第02話 まず現状把握から始めます
■1.翌朝・宰相との会話
翌朝、鍵は城の廊下を歩きながら、昨夜書いたノートを読み返していた。
課題リスト。仮説。調査項目。ページを埋める文字を見ていると、少し自分を取り戻せる気がした。どんな現場でも、まずノートを開いて書き出すのが鍵のやり方だ。書くことで頭が整理される。整理されれば、次の一手が見える。
「鍵殿」
応接室の扉の前で、宰相のエドワードが待っていた。朝から完璧に整った礼服で、昨夜とまったく同じ仏頂面をしていた。
「昨夜申し上げた件ですが」エドワードが口を開く。「本当に王国の調査をなさるおつもりですか」
「するつもりです」
「……魔王軍がすでに東の要塞を陥落させ、この王都まで——」
「一週間あれば十分です。調査なしで動くほうが、長期的にはリスクが高い」
エドワードが眉をひそめた。「リスク、とは」
「課題の全体像が見えていない状態で手を打っても、的外れになる可能性があります。現状把握なしの施策は、目を閉じたままダーツを投げるようなものです」
沈黙。
エドワードは口元に手を当て、しばらく鍵を観察するような目で見た。昨夜もそうだった。馬鹿にしているというより、値踏みしている目だ。
「……一週間、差し上げましょう」
「ありがとうございます」
「ただし」エドワードが付け加えた。「一週間が終わったとき、何も成果が出なければ魔王討伐に直接向かっていただきます。戦闘スキルがないとはいえ、勇者に課せられた責務がありますので」
「わかりました。そのときは喜んで」
鍵はノートに走り書きした。『エドワード宰相——条件:1週間以内に成果を出す』。
「それと」エドワードが踵を返す直前に言った。「本日のご案内として、アリアという娘が中庭に待機しております。彼女は王城への出入りに慣れており、王都の地理にも詳しい。適切な案内人かと」
「ちょうどよかった」鍵は答えた。「お願いします」
エドワードは一瞬だけ顔を止めた。まるで、もう少し渋られると思っていたような表情だった。
■2.王都の市場を歩く
中庭にアリアは、言った通りにいた。
朝9時。日差しはまだ柔らかく、石畳に細長い影が伸びている。アリアは商人風の上着に革のバッグを肩から下げ、羊皮紙を一枚手に持って立っていた。鍵の姿を見ると、軽く手を挙げた。
「時間通りですね」
「そっちも」
「商売人は時間厳守です」
それだけ言って、アリアは歩き始めた。鍵が後を追う。クロードがふわりと現れ、二人の後ろを漂うように付いてきた。アリアはクロードをちらりと見たが、何も言わなかった。
王都の市場は、朝から賑やかだった。石造りの建物が並ぶ通りに、色とりどりの屋台が並んでいる。食料品、布地、農具、薬草。人が行き交い、値交渉の声が飛び交う。鍵の世界とは音も匂いも違うが、「市場」という場所の本質は変わらない——欲しいものと持っているものを交換する場所だ。
最初に足を止めたのは、肉屋の屋台だった。
「豚の塊、いくらですか」と鍵が聞いた。
「銀貨3枚だよ」と肉屋の親父が答えた。
鍵はノートに書きつけた。それからアリアに向き直った。「昨日の相場は?」
「銀貨2枚でした」
「一日で5割上がってる」
「そうですね」
「なぜ?」
「感覚です」
鍵はペンを止めた。
「……感覚」
「牛の豚が今朝1頭多く入荷したとか、隣の屋台が値上げしたとか、そういうのを見て決めているみたいです。明確なルールはないと思います」
次は布屋だった。
「この麻布、一反いくら?」
「銅貨20枚」
アリアがすかさず言った。「先週は18枚でした。来週は22枚になるかもしれないと聞きました」
「根拠は?」
「季節です。秋になると収穫の祭りがあるので需要が上がると、そういう話でした」
「予測はあっているの?」
アリアが少し考えてから答えた。「だいたい。でも、外れることもあります。誰も記録していないので、過去データとの比較はできません」
鍵はノートの欄外に書いた。『価格設定:根拠なし・口伝・記録なし』。
鍛冶屋でも同じことが繰り返された。農具の値段は鍛冶師の気分と原材料の入荷タイミングで決まり、今日の価格を昨日の自分も知らないという。
「なんで?」と鍵が聞くと、鍛冶師は不思議そうな顔をした。
「なんでって……そういうもんじゃないですか」
「……」
アリアが鍵の横で小声で言った。「ここではみんな、そういうものだと思っています」
「そうじゃない世界もあると思うんですが」
「私も今、少しそう思い始めました」
鍵はノートのページが半分埋まったのを確認して、歩き続けた。市場を一周するころには、ページが一枚ちょうど埋まった。
■3.王城の記録室
午後は記録室へ向かった。
エドワードが手配してくれた担当者——城の文官らしき中年の男が、鍵たちを地下室へ案内した。石の棚が壁一面に並び、巻物と羊皮紙の束が所狭しと詰め込まれている。埃の匂い。窓がなく、蝋燭の明かりだけが揺れていた。
「ここが王国の記録のすべてです」
文官が胸を張った。
「……全部で何年分ありますか」
「三代にわたる記録ですから、おおよそ三十年分かと」
「整理はされていますか」
「年ごとに棚を分けております」
「年の中では?」
「……まあ、入れた順に」
鍵はしばらく棚を眺めた。
三十年分の記録が、入れた順に詰め込まれている。検索方法はない。インデックスはない。「去年の税収がどうだったか」を知るためには、棚を全部漁るしかない。
「例えば」鍵は文官に聞いた。「昨年の王都の税収、今すぐ答えられますか」
「……しばらくお時間をいただければ」
「どのくらい?」
「二、三日あれば」
鍵はノートに書いた。『税収データ取得:2〜3日かかる』。
アリアが棚の一つを引き出し、羊皮紙を広げた。農産物の収穫量を記録したものらしい。細かい手書き文字がびっしりと並んでいる。
「これ、全部手書きですね」
「当然ではありませんか」文官が少し怪訝な顔をした。「記録とはそういうものです」
「三十年分のデータを集計しようとしたら、どのくらいかかりますか」
「……集計?」
「合計を出したり、比較したり」
文官が首をかしげた。「やったことがないので、わかりません。そういうことが必要でしたか」
そうか、と鍵は思った。集計の概念がないわけじゃない。ただ、やったことがないのだ。データが山になっていても、そこから何かを読み取るという発想がない。
「デジタル化って……」
鍵は一瞬、口にしかけてやめた。デジタル、の概念がない世界だ。魔力はある、精霊はいる、でも電気もコンピュータもない。どう説明するか。
「鍵さん?」アリアが鍵の横顔を見た。
「……いや、ちょっと考えてました」
鍵はしばらく棚を見渡してから、アリアに言った。「この記録室、今のままでも整理はできますか。物理的に」
「できると思います。年月と内容で分類して、インデックスを付ければ。手間はかかりますが」
「それが現実的ですね」
「デジタル化、というのを考えていたんですか」アリアが言った。
「知ってるんですか、その言葉」
「知りません。でも、鍵さんが何か別の手段を考えて、やっぱり無理だと思った顔をしていたので」
鍵はアリアを見た。するどい。この人は観察している。
「ここには電力も計算機もない。私のやり方が全部使えるわけじゃない。だから順序立てて考えないといけない」
「現実的に、まず何から始めますか」
「分類のルールを決めること。記録の書き方を統一すること。そこからです」
アリアが頷いた。「それなら手伝えます」
文官がまだ二人の会話についていけない顔で立っていた。鍵は文官に向き直った。「記録の担当者と来週、話し合いの場を設けてください。記録の書き方を統一するための相談です」
「統一……ですか」
「はい。今日はいったんこれで。ありがとうございました」
記録室を出て、階段を上がりながら、アリアが言った。
「呆れてましたね、文官の方」
「そうですね」
「でも話を聞いていました。怒ってはいなかった」
「それで十分です。最初は疑問を持ってもらえれば」
城の廊下に出ると、窓の外はもう夕暮れだった。一日が終わっていた。
■4.課題リストを書く
鍵は中庭の石段に腰を下ろし、ノートを開いた。
日が落ちていく。空がオレンジから紫に変わっていく。鍵にとってこれは、どんな世界でも同じ仕事の区切りだ。一日の終わりにノートを開く。その日に見たもの、気づいたこと、疑問に思ったことを書き出す。
ペンを走らせていると、リストはあっという間に埋まった。
1. 市場の価格設定——根拠なし、記録なし、予測不可
2. 農産物の収穫量——三十年分の手書きデータ、集計不可
3. 税収——全体像を誰も把握していない(担当者でさえ)
4. 兵の配置——口伝のみ、書面記録なし
5. 魔王軍の動向——前線からの報告が不定期、様式バラバラ
6. 前の勇者たちの失敗記録——ほぼ存在しない
7. 物資の在庫——倉庫ごとに独自管理、横断把握不可
8. 王城のコスト構造——年間いくらかかっているか不明
9. 魔法使いのスキルデータ——個人の記憶に依存
10. 記録のフォーマット——統一ルールなし
十番まで書いて、まだある気がしてペンを止めた。
『全部、データがないから起きている問題だ。』
考えてみれば当たり前のことだった。記録がなければ比較できない。比較できなければ改善できない。改善できなければ同じことが繰り返される。魔王軍が押してくる中で東の要塞が落ちたのも、前の勇者たちが失敗したのも、根っこには「情報が整理されていない」という問題があるのかもしれない。
もちろん証拠はまだない。仮説だ。でも仮説は悪くない。
「よくできましたね」
アリアの声がした。
いつの間にか石段の隣に座っていた。一日のほとんどを一緒に歩き回ったわりに、疲れた様子がない。商人の体力があるのか、それとも内心ではこの調査を楽しんでいるのか。
「まだ終わってないです」
「十項目でも充分多い。一日でよく拾いましたね」
「あなたが案内してくれたからです。一人では市場の相場の話は聞けなかった」
アリアが少し笑った。「お世辞は上手くないですね」
「本当のことです」
「わかってます。受け取っておきます」
鍵はリストを見直した。課題は並んでいる。でも並んでいるだけでは動けない。次は優先度を決め、アクションに落とし込む作業が必要だ。
「クロード」
青白い光が夕暮れの中庭に滲んだ。クロードが静かに現れた。
「はい」
「このリスト、見てたか」
「見ていました」
「何か言いたいことは」
「一点あります」クロードが言った。「項目5と6は情報収集フェーズが先で、今週中には着手できません。優先度設定の際は注意が必要です」
「わかった。他には」
「項目2と4と7は、同じ根本原因から来ている可能性があります。先に原因を特定するほうが、対策の効率が上がるかもしれません」
「いい指摘です」鍵は該当箇所に印をつけた。
クロードがわずかに間を置いた。
「このリスト、実行フォーマットに変換しますか」
鍵は一度ペンを止めた。
変換する気にはなれない。まだ早い。項目の粒度がバラバラだし、優先度も決まっていない。何より、リストを眺めながら「まだ抜けているものがある」という感覚が消えていない。
でも——もう少しで、そのステップに踏み出せる気もした。
「まだ早い」
「了解です」
「でも近い」
クロードは何も言わなかった。ただ静かに頷いて、夕闇の中にゆっくりと溶けていった。
アリアが鍵のノートを横から覗き込んだ。
「明日は何を見に行きますか」
「兵舎と倉庫。午前に終わらせて、午後は記録の分類ルールの草案を作りたい」
「わかりました」アリアが立ち上がった。「明日も朝9時、ここで」
「お願いします」
アリアが去っていく後ろ姿を見送り、鍵はもう一度ノートを開いた。
十個の課題が並んでいる。まだ仮説の段階だ。でも一日で十個の問題を見つけられたなら、六日でどこまで掘れるか。
『やれることは、たくさんある。』
ペンを握り直した。
課題リストの下に、一行書き加えた。
『フェーズ1目標:6日間で課題マップを完成させ、優先3件のアクションプランを出す。』
石段に夜の空気が流れてきた。虫の音が遠くから聞こえる。王城の灯りが一つ、また一つと点いていく。
鍵はノートを閉じ、立ち上がった。
調査2日目は、明日始まる。
『(第3話へつづく)』
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