードは一瞬考えるような間を置いた。
「入力形式を定義してください」
「……やっぱりそう来るか」
鍵はノートにペンを走らせた。
『「台帳データの入力形式:年・農地区画名・作物名・収量(単位:袋)を一行ずつ記録する。区画名は原文のまま。収量が空白の場合は0として扱う。」』
クロードが受け取って、また少し間が空いた。
「区画名が複数の台帳で表記ゆれしている場合、どちらを正とみなしますか」
「……」
鍵は台帳を開き、確認した。たしかに「南の上」と「南上」が混在している。
「『南の上』を正式名称とする。『南上』は同一とみなす。他に表記ゆれがあれば、都度確認を入れてください」
「了解です。他に」
「他に?」
「収量の単位が途中で変わっている可能性があります。袋から斗に切り替わった年がある場合、換算式を教えてください」
鍵はリンを呼んだ。「単位が途中で変わってたりしますか」
リンがしばらく台帳を眺めた。「……十年前から『袋』になってます。それ以前は『束』だったと思います」
「束と袋の換算は」
「父に聞いたことがあって……だいたい一束は今の袋の半分ぐらいかと」
「だいたい?」
「正確には知りません」
鍵はクロードに向き直った。「一束=0.5袋で換算してください。ただし換算した数値は元の数値と区別してメモを付けること」
「了解です」クロードが言った。「最後に確認ですが——」
「まだある?」
「集計の粒度はどうしますか。年ごと・区画ごとの合計か、作物ごとの年推移か、両方か」
鍵は一秒考えた。
「両方。区画×年の収量テーブルと、作物×年の収量テーブルを別々に出してください」
「承知しました。それから——」
「まだ?!」
「これが最後です」クロードは申し訳なさそうでも何でもない落ち着いた声で言った。「出力形式は文字の表ですか、それとも羊皮紙に図示しますか」
「……両方」
「了解しました。では入力を開始してください」
鍵はリンに向き直った。「台帳を最初から読み上げてもらえますか。私が書き取ります」
リンが首を傾けた。「私が読むんですか」
「私が読むより早い。あなたのほうが字に慣れているはずなので」
リンは少し笑った。ほんのわずかだったが、確かに笑った。
「わかりました」
それから一時間半、リンが台帳を読み上げ、鍵が記録し、クロードが受け取り続けた。
■4.結果が出る
「完了しました」
クロードの声がしたとき、リンは台帳の最後の一冊を閉じたところだった。
日はすでに午後に傾いていた。アリアは途中で小屋から毛布を持ってきて木の根元に座り、黙って二人の作業を見ていた。
「出力します」
クロードが空中に手をかざした。光が広がり、形を作る。半透明の羊皮紙のようなものが二枚、空中に固定された。
一枚目は表だった。縦軸に農地区画名、横軸に年が並んでいる。各セルには数値が入っていて、去年と一昨年の差が色で示されている。
二枚目はグラフだった。折れ線が三本、それぞれ「小麦」「大麦」「芋」の年ごとの収量推移を示している。
リンが立ち上がり、羊皮紙の前に進んだ。
「……これ」
小麦の折れ線が、三年前から今年にかけて右肩下がりになっている。
「今年、小麦が去年より少ないのはわかってました」リンがゆっくり言った。「でも、なぜかは分からなかった」
「この区画を見てください」鍵が指を差した。表の「南の上」の列だ。「ここが五年前から収量が落ちています。四年連続で同じ作物を植えていますね」
リンが表を見つめた。「……芋を続けて植えてた。父が言ってた。土が疲れるって」
「クロード、土地Aの収量パターンで何か見えるか」
「『南の上』区画の傾向です」クロードが羊皮紙を指した。光が動いて別のパターンが浮かび上がる。「十八年前と十二年前、この区画は二年間作物が記録されていません。翌年から収量が戻っています。傾向から推測すると、二〜三年の休耕で土地の回復が見込まれます」
リンが動かなくなった。
「……父が」
声が変わった。
「十年、悩んでた」
鍵は何も言わなかった。
リンはゆっくりと羊皮紙の前に屈み込んで、数字を見た。「なぜ南の畑だけ収量が落ちるのか、どうしたら戻るのか、毎年ずっと考えてた。病気か、水か、肥料か。でも記録が多すぎて、全体が見えなかったって」
光の折れ線が静かに浮かんでいる。
「答えは台帳の中に全部あったんだ」
リンの目から涙が落ちた。静かに、音もなく。
鍵はリンがそれ以上何も言わないのを見届けてから、ノートに短く書いた。
『「南の上:来年と再来年は休耕を推奨。三年後から小麦の植え付けを再開すると収量回復の見込み。」』
「クロード、この分析を羊皮紙に清書してください。リンさんが保管できる形で」
「承知しました」
新しい羊皮紙が光の中で生まれた。表とグラフ、それから最後に短い推奨事項が記されている。手書きではなく、整然とした文字で。
アリアが立ち上がり、リンのそばに来て、肩を叩いた。「よかったじゃん」
「……うん」リンが袖で目を拭った。「ありがとう」
その言葉は鍵にも向けられていた。
■5.初報酬と帰り道
リンは小屋に入り、しばらくしてから戻ってきた。手に小さな袋を持っていた。
「これ、お礼です」
机の上に銅貨が並んだ。数えると二十枚あった。
「受け取っていいんですか」
「仕事をしてもらったんです。当然です」リンはまっすぐな目で言った。「父の記録が無駄じゃなかったって分かった。それだけでも充分です」
鍵は銅貨を受け取り、アリアに渡した。
「アリアさんが預かっておいてください。帳簿担当なので」
「えっ私が?」アリアは少し目を丸くしたが、すぐに表情を引き締めて袋に銅貨をしまった。「……まあ、いいでしょう」
帰り道、馬の背に揺られながらアリアが言った。
「少ないですね。銅貨二十枚って、王都の食堂で飯が食えるかどうかですよ」
「最初はこれでいい」
「でも商売として——」
「実績と紹介先が増えれば値段は上げられます。今は信頼を買ってる段階なので」
アリアがしばらく黙った。「……それは商人の論理と同じですね」
「大体何でも同じです」
夕焼けの中、王都の外壁が見えてきた。クロードが馬の横を浮いて並走している。なぜ浮いて移動できるのかは聞いたことがないし、聞く必要もないと思っていた。
「クロード、次の指示は?」
定期的に聞いてくる。毎回のことだ。
「今日の件をまとめてください。案件概要、作業内容、成果、改善点。次の案件に使えるテンプレートになるように」
「了解です」クロードが静かに言った。「フォーマットを定義してください」
「……そこから始まりますよね」
「定義がなければ実行できません」
鍵はノートを取り出した。馬に揺られながら書くのは難しいが、慣れてきた。
アリアが横で笑った。「毎回これですか」
「毎回です」
「大変ですね」
「そうでもないです。ちゃんと考えてから指示を出すいい訓練になってる」
空が赤く染まっている。王都に戻れば、明日の案件の準備が始まる。銅貨二十枚、AIカンパニー初の売上。規模としては小さい。でも、仕事が人の役に立って、それで対価をもらった——その事実は、金額より重い。
リンが十年分悩んでいたことが、今日一日でわかった。
『それでいい。それがこの仕事の意味だ。』
鍵は馬の背で背筋を伸ばした。
「次は何をしますか」クロードが聞いてきた。
「アリアさんの次の案件に合わせて動きます。あなたはテンプレート作成を今夜中に終わらせておいてください」
「了解しました」クロードは言った。「フォーマットの定義は——」
「今書いてます」
「助かります」
王都の門が開いた。
AIカンパニー、最初の仕事——完了。
『(第4話へつづく)』
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