第14話 データで見えてきたもの
■1.ミナの一言
夜の10時をすぎていた。
執務室には鍵とミナだけが残っていた。
テーブルの上には、羊皮紙の束が三列に積み上がっている。左が軍の物資台帳。真ん中が農村の収穫報告。右が王都商店街の取引記録と税収の控え。どれも先週から少しずつ集めてきたもので、それぞれ別のファイルに丁寧に整理されていた。
ミナは物資台帳に目を落としながら、もう一枚の羊皮紙に数字を書き写していた。細かい作業を厭わない子だと、鍵はこの数週間で理解していた。指示した以上のことを自分で考えてやっている。それが今夜は特に見ていて分かった。
「鍵さん」
顔を上げずに、ミナが言った。
「これって、別々に処理してるじゃないですか」
「そうだけど」
「でも……これって、同じ問題の別の面なんじゃないかと思って」
鍵はペンを止めた。
「どういうこと?」
今度はミナが顔を上げた。いつもどこか自信なさそうな目をしているのに、このときだけは違う顔をしていた。確信している人間の目だった。
「軍の物資も、農村の収穫も、商店街の取引も——全部この王国の中で動いてますよね。別々のお客さんの仕事として扱ってるけど、一枚の地図の上に重ねたら何か見えてくるんじゃないかって。私、数字を写しながらずっとそれが気になってました」
ミナは少し恥ずかしそうに付け加えた。
「でも、私にはそれをやる方法が分からないんですけど」
鍵はしばらく黙った。
『気づいていたのか。』
正直なところ、鍵自身もうっすらと同じことを考えていた。ただ、まだ整理できていなかっただけだ。案件ごとに片づけていくうちに、木を見て森を見ずになっていた。目の前の数字に追われて、全体の絵を描く余裕がなかった。
ミナの一言がその余裕を作ってくれた。
「できるよ」
鍵は立ち上がり、クロードを呼んだ。
■2.夜中の統合作業
「クロード」
「はい」
「今から複数のデータを一つの地図に重ねる。まずデータの種類を整理する。軍の物資台帳は地域別・品目別・月次の数量。農村の収穫報告は集落ごとの作物と収量。商店街の取引記録は品目と価格と時期。税収記録は地域別の月次金額。これを全部、地域という軸で統合してほしい。地域が共通のキーになる」
「了解しました。各データの地域コードを確認してから統合します。少しお時間をください」
作業が始まった。
クロードが羊皮紙の束を一枚ずつ確認していく。どこかで見た光景だと鍵は思った。深夜のオフィスで、自分がスプレッドシートのタブを次々と開いて確認していたときとまったく同じ空気がここにある。場所は異世界の王城で、ランタンの火が揺れているけれど、やっていることの本質は変わらない。
しばらくして、部屋のドアが遠慮がちにノックされた。
「失礼します」
テオだった。木の盆に、黒パンと干し肉、それからスープの入った椀が二つ。湯気が立っていた。
「エドワード様から、夜遅くまで作業しているならと」
「気が利くな、宰相も」
ミナが椀を受け取って、思わず笑顔になった。
「ありがとうございます、テオさん。温かい」
「もし何か必要なものがあれば声をかけてください。私も廊下で控えております」
テオが下がると、二人で黙々と食べた。パンは固かったが、スープは塩気が丁度よくて温かかった。ミナがスープを一口飲んで「おいしい」と小さく言った。その声がどことなく張り詰めた夜の空気を少しだけほぐした。
「鍵さんって、元の世界でもこういう仕事してたんですか」
「似たようなことは。データをつなげて、問題を見つける。ただ規模はもっと小さかったし、相手は工場の稼働ログだった」
「楽しかったですか」
「楽しかったよ。地味だけど」
ミナは少し考えてから言った。
「私、最初は帳簿の写しとかだけやっていればいいと思ってました。鍵さんに言われたことをきちんとこなせればって。でも、数字を見てるうちにだんだん気になってきて。その気になるって感覚が、仕事で初めて出てきたかもしれない」
鍵はスープの椀を置いた。
『それが一番大事なことだ。』
「その感覚、大事にしろよ」
「はい」
クロードが声をかけたのは、日付が変わる少し前だった。
「統合が完了しました。王国全体のデータマップができています。確認しますか」
「見せてくれ」
クロードが大きな羊皮紙を広げると、王国の地図の上に細かい数字と色分けが重なっていた。地域ごとに、物資の流れと農産物の量と税収が一枚の上に並んでいる。
それは、鍵が知っているダッシュボードの羊皮紙版だった。
■3.見えてきたもの
最初に目についたのは、色の偏りだった。
地図の南と西は数字が安定している。だが北と東に目を移すと、何かがちぐはぐだった。物資の流入量と税収の数字がうまく噛み合っていない地域がいくつかある。
「クロード。食糧の備蓄量を全地域で合算してくれ。現在の消費ペースで何ヶ月分になる」
「計算します」
少し間があった。
「王国全体で、約三ヶ月分です」
部屋が静まり返った。
ミナが「え」と声を漏らした。
三ヶ月。それだけしかない。魔王軍との対峙が長引けば、戦わずして食糧が尽きる。物資管理の仕事を始めた当初からずっと「備蓄が少ない」とは感じていたが、全体を合算して数字にしたのは今夜が初めてだった。感覚が数字になった瞬間、その重さが変わった。
「次。東の要塞周辺の補給コストを、他の地域と比べてくれ」
「確認しました。東の要塞周辺への補給コストは、他の地域の平均の約三倍です。輸送距離の長さと中継拠点の不足が主な要因と見られます」
地図を見ると、確かに東の要塞だけが飛び出したように補給線が長い。中継拠点が二か所しかなく、どちらも小さな集落だった。ここで大量の物資を動かそうとすると、それだけコストがかかる。費用がかかるだけでなく、補給が遅れたときの影響も他の地域より大きい。
「もう一つ。農業生産性が特に低い地域はどこか」
「はい。魔法使いの集住地域と一致しています。特に北部の魔法師団が駐留している三地域で、収穫量が周辺の平均を三割以上下回っています」
ミナが地図を覗き込んで言った。
「魔法があるのに、なんで農業が弱いんですか。水も引けるし、土も耕せるはずじゃ」
「たぶん」鍵は言った。「魔法で水を引けるから、用水路の作り方を知らない。魔法で土を耕せるから、手作業の農具を扱えない。技術が蓄積されていないんだ。魔法が使えない季節や、魔力が足りないときに何もできなくなる」
依存の問題だ。便利なツールに頼りすぎて、そのツールがなくなったときの代替手段がない。元の世界でも同じことが起きていた。システムが止まった途端に業務が完全に止まる現場を、鍵は何度も見てきた。
三つの課題が、数字で目の前に並んでいた。
食糧備蓄は三ヶ月分。東の補給コストは三倍。魔法依存地域の農業生産性は三割低い。
「これを宰相に見せなければ」
鍵が言ったとき、ミナがふと手を止めた。
「でも……これを見せたら、怖がりませんか?」
「なんで」
「だって、今まで見えていなかった問題が急にたくさん出てくるんですよ。エドワード様は長年この国を見てきた方で、それがぜんぶ数字になって並んだら……気分がよくないんじゃないかって」
鍵は少し考えた。
ミナの言っていることは分かる。知らなかったことを突きつけられる怖さ。それは現場で何度も見てきた。改善提案を持っていったときに「そんなこと言われても困る」と返ってくる感覚。数字が現実を可視化するほど、見たくない人間には刃に見える。
「怖いのは当然だよ」
鍵は言った。
「見えていなかったものが見えるようになったんだから。でも、それが仕事だ。怖いまま放置して、三ヶ月後に食糧が尽きてから気づくよりはいい。見えたなら、動ける」
ミナはしばらく地図を見ていた。
「そうですね」
小さく、でもはっきりと言った。
■4.エドワードの「頼む」
翌朝、執務室にエドワードを呼んだ。
宰相は几帳面な人物で、いつも背筋が伸びている。几帳面さは仕事の丁寧さからきていて、そのぶん予想外の情報には動じにくい。鍵はそれを経験で知っていたので、資料の見せ方を少し工夫した。数字を羅列するのではなく、地図の上に重ねて、順番に一つずつ説明する。
「食糧備蓄から始めます」
エドワードは最初、表情を変えずに聞いていた。
三ヶ月分という数字を告げたとき、わずかに眉が動いた。
東の要塞の補給コストが他の三倍だという話では、地図を指差す鍵の手元を食い入るように見た。
魔法使いの集住地域で農業生産性が低いという話になったとき、エドワードは一度だけ目を閉じた。
すべての説明が終わった。
鍵は地図を広げたまま待った。ミナも黙って立っていた。
しばらく、沈黙が続いた。
エドワードは地図を見つめたまま、何かを整理しているようだった。五十年近く宰相として王国を見てきた人間が、一枚の地図の前で止まっている。その顔には動揺ではなく、むしろ深い疲れに似たものが浮かんでいた。知っていて言えなかった、言えなかったから変えられなかった——そういう年月の重さが見えた。
「……これは」
エドワードが低く言った。
「どれも分かっていた問題です。ただ、こうして数字で並べて見たことはなかった」
「分かっていたんですか」
「感覚として。ただ、感覚は人に伝えられない。根拠がない。これがあれば伝えられる」
そう言って、地図にゆっくりと手を置いた。
「鍵殿」
宰相がその名を呼ぶとき、いつも少し距離がある。礼儀として敬意を払う、でも内心はまだ様子を見ている——そういう距離感だと鍵は思っていた。
ところが今度は違った。
「……頼む」
それだけだった。
小さく、ほとんど聞き取れないほどの声で、エドワードはそう言った。
鍵は何も言わなかった。
受け取った、という気持ちはあった。ただそれを言葉にする必要はない気がした。長年この国を支えてきた人間が、はじめて「頼む」と言った。その重さを言葉で薄めたくなかった。
「引き続きやります」
鍵は短く答えた。
エドワードが頷いた。
ミナが手元の羊皮紙を抱え直した。これからこの三つの課題を、どう解決するか考えなければならない。食糧備蓄の積み増し、東の要塞の補給ルート見直し、農業地域の技術継承——どれも簡単ではない。でも、地図ができた。今どこにいるか、何が足りないか、数字で見えている。
それは、はじまりだった。
『データは現実を隠さない。見たくなくても、見せてくる。だからこそ、価値がある。』
窓の外で、王都の朝が動き始めていた。
『(第15話へつづく)』
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