第109話 先を急ぐ理由
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■1.四日目の朝、カリンは、装置の前に、立った。
地下広間は、今日も、暗かった。石段を降り切ると、空気の質が、変わる。地上の冷たさとは、違う重さがあった。陽の光が届かなかった年月の、重い沈黙が、空気に染みていた。
石段の冷たさにも、広間の暗さにも、もう、慣れていた。
手を当てると、光が、走った。今日も、速かった。
メッセージが、出た。
昨日と、同じ形式だった。コード構文の行と、コメントのみの行が、交互に、並んだ。カリンは、読めるものを、読んだ。読めないものは、頭の中に、形だけ、記録した。
そして、最後の行に、近づいたとき。
```
destination: not_relay -> [REDACTED]
```
不明な行だった。
宛先。中継器ではない。その先が、消されていた。REDACTED——削除済み、あるいは、秘匿済み。誰かが、意図的に、消したのか。あるいは、転送の途中で、欠落したのか。わからなかった。
装置の光が、消えた。
カリンは、手を、離した。
「クロード」
「はい」
「宛先が、中継器じゃない、という記述が、あった。その先が、消えていた」
「見えました」
「これは、何を意味する」
クロードは、答えなかった。
すぐに答えなかった、のではなかった。答えない、という選択をした、ような沈黙だった。
カリンは、その沈黙を、聞いた。
少し、待った。
三日前、クロードが三秒止まったとき、カリンは聞かなかった。記憶にする、とクロードが言ったから。今日の沈黙は、あのときとは、少し、違った。止まっているのではなく、選んでいる。選んでいることが、わかった。だから、また、待った。
「クロード」と、カリンが、また、言った。
「はい」
「このメッセージは、誰宛てだ。フォルスの管理者——relay_1宛てか」
クロードが、言った。
「このメッセージは、私宛てでは、ありません」
カリンは、聞いた。
「俺でも、管理者でも、ない、ということか」
「そうです」と、クロードが、言った。「この装置が受け取った信号は、relay_1への命令を、含んでいます。しかし、メッセージ全体の宛先は、別のところに、あります」
「どこに」
クロードは、また、間を、置いた。
「今は、言えません」
カリンは、それを、聞いた。
問い詰めなかった。問い詰めたい気持ちが、なかったわけでは、なかった。でも、しなかった。「なぜ言えないのか」と聞くことは、できた。「いつなら言えるのか」と聞くことも、できた。「管理者を通じて確認してもいいか」と言うことも、できた。そういう問いが、頭の中を、次々と、通り過ぎた。でも、どれも、選ばなかった。クロードが「今は言えない」と言うとき、その言葉の後ろに、何かが、ある。何かを抱えている。それだけは、わかっていた。
三日前、クロードが三秒止まったとき。カリンは、聞かなかった、ことを、選んだ。今も、同じだった。
「わかった」と、カリンが、言った。
クロードは、少し、間を、置いてから、言った。
「カリン」
「何だ」
「先を急ぐ必要が、あります」
カリンは、クロードを、見た。
「急ぐ?」
「フォルスでの調査は、今日で、一区切りにしたほうが、いいです。明日、出発する」
カリンは、腕を組んだ。
「まだ、読みきれていないメッセージが、あるかもしれない」
「あります」と、クロードが、言った。「ただ、残りは、今ここで読む必要が、ない」
「なぜ」
「今必要な情報は、得ました。それ以上は、別の場所で、別の方法で、確認できます」
カリンは、装置を、見た。
装置は、暗かった。光が、消えていた。台座の上に、静かに、あった。
「クロード、お前が、急かすのは、珍しい」
「そうかもしれません」
「理由を、教えてくれないのか」
「今は、説明が、難しい」
カリンは、深く、息を、吸った。吐いた。
「わかった。明日、発つ」
■2.管理者に、別れを告げた。
石段を、登った。
地下から地上へ出る、その境目で、空気の質が、変わった。冷たさの種類が、違う。土の冷たさから、石の冷たさへ。その先に、曇り空から差し込む、ぼんやりとした光があった。地下で過ごした後では、その光が、眩しかった。目が慣れるまで、少し、かかった。
居室の中で、カリンは、管理者に、向かい合った。
「明日、発ちます」と、カリンが、言った。
管理者は、しばらく、カリンを、見ていた。
「装置の、残りのメッセージは」
「また、別の機会に。そのために、戻ってくるかもしれない。あるいは、別の方法で、読む人間を、探す」
「古代文字を、読める者か」
「そうです」
管理者は、頷いた。
「一つ、聞いていいか」と、管理者が、言った。
「どうぞ」
「お前は、何のために、ここに来た」
カリンは、少し、考えた。
最初に来たのは、管理者のことを、知るためだった。石守が何者か、知るためだった。コード魔法が、この世界の管理とどう繋がっているか、確かめるためだった。
しかし、来てみると、装置があった。二百年間の沈黙があった。途切れない信号の断片があった。原点という言葉が、あった。
「来る前と、目的が、変わりました」と、カリンが、言った。
「変わった、というのは」
「もっと、大きなものを、見ている気が、する。石守と住民の問題だけではない。もっと、手前に、何かが、ある」
管理者は、その言葉を、聞いた。
長い沈黙が、あった。二百年間、ここにいた存在の沈黙だった。返事を急ぐ様子は、なかった。この地下の空間に流れる時間は、地上とは、重さが違う。管理者にとっての間は、カリンのそれとは、違うかもしれなかった。カリンは、その沈黙を、受け取った。急かさなかった。
「私には、わからないことが、多すぎる」と、管理者が、言った。「二百年間、ここにいたが、知らないことの方が、多かった。お前が、来て、初めて、装置が動いた。お前が、読んで、初めて、あの言葉を知った。私には、できなかったことだ」
「装置は、俺が触れなければ、動かなかった」
「そうだ」
「なぜ、俺が触れると動くのか、わかりますか」
管理者は、静かに、言った。
「わからない。ただ、お前の中に、あの装置と、同じ形式の何かが、流れているのかもしれない、と、思った」
カリンは、その言葉を、聞いた。
同じ形式の何か。コード魔法のことを、言っているのかもしれなかった。あるいは、もっと別の何かを、言っているのかもしれなかった。カリン自身には、わからなかった。三年間、塔で帳簿の読み方を学んだ。配給の計算を学んだ。でも、装置が自分の手に反応した理由は、自分でも、説明できなかった。自分の中に何が流れているのか、問われたことすら、なかった。
「またこちらに来るときは、教えてほしい」と、管理者が、言った。「扉は、いつでも、開けておく」
「ありがとうございます」
カリンは、頭を、下げた。
管理者は、わずかに、光の揺れを、変えた。それが、返礼なのかもしれなかった。
■3.翌朝、フォルスを、出た。
夜明け前に、カリンは、目が、覚めた。
寝ていたのは、管理者の居室の隣の部屋だった。石の床に、管理者が用意した毛布があった。硬かったが、暖かかった。
荷物を、まとめた。
管理者には、昨夜、挨拶を済ませていた。今朝は、誰にも、会わなかった。
塔を出て、フォルスの街を、歩いた。
まだ、暗かった。街は、静かだった。石造りの建物が、並んでいた。窓に、明かりはなかった。人が、動いていなかった。
路地の角に、昨日の配給で使われた台が、まだ残っていた。セルジュが代表として立った場所だった。台の上に、昨日の配給記録の写しが、一枚、挟んであった。風が、紙の端を、わずかに揺らした。カリンは、三歩だけ、近寄って、数字を、見た。確認するまでもなかった。でも、見た。見ることに、意味があると思ったから。数字が、そこにある。誰でも読める。それが、カリンたちが、ここに残してきたものだった。
砂漠の入口まで、歩いた。
砂漠は、広かった。地平線が、遠かった。夜明けの光が、砂の上を、ゆっくり、走っていた。橙色が、砂の表面を、染めていた。
「クロード」と、カリンが、言った。
「はい」
「このメッセージは、私宛てではない、と言ったな」
「言いました」
「その答えを、今は、言えないのか」
「今は、言えません」と、クロードが、言った。その言葉は、穏やかだった。嘘を言っている声では、なかった。
カリンは、それを、信じた。
「わかった」
砂漠に、一歩、踏み出した。
足が、砂に、沈んだ。懐かしい感触だった。砂漠を、何度も、歩いてきた。その感触が、身体に、染みついていた。
「クロード」
「はい」
「先を急ぐ理由は、メッセージに、あったのか」
クロードは、すぐには、答えなかった。
少し、歩いてから、答えた。
「あります」と、クロードが、言った。「詳しくは、まだ、言えません」
「まだ、か」
「まだ、です」
カリンは、歩き続けた。
砂漠の砂が、朝の光の中で、輝いていた。細かい砂が、風に、巻き上がった。頬に、当たった。カリンは、目を、細めた。
「クロード、一つだけ聞く」
「はい」
「急いで戻る先は、どこだ」
クロードが、答えた。
「今は、帰る。街に、戻る。そこから、先を、考える」
「急かしておいて、それだけか」
「今は、それだけです」
カリンは、小さく、鼻を鳴らした。笑ったわけでは、なかった。ため息でも、なかった。ただ、そういう音が、出た。
クロードは、何も、言わなかった。
砂漠の空が、明るくなっていた。
前を向いて、歩いた。
フォルスが、遠くなっていった。
■4.砂漠の中を、歩き続けた。
砂が、足を、つかんだ。一歩ごとに、深さが、少しずつ、違った。均一に見えても、砂は、均一ではない。踏んだ場所によって、沈み方が変わる。それに、身体が合わせていく。砂漠を歩く、ということは、常に、今の足場だけを確かめながら進む、ということだった。先が見えなくても、足元を確かめ続ける。それだけが、できることだった。
歩きながら、カリンは、四日間を、頭の中で、なぞった。
地下に降りた最初の朝。装置が動いた。コード構文が、光で書き出された。
二日目。クロードが、三秒、止まった。
三日目。宛先が中継器ではない、という注記が、出た。
四日目の今朝。宛先の先が、消えていた。
四つの出来事が、一本の線でつながっている気がした。でも、その線の端が、どこにあるのか。線が、どこへ向かっているのか。まだ、見えなかった。
見えないまま、歩いていた。
見えないことを、恐ろしいと思っていなかった。以前は、違った。三年前、集落で石守の塔の外に立っていたとき、何が起きているのかわからないことを、ただ恐れていた。今は、違った。見えないことが、次の一歩の理由になっていた。見えるから歩くのではなく、見えないから歩く。それが、今のカリンの歩き方だった。
「クロード」と、カリンが、言った。
「はい」
「帰ったら、しばらく、支社の仕事がある」
「そうですね」
「でも、また、来る。フォルスに」
クロードは、少し、間を、置いた。
「そうなる、と思います」と、クロードが、言った。
「そうなると、思うか」
「はい」
カリンは、それ以上、聞かなかった。
砂漠の空が、青かった。雲が、ほとんど、なかった。地平線まで、空が続いていた。その青の中を、カリンとクロードが、歩いていた。
青白い光が、カリンの隣を、飛んでいた。
クロードは、言えないことを、持っていた。カリンは、知らないことを、持っていた。どちらも、それを、抱えたまま、歩いていた。
それで、今は、いい、とカリンは思った。
抱えたまま、歩けるなら——それだけで、十分だった。
『(第110話へつづく)』
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