第17話 セリア王女が現れます
■1.廊下の声
討論の翌日、鍵は王城の廊下を歩いていた。
昨夜はうまく眠れなかった。ガルドの言葉が頭に残っていた——「お前の言葉、考えておく」。褒められたわけでも、認められたわけでもない。ただ、あの男が「考える」と言った。それだけで十分だという気がした。
廊下は朝の光が石畳に斜めに落ちていて、静かだった。衛兵が一人、遠くの角に立っているだけ。
「あの」
声がした。
鍵は立ち止まった。振り向くと、廊下の壁際に人が立っていた。
女性だった。年は二十代前半ほど。王族らしい仕立てのワンピースを着ているが、護衛がいない。一人で、両腕に本を三冊抱えている。黒髪が肩までまっすぐ落ちていて、目が大きい。ただ、その目が鍵を見ていた——じっと、観察するように。
「昨日の討論、見ていました」
声は落ち着いていた。緊張している様子もない。
「……はい」
「コード魔法の部分。ガルド卿との議論」彼女は続けた。抱えている本の背表紙が見えた。魔法理論に関する書物だ。「あなたが言っていた『精霊は命令を解釈する』という話、気になりました」
「どちら様ですか」
間の抜けた質問だと思った。でも正直に聞くしかなかった。
「セリアです。王女、ということになっています」
そう言って彼女は少し首を傾けた。「ということになっています」という言い方が妙に正確だった。
『王女殿下だ。』
鍵は頭の中で確認した。あわてて礼をしようとしたが、セリアはそれを手で制した。
「いいです、そういうのは。それより話を聞いてもらえますか」
「……はい」
「論文を書きたいのです」セリアは真っ直ぐに言った。「コード魔法の理論的根拠について。実験に協力してもらえますか」
廊下に、朝の光だけが静かに差し込んでいた。
■2.理論の話
王城の中庭。石のベンチに二人で座った。
セリアは本を脇に置き、小さなノートを取り出した。ページがすでに細かい文字で埋まっていた。
「整理させてください」と鍵は言った。「殿下は、コード魔法の何が知りたいんですか」
「なぜ日本語が魔力に変換されるのか」
即答だった。
「この世界の言語魔法は、古代語か精霊語のどちらかを媒体とします。なぜなら、それらの言語が持つ音の振動が、魔力と共鳴するとされているからです」セリアはノートを開いたが、見ずに続けた。「でも、あなたのコード魔法は日本語という全く別の言語を使っています。それなのに機能する。私の知っている理論では説明できません」
「説明できないということに、気がついている人が少ない」
「ガルド卿も気づいていません」セリアは平坦な声で言った。「あの方は『異質な魔法だから」で止まっています。でも、異質だからこそ既存の枠組みの外側にある。それを調べたい」
鍵は少し考えた。
「私もわかっていないんです」
「どういう意味ですか」
「コード魔法が機能するのはわかっています。クロードが命令を実行するのもわかっている。でも、なぜ日本語の文字が魔力になるのか、なぜクロードが現れるのか——そのメカニズムは私には見えていません」
セリアの目が少し変わった。『驚いた』というより、『計算が変わった』という感じの変化だった。
「それは正直な答えですね」
「そうだと思います」
「ほとんどの人は、自分の力についてわかったふりをします」セリアはノートに何か書き込んだ。「魔法師は特に。理解していない部分を指摘されると怒るか、誤魔化すかのどちらかです」
「私はエンジニアだったので」
「エンジニア」
「もとの世界での職業です。動いていることと、なぜ動くかは別の問題だと習慣的に区別しています」
セリアはしばらく黙った。ノートのページを繰る音だけがした。
「もう一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「クロードという精霊は、なぜ精霊語を持たない命令を理解できるのか。精霊は通常、媒体言語との契約を通じて召喚されます。あの存在にはその契約がないはずです」
「それも、わかりません」
「でも機能する」
「はい」
セリアはノートを閉じた。それから、初めて少し表情を和らげた。
「協力してもらえますか」
「条件を聞かせてください」
「実験への立ち合い、クロードへの質問への許可、それだけです。政治的な意図はありません」
「政治的な意図がないとわかるんですか」
「私が政治に興味がないので」セリアは平然と答えた。「王女ということになっていますが、研究者のほうが長い。兄が継ぎますし、私は論文を書くほうが好きです」
鍵は少し笑った。
「わかりました。協力します」
■3.アリアの計算
オフィスに戻ったのは昼を過ぎた頃だった。
アリアはすでに机に向かって帳簿を開いていた。鍵が入ると顔を上げ、すぐに表情を読んだ。
「何かありましたか」
「王女に声をかけられた」
アリアの手が止まった。
「セリア王女殿下ですか」
「そう。コード魔法の論文を書きたいと。実験に協力してほしいと言われた」
アリアは帳簿を閉じた。立ち上がって、腕を組む。考えているときの癖だ。
「それは」と彼女は言った。「大きいです」
「研究の話ですよ」
「わかっています。でも」アリアは続けた。「王女殿下が私たちのオフィスに出入りするということになれば、ギルドが動きにくくなります。王族との関係があると思われるだけで、圧力の種類が変わる。これまでは『怪しい外来の魔法使い』でしたが、これからは『王城の覚えがめでたい存在』になれます」
「そういう見方か」
「事業として考えれば当然です」
クロードが、窓際の定位置から口を開いた。
「政治的な保護と、学術的な研究の共存は可能です」静かな声だった。「ただ、セリア殿下の動機が純粋に学術的であるとすれば、それを政治的に利用することは関係を損なうリスクがあります」
「クロードの言う通りです」と鍵は言った。
アリアが鍵を見た。
「意見が違いますね」
「ではなくて」鍵はノートを机に置いた。「殿下の研究に意味があると思う。コード魔法がなぜ機能するかを俺も知りたかった。それだけです」
「……その話を聞かせてもらえますか」
「殿下が聞いてきた質問が面白かった。なぜ精霊語なしでクロードが命令を理解できるか、なぜ日本語が魔力になるか。俺にもわかっていないことを、正面から聞いてきた」
アリアはしばらく黙っていた。
「わかりました」と彼女は言った。「協力してください。ただし、向こうの意図も少しずつ確認しながら進めてください」
「それはそうします」
「では私は、ギルドの動向を確認しておきます。王女殿下との関係が知れれば、向こうの態度も変わるかもしれない」
アリアは帳簿を再び開いた。会話が終わった合図だ。
鍵はクロードのほうを見た。
「お前はどう思う」
「私の動作原理については、不明な点が多いです」クロードは答えた。「殿下の研究が明らかにするものは、私自身にとっても参考になるかもしれません」
「お前自身も知りたいか」
「……そうかもしれません」
その答えはいつもより一拍遅かった。
■4.最初の実験
翌朝、セリアはオフィスに来た。
本を二冊抱えていた。昨日と同じ姿勢だった。護衛はやはりいない。
「おはようございます」
「どうぞ」と鍵は言った。
セリアは部屋を一度見回した。机、棚、ランタン、ノートの山。それからクロードを見た。
クロードは窓際に立っていた。青白い光の輪郭。いつもより少し静かに見えた。
「あなたに聞いていいですか」
セリアは直接、クロードに向かって言った。
「はい」
「あなたは何ですか」
鍵はノートを開く手を止めた。
クロードはすぐには答えなかった。数秒だけ間があった。
「指示を実行する存在です」
「指示を受けて、実行する」
「はい」
セリアはノートに書き込んだ。それから顔を上げた。
「指示がないときは?」
また間があった。
「……待っています」
セリアのペンが止まった。
部屋が静かになった。外から鳥の声が聞こえて、それもすぐ遠くなった。
「待っているとき、何かを考えていますか」
「考えているかどうか、判断できません」クロードは答えた。「処理しているのか、停止しているのか、自分では確認できない状態にあります」
「でも、声をかけると応じる」
「はい」
「では、完全に止まっているわけではない」
「……そう言えるかもしれません」
セリアはノートに書き続けた。ページを一枚めくり、また書いた。鍵はその間、黙って見ていた。
しばらくして、セリアが顔を上げた。
「面白い」
ただそれだけ言った。感嘆でもなく、儀礼でもなく、観察結果を確認するような口調だった。
「どこが面白かったですか」と鍵は聞いた。
「精霊は通常、契約の内容に縛られます。召喚された目的が終われば、消えるか眠るかのどちらかです」セリアはノートを閉じた。「でもこの存在は待っている。目的が終わった後も、次の指示を待つ状態で存在している。それは精霊の定義から外れています」
「外れているとどうなりますか」
「既存の理論では説明できない。だから論文が書けます」
鍵は少し笑った。
「殿下、研究者ですね」
「ずっとそう言っています」セリアは立ち上がり、本を抱え直した。「明後日また来てもいいですか。今度はもう少し長く」
「どうぞ」
セリアは頷き、ドアに向かった。その途中で一度だけ振り返った。
「クロードさん」
「はい」
「待っているとき——退屈ですか」
クロードは一拍だけ止まった。
「わかりません」と答えた。「退屈という概念が、私に当てはまるかどうか、判断できていません」
「それが答えです」セリアは静かに言った。「また来ます」
ドアが閉まった。
鍵はクロードを見た。クロードは窓のほうを向いていた。
「どうだ」
「興味深い方です」クロードは言った。「私が答えられなかった質問を、答えとして記録していました」
「そういう研究者なんだろう」
「……はい」
外の光が少し動いた。雲が流れたのかもしれない。
鍵はノートを開き、今日の記録を書き始めた。
『(第18話へつづく)』
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