第23話 ガルドの孫が病気です
■1.深夜の使者
夜の三刻を過ぎたころ、オフィスの扉が叩かれた。
「……開いてます」
鍵は顔を上げずに答えた。机の上に広げた羊皮紙には、明日の王都定期市向けの在庫自動集計システムの設計が半分ほど書き込まれていた。こういう細かい設計作業は、他の物音が消えた深夜のほうが捗る。
「失礼します」
扉から入ってきたのは、見覚えのない老齢の男だった。魔法使いギルドの紋章が入ったローブを着ている。しかし顔つきは穏やかで、威圧的な様子はない。どちらかというと——疲れているように見えた。
「ギルド長、ガルド様の使いの者です」
鍵はペンを置いた。
「ガルドさんが」
「はい。……今夜すぐにお越しいただきたい、と」
アリアが奥の作業台から顔を出した。
「今夜すぐに、ですか」
「さようです」老人は静かに言った。「ギルド長がそのように」
アリアが鍵を見た。何かあったんですか、と口が動く。声には出さなかったが、目が言っていた。
鍵も同じことを考えていた。ガルドが深夜に呼びつけてくるのは異例だ。あの人は明け方から執務室に入り、夕刻には必ず引き上げる。規則正しさが身についていると言うより、規則正しさが体そのものになっているような老人だ。第16話の討論が終わった帰り際、「お前の言葉、考えておく」と言ったときでさえ、足取りは淡々としていた。感情を顔に出さない人だということは、もうわかっていた。
「わかりました。すぐ行きます」
鍵はクロードに目を向けた。
「来てくれるか」
「了解です」
クロードは静かに立ち上がった。光でできた髪が、ランタンの炎に照らされてわずかに揺れた。
■2.ガルドの部屋
ギルド本部の奥まった一室。
扉を開けると、ガルドは一人で椅子に座っていた。
いつもなら執務机を挟んで向き合う場所だが、今夜はその机から離れた低い椅子に腰をおろし、両手を膝の上に置いていた。杖は壁に立てかけてある。机の上の書類には手がついていない。ランタンが一本だけ灯っていて、部屋の端は影になっていた。
威厳がなかった。
それが第一印象だった。正確には——威厳を保とうとしている様子がなかった。いつもあの人は背筋を伸ばして鍵を見る。今夜は少し前のめりで、視線が定まっていなかった。
「来たか」
「呼んでいただきましたので」
「……座れ」
鍵は促されるまま椅子に腰をおろした。クロードは扉の近くに立っている。
しばらく沈黙が続いた。外から夜風の音がしていた。ガルドは何かを言いかけて、止めた。それからもう一度、息を一つついて、口を開いた。
「孫が、病気だ」
鍵は何も言わなかった。続きを待った。
「七歳になるレナという子でな。三日前から熱が続いている。王都で最善の治療師に診せているが——経過が読めん、と言われた」
ガルドは自分の手を見た。七十年分の節が刻まれた手だ。
「どんな熱だ、と聞いた。上がりっぱなしか、上下するのかと聞いた。食欲はどうだ、水は飲めているのかと聞いた。治療師は丁寧に答えてくれたが——三日分が頭のなかに散らばっていて、つながらん」
「記録がないんですね」
「そういうことだ」ガルドは初めてまっすぐ鍵を見た。「感情でものを言うのは嫌いだが、このときばかりはそうも言っておれん。お前のやり方で——何か、管理できるか」
鍵はひと呼吸おいた。
長くガルドと向き合ってきた。禁止令を出した相手として。認めてもらおうとしていた相手として。しかし今夜のガルドは、そういう話の外にいた。
これが「助けを求めている」ということなのだと、頭ではなく体で理解した。
「できます」
クロードが静かに前に進み出た。
「どのような情報を記録しますか」
ガルドはクロードを一瞥した。精霊が何かを言うことに、今夜は驚いていなかった。
「体温。投薬の内容と時刻。食事の量。……あとは、様子かな。顔色と、意識の具合」
「了解しました」クロードは言った。「毎日定刻に記録を取り、前日との比較を出します。治療師への報告書の形に整えることもできます」
「そういうことか」
「そういうことです」
ガルドはゆっくりと椅子の背にもたれた。長い間、天井を見上げていた。それから小さく、しかしはっきりと言った。
「頼む」
■3.記録と回復
翌朝から、鍵は記録を始めた。
レナの部屋には直接入れない。でも治療師が一日三回、状態を確認しにくる。その内容をガルドを通じて受け取り、クロードが整理する。
項目はシンプルにした。
体温(朝・昼・夕)、投薬(種類・量・時刻)、食事量(十段階)、意識状態(五段階)、治療師のコメント。
それだけだ。
二日目。クロードが比較表を出した。
「昨日より体温が0.3度下がっています。午前の薬が切れる時刻と熱の上昇タイミングが一致しています」
治療師にその比較表を見せると、しばらく黙って数字を追い、「投薬の間隔を調整したほうがいいかもしれない」と言った。
三日目。食事量が少し上がった。
「前日比で一段階改善。体温の最高値も一昨日より低い」
クロードは感情を込めずに言う。ただ数字を読む。しかしその数字が、そのまま「良くなっている」という事実になった。治療師は記録を受け取るたびに少し長く眺めるようになった。「これがあると動きやすい」と、四日目に言っていた。
四日目の夕方、ガルドから短い文が届いた。
『今朝、レナが粥を半分食べた』
それだけだった。
アリアが手紙をのぞき込んで、「よかったですね」と言った。鍵はうなずいて、クロードに記録の更新を頼んだ。
五日目。体温が平熱近くまで下がった。
「前日比マイナス1.1度。この三日間で最低値です」とクロードが言った。「傾向は明確に改善方向です」
治療師が「峠は越えた」と判断したのはその翌朝のことだった。
鍵は特別なことをしたわけではない。あるものを数字にして、並べて、比べただけだ。それだけのことが、医師の判断を助けた。
『記録がなければ、傾向は見えない。傾向が見えなければ、判断ができない。それは薬でも魔法でも同じことだ。』
■4.ガルドの「礼を言う」
七日後、ガルドがオフィスに来た。
使いをよこすのではなく、本人が。
扉をノックして入ってきたガルドを見て、アリアが思わず立ち上がった。鍵は手元の作業を置いた。
「立たんでいい」
ガルドは手を一度だけ軽く動かした。それだけで十分だという仕草だった。
ガルドはゆっくりと鍵の前まで歩き、向かいの椅子に腰をおろした。杖を両手で持ち、少しの間、床を見ていた。
「レナが回復した」
「よかったです」
「治療師が言っておった。記録があったことで、判断が変わったと」
鍵は何も言わなかった。
「……礼を言う」
部屋が静かだった。ガルドがこの言葉を言うのに、どれだけかかったかがわかるような静けさだった。
「仕事でやったことです」鍵は言った。「礼を言われるほどのことではない」
「そうはいかん」ガルドは顔を上げた。「わしはな——お前のやり方をずっと信用していなかった。コード魔法とやらは感性を欠いている。魔法は術者の直感と意志があってはじめて成るものだ。そう思っていた。今も、その考え自体は間違っていないと思っている」
「そうですね」
「しかし」ガルドは続けた。「記録して、並べて、前日と比べる——そういうことは、直感の代わりになるのではなく、直感を助けるものだとわかった。治療師も、わしも、何かを見落としていた。お前のやり方がそれを補った」
鍵は少し考えてから答えた。
「それで十分です。最初からそれだけ言ってもらえれば、もっと早く動けましたが」
ガルドが何かを言おうとした。しかし言葉を選ぶように、少しの間を置いた。
クロードが静かに口を開いた。
「ガルド様。レナ様の記録、引き続き保管しますか」
ガルドは精霊を見た。
「……何のために」
「次に体調を崩されたとき、今回の経過があれば比較の基準になります。一度記録したものは、ずっと参照できます」
ガルドはしばらくクロードを見ていた。精霊が質問を投げかけてくることを、以前は不快に思っていたはずだ。今夜は少し違う顔をしていた。
「そうか」
それから、ゆっくりとうなずいた。
「頼む」
短い言葉だった。しかしその短さに、七日前の夜とは違う何かが混じっているように鍵には聞こえた。七日前の「頼む」は、追い詰められた人間の言葉だった。今日の「頼む」は——少し違う。信頼とまでは言えないが、認めるという意志のようなものが、そこにあった。
ガルドは椅子から立ち上がり、杖を手にした。
「では、わしは戻る」
「はい」
「次の監査は来月だ。それまでに何かあれば報告するように」
「わかりました」
ガルドは扉に向かい、そこで一度だけ立ち止まった。振り返りはしなかった。
「……お前のやり方。まだ全部を納得しているわけではないが、使い道があることはわかった。続けることを認める。それだけだ」
「それだけで、十分です」
扉が閉まった。
アリアが小さく息を吐いた。
「すごかったですね」
「何が」
「ガルドさんが、自分から来てくれたことが」
鍵は机の上の羊皮紙に視線を戻した。昨夜の作業の続きがある。在庫自動集計の設計、まだ半分だ。
「そうかもしれない」
クロードが静かに言った。
「レナ様の記録、保管を開始しました」
「ありがとう」
鍵はペンを手にして、設計の続きを書き始めた。
深夜に始まった七日間は、こうして静かに終わった。
(第24話へつづく)




