第19話 大型案件、失敗します
■1.依頼は、今までと規模が違った
「王城の食料配給を、整理してほしい」
宰相のガルベス卿が、広い執務室の中央でそう言った。
いつもの案件とは雰囲気が違った。声に重さがあった。椅子への案内もなく、鍵とアリアは立ったまま話を聞いた。
「配給は毎月、王都全域の市民に対して行われる。規模としては……そうだな、関わる人間の数だけ言えば、三千世帯を超える」
鍵は一瞬だけ、頭の中で数字を換算した。
これまでの最大案件は、軍の物資管理だった。倉庫十棟分、品目数にして約二百項目。それでも「大きい仕事だ」と思っていた。三千世帯は、その十倍以上だ。
「現状は?」
「台帳が複数に分散しており、担当者が異なる。引き継ぎが不完全なまま何年も続いてきた。先月、配給量の集計に誤りがあって、一部の区画で不足が出た。陛下から改善の指示が下りた次第だ」
アリアが隣でメモを取っている。ペンを走らせながら、そっと鍵を横目で見た。
「やれますか」
ガルベス卿が静かに問うた。値踏みではなく、本当に確認したいという目だった。
「やれます」
鍵は即答した。
アリアが一拍置いてから言った。「……鍵さん、少し確認させてください。規模が今までと全然違います。人員はどうしますか、スケジュールは、現場の引き継ぎは」
「大丈夫です」
鍵はアリアの言葉を遮った。遮ったことに気づいたのは、廊下に出てからだった。
「大丈夫、ですよね」
アリアが歩きながら言った。問いかけでも、確認でもなく、どこか一人で呟くような言い方だった。
「やったことのある仕事です。規模が大きいだけで、構造は同じはずです」
鍵はノートを開きながら答えた。
配給システム。台帳の一元管理。算出の自動化。どれも、個別に考えれば既存の案件で培ったノウハウで対応できる。それを三千世帯規模に引き伸ばすだけだ、と頭の中で整理していた。
そのとき、頭の中にあったのは本当にそれだけだった。
■2.三週間で、完成した
システムは、三週間で完成した。
クロードが生成した台帳管理の魔法式は全部で四層構造になっていた。世帯ごとの基本情報を管理する「登録層」、毎月の配給量を自動計算する「算出層」、実際の受け渡しを記録する「実行層」、そしてすべてをまとめて差異を検出する「照合層」。
「エラーがゼロです」
作業の最終確認を終えたクロードが言った。
鍵はサンプルデータを見た。三千世帯の総配給量、月次の誤差、区画ごとの差分。どの数字も、手計算で出した検算値と完全に一致していた。
テオが台帳の束を眺めながら、珍しくはっきりとした声で言った。「これは、すごいです」
ミナがシステムの手順書を読み込みながら、少し眉を寄せた。「……細かい条件が多いですね」
「それだけ正確なんですよ」とテオ。
「うーん」
ミナは答えずに、もう一度手順書を読み返した。
「何か気になることがありますか」
鍵が聞くと、ミナは少し間を置いた。
「条件が多いということは、条件から外れる人が出たとき、どうなるのかな、と思って」
「そのケースはここで拾えます」
鍵はシステムの四層目を開いて見せた。「照合層で差異を検出して、人が確認できるようにしてあります」
「あ、なるほど」
ミナはそこで頷いた。疑問が解消されたというよりは、ひとまず理解した、という顔に見えた。
導入前夜、鍵はオフィスに一人残って最後の確認をした。三千世帯、全項目、誤差なし。クロードに「問題はないか」と確認すると、「システム上の問題は確認されません」という返事が来た。
「完璧だな」
自分に言い聞かせるように、鍵は呟いた。
ミナが帰り際に「本当に明日から動かすんですね」と言ったのを思い出した。「はい、動かします」と答えた。ミナはそれ以上何も言わなかった。
鍵はノートを閉じた。
久しぶりに、仕事をやりきったという感覚があった。
■3.初日に、苦情が来た
導入の初日、鍵とテオは配給所に立ち会っていた。
王都の第三区画にある配給所は、石造りの建物だった。日が昇るまえから人が並び、担当者が一人ひとりに配給を渡していく。その担当者が、ルナおばさんだった。
六十を過ぎているだろうか。がっしりとした体格で、白髪を後ろで束ね、分厚いエプロンをつけていた。二十年以上この仕事をしているという話は事前に聞いていた。
「今日から新しい台帳で動きます。よろしくお願いします」
鍵が説明すると、ルナは無言で頷いた。特に抵抗はなかった。
最初の一時間は、問題がなかった。
「次の方」
「ウォルド家です」
「麦粉三袋、塩ひと瓶、豆油ふた瓶。こちらをどうぞ」
テオが台帳を確認して記録する。クロードの魔法式が差分を照合する。数字は合う。流れている。
「……あの」
声が上がったのは、その一時間後だった。
壮年の男が、受け取った荷物を見たまま動かなかった。
「ハーパー家、六人家族です。この量では、少ないです」
台帳を確認した。ハーパー家、六人家族、配給量は算出層の計算通り。誤りはない。
「算出基準によれば、この量になります」
テオが丁寧に答えた。
「基準?」
「世帯人数に応じた標準量です」
男はしばらく台帳を見た。それから静かに言った。「うちには病人がいます。先月は少し多めにもらっていました」
「……病人」
テオが鍵を見た。鍵はクロードに視線を向けた。
「病人への追加配給は、照合層の確認事項に含まれていません」
それが、最初の苦情だった。
次は、十分後に来た。
「お隣のギスタン家と同じ量でした。あちらは二人家族です。うちは五人です」
「計算基準では」
「基準ではなく、実際の話をしています」
その次も、また次も来た。
「父が足が悪くて、いつも配給所の人が家まで届けてくれていた。今日来てみたら、そのシステムはないと言われた」
「隣に引っ越してきた老夫婦がいる。台帳に登録がなくて、今月分が出ない」
「祭りのときは、祭り用の品が追加でもらえた。今年はないのか」
ルナは黙って聞いていた。配給を続けながら、鍵のほうをちらりと見ることもなく、黙って仕事をしていた。
昼過ぎに、鍵はルナに話しかけた。
「ご不便をかけています。照合層を調整して」
「調整はいいです」
ルナが静かに言った。
手を止めずに、前を向いたまま言った。
「数字は合っています。それは見てわかります」
「はい」
「でも」
ルナはそこで手を止めた。鍵のほうを向いた。怒っているわけではなかった。責めているわけでもなかった。
「ここには人の暮らしがあります。毎月来る人の顔を、私は全部知っています。あそこのヤルデン婆さんは足が悪い。レンツ家の子は先月生まれた。ペドラ一家は夫が亡くなって、今年から三人になった。そういうことを、私は二十年かけて覚えてきた」
鍵は何も言えなかった。
「数字は合っています」ルナはもう一度、同じ言葉を言った。「でも、数字が合っていることと、人の生活が合っていることは、違う」
そして再び、前を向いて仕事に戻った。
夕方までに、苦情の件数は三十を超えた。
テオが記録をつけながら、珍しく黙っていた。ミナが途中から配給所に来て、テオのとなりで一緒に記録を手伝ったが、こちらも何も言わなかった。
帰りの道、アリアが隣を歩きながら言った。
「次の対応を、考えましょう」
「……はい」
鍵は答えたが、声が出にくかった。
王都の通りに夕暮れが落ちていた。普段なら、帰り道に次の案件のことを考えている。ノートを開いて走り書きをしている。今日は、ノートを開く気になれなかった。
■4.夜、一人でオフィスに残った
事務所に戻ったのは夜だった。
テオとミナは「明日また来ます」と言って帰った。アリアは「次の手を整理してから連絡します」と言って、羊皮紙に何かを書きながら出ていった。
鍵は一人で、机に座っていた。
ランタンがひとつ、揺れている。
クロードが隣に立っていた。
「照合層に、病人・足の不自由な世帯・新規転入世帯のフラグを追加することができます。手順書の修正も、手配できます」
鍵は何も言わなかった。
「第二区画と第四区画の配給担当者へのヒアリングを設定することもできます。次月の配給に間に合わせるよう調整可能です」
「……わかった」
答えたが、動かなかった。
クロードがしばらく待って、もう一度言った。「何か指示はありますか」
鍵は机の上のノートを見た。今日の苦情件数が書いてある。三十四件。補足として「病人への追加配給」「宅配対応」「未登録世帯」「祭り用特別品目」の四項目が書いてある。どれも、システムに入れなかった条件だ。
入れなかったのではない、と鍵は思った。
考えていなかったのだ。
第八話のときは違った。宿屋の二重予約のときは、「確認が必要だった」という話で、謝れば済んだ。ミスは明確で、対処もシンプルだった。謝る相手もいて、謝れば前に進んだ。
今回は違う。
三十四件の苦情は、全部、本当のことだ。ハーパー家の病人も、足の悪いヤルデン婆さんも、祭り用の追加品目を毎年楽しみにしていた誰かも、ぜんぶ実在する。システムが正しくなかったのではなく、人の生活のすべてをシステムに入れようとしなかった。
技術的には完璧だった。
数字は合っていた。
それでも、人の生活は、合っていなかった。
「……まだ整理できていない」
鍵はクロードに言った。
クロードは何も言わなかった。
それは正しい反応だと思った。今ここで「整理できましたか」「次の指示はありますか」と聞いてくるようなら、少しおかしかった。クロードはただ、立っていた。
窓の外で、王都のどこかでランタンの明かりが灯っている。
三千世帯。一家族を四人として、一万二千人。
その一万二千人の生活を、鍵は数字に変えようとした。数字にすることで、整理できると思っていた。整理できれば、助けられると思っていた。
「整理できていない」
もう一度、呟くように言った。
今度は独り言だった。
ランタンに手を伸ばして、炎を消した。
部屋が暗くなった。
窓の外だけが、王都の明かりで薄く光っていた。
鍵はしばらく、その光を見ていた。
あの光の数だけ、家がある。家族がいる。毎月の配給を待っている人がいる。
自分はそれを、数字に変えようとした。
正しい数字にすれば、助けられると思った。数字が合えば、仕事は終わると思った。
でも数字は、人の暮らしを全部は映さない。ルナが二十年かけて覚えてきたことは、台帳の行には収まらない。それを、鍵は知らなかったのではない。考えなかったのだ。
「……次は、ちゃんとやる」
誰に言うでもなく、呟いた。
でも「ちゃんとやる」が何を意味するのか、まだわかっていなかった。
それが、今夜一番正直なことだった。
『(第20話へつづく)』
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