第110話 砂漠を越えて帰る
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■1.砂漠は、午後、一番、きつかった。
日が、真上に、来る。
影が、消える。足元の砂が、蓄えた熱を、ゆっくりと、放出し始める。靴底から、熱が、伝わってくる。熱が、足に、のぼってくる。腕も、顔も、じりじりと、焼かれる。
カリンは、布を、頭に、巻きつけて、歩いた。
クロードは、カリンの肩口のそばに、いた。青白い、光だった。砂漠の強い光の中では、昼間、見えにくくなった。でも、いた。カリンには、わかった。気配で、わかった。
「水は」と、クロードが、言った。
「まだある」
「どのくらい」
「夕方まで、もつ」
カリンは、足を、止めなかった。
砂漠に入るとき、フォルスの市場で、水を補充していた。革袋二つ分。砂漠を渡るには、十分なはずだった。以前も、これくらいで、越えた。
しかし、今日は、熱が、強かった。
「ペースを、落とす」と、クロードが、言った。
「わかってる」
カリンは、少し、歩幅を、縮めた。急いでも、体力が先に尽きれば、意味がなかった。砂漠では、速さより、持続が、大事だった。
地平線が、揺れた。陽炎だった。遠くに、何かが、あるように、見えた。何も、ないのに、形が、見えた。砂漠の光の、魔法だった。
カリンは、その揺れる地平線を、見ながら、思った。
フォルスで、見たものを。
装置が、光った場面を。
クロードが、三秒、止まった場面を。
そして、「このメッセージは、私宛てではない」という言葉を。
それぞれの場面が、砂漠の陽炎のように、揺れながら、浮かんでいた。地平線の向こうで形になりかけて、消える。また、浮かぶ。砂漠の中を歩いていると、考えが、形を作りやすかった。遮るものがないから、思考が、どこまでも、広がっていく。
■2.陽が、傾き始めた。
熱が、少し、和らいだ。空気の底が、変わり始めた。砂の表面の色が、橙から、赤みがかった橙に、変わっていった。
カリンは、砂の上に、座った。
休憩だった。砂漠を歩くとき、一時間に一度は、座る。それが、カリンの、決まりだった。以前、鍵に教わった、習慣だった。
水を、一口、飲んだ。
冷たくはなかった。革袋の中で、温まっていた。それでも、喉に、沁みた。
クロードが、カリンの前に、浮いていた。
「疲れたか」と、クロードが、聞いた。
「疲れた」と、カリンが、正直に、言った。
「少し、長く休む」
「いや、十分で、また、動く」
クロードは、それ以上、言わなかった。
カリンは、空を、見た。砂漠の空は、広かった。雲が、ほとんど、なかった。どこまでも、青が、続いていた。その青の端が、今、少しずつ、赤みを帯びていた。
「クロード」
「はい」
「お前は、嘘を、ついたことが、あるか」
クロードは、少し、間を、置いた。
「嘘、というものを、どう定義するか、によります」
「俺が言うのは、知っていることを、知らないと言う、ということだ」
「それは、ない、と思います」
「思います、か」
「私の答えが、常に正確かどうか、私自身には、完全に、確認できません。しかし、意図的に、偽ることは、していない、と思います」
カリンは、その言葉を、聞いた。
意図的に偽ることは、していない。それは、確かだろう、と思った。
でも。
「知っていることを、言わない、ということは、あるか」と、カリンが、聞いた。
クロードは、すぐには、答えなかった。
カリンも、急がなかった。
砂の上に、手を、置いた。砂は、細かかった。指の間から、さらさらと、流れた。
「あります」と、クロードが、言った。
「そうか」
「今も、そうです」
カリンは、返事を、しなかった。
砂の上に、手を、置いた。砂は、細かかった。指の間から、さらさらと、流れた。一粒一粒が、小さかった。一粒だけ取り出して、見ることは、できなかった。でも、集まれば、砂漠に、なった。
「それを、俺は、怒るべきか」と、カリンが、言った。
「私には、わかりません」
「怒らない」と、カリンが、言った。
「なぜ」
「理由は、ない。ただ、怒らない。怒っても、何も変わらない」
クロードは、何も、言わなかった。
カリンは、立ち上がった。
砂が、服から、落ちた。また、歩き始めた。
足が、止まっていた十分間を、体が、忘れていなかった。歩き始めると、すぐに、リズムが戻ってきた。一歩。また一歩。砂漠を歩く感覚は、体が、覚えていた。
十分が、経っていた。
■3.夕暮れが、砂漠を、染めた。
赤。橙。紫。
砂の色が、次々と、変わった。一つ一つの砂粒が、光を、受け取って、色を変えた。それが、砂漠全体で、起きていた。
カリンは、その中を、歩いた。
靴音が、砂に、吸われた。足跡が、後ろに、続いた。振り返れば、自分が歩いてきた跡が、見えた。どこから来たか、わかった。しかし、すぐに、風が、砂を、運んできて、跡を、消した。
跡は、消えた。でも、歩いてきた、ということは、消えない。
カリンは、そういうことを、砂漠を歩くたびに、思った。
クロードは、嘘をついていない。でも、答えていないことが、ある。
それは、フォルスを出たときから、カリンの胸の中に、あった。消えなかった。消えることが、なかった。
「このメッセージは、私宛てではない」
クロードが、そう言った。
宛先は、フォルスの管理者だった。relay_1だった。しかし、クロードは「私宛てではない」と言った。つまり、クロードは、メッセージの宛先を知っている。宛先が自分ではないことを知っている。それを、断言した。
自分が宛先でないことを知るためには、本来の宛先を知っていなければならない。
あるいは、自分のアドレスが何番かを、知っていなければならない。
カリンは、そこで、考えを、止めた。
結論を、出さなかった。
出すことが、怖いわけでは、なかった。ただ、今は、出す必要が、ない、と思った。クロードは、言えない、と言った。まだ、と言った。「まだ」ということは、いつか、言える、ということだった。
待つことに、した。
待てる、ということは——答えが出なくても、動けるということだった。フォルスで学んだことの一つが、それだった。答えが全部揃ってから動くのではなく、わかることから、動き始める。動きながら、わかることが、増える。
今、わかっていることが、ある。
クロードは、嘘をつかない。でも、言わないことが、ある。
管理者への信号は、管理者宛てではなかった。
フォルスの地下に、二百年間、信号が届き続けていた。
カリンは、それを、砂漠の中で、一つずつ、並べた。余分なことを、考えない。確かめたことだけを、手元に置いておく。それが、長い道を歩くときの、やり方だった。
カリンは、それを、待つことに、した。
■4.星が、出た。
砂漠の夜は、空が、広かった。
星が、多かった。数えることが、できないほど、多かった。地平線まで、星が、広がっていた。砂漠の空は、それを、余すことなく、見せてくれた。遮るものが、なかった。
カリンは、砂の上に、横になった。
砂は、まだ、昼の熱を、わずかに、持っていた。背中が、暖かかった。
「星が、多い」と、カリンが、言った。
「そうですね」と、クロードが、言った。
クロードの光が、カリンの上に、浮いていた。星明かりの中で、青白い光が、細く、揺れていた。
「フォルスでの調査、ご苦労様でした」と、クロードが、言った。
カリンは、少し、驚いた。クロードが、そういうことを言うのは、珍しかった。
「お前に言われると、なんか、変な感じがする」
「そうですか」
「でも、ありがとう」
「いいえ」
しばらく、沈黙が、あった。
砂漠の夜は、音が、少なかった。風が、時々、砂を、動かした。それだけだった。それ以外は、静かだった。
「クロード」
「はい」
「次は、何が、待っている」
「具体的には、まだ、わかりません」
「でも、何かが、待っている」
「そう、思います」と、クロードが、言った。「この旅で、わかったことが、あります。それが、次のことに、繋がります」
「装置のことか」
「それも、含めて」
カリンは、星を、見ていた。
装置のことを、思った。二百年間、待ち続けた受信端末を。管理者のことを、思った。眠れずに、待ち続けた存在を。断片しか届かなかった信号を。
コメントが、読めなかったことを、思った。
あの古代文字を、読める人間が、どこかに、いるはずだった。それを見つけることが、次の一歩に、なるかもしれなかった。
あるいは、クロードが言えないでいることが、何か、別の一歩を、示しているかもしれなかった。
どちらか、まだ、わからなかった。
「クロード、一つだけ」と、カリンが、言った。
「はい」
「フォルスから急いで出た理由は、危険があったからか」
クロードは、少し、間を、置いた。
「危険というより、機が、熟した、と思ったからです」
「機が熟した?」
「ここで得られるものは、得ました。次の場所で、確認すべきことが、あります。急ぐ必要が、あった」
「次の場所とは」
「街に、戻れば、見えてくる、と思います」
カリンは、それを、聞いた。
答えを、求めなかった。
今は、それで、よかった。
星が、流れた。一筋の光が、空を、横切って、消えた。
カリンは、それを、見た。
流れ星は、早かった。あっという間だった。でも、見えた。確かに、見えた。
「お前は、星を、見るか」と、カリンが、聞いた。
「見えます」と、クロードが、言った。「ただ、私が見ているものが、あなたが見ているものと、同じかどうかは、わかりません」
「同じじゃなくても、いい」
「そうですか」
「見えているなら、それで、十分だ」
クロードは、何も、言わなかった。
砂漠の夜が、静かに、続いた。
夜は、まだ、長かった。
カリンは、目を、閉じた。
眠れるかどうか、わからなかった。砂漠での野宿は、何度も、したことがあった。今夜も、できるだろう、と思った。
管理者のことを、また、思った。
二百年間、眠れなかった存在が、いた。途切れない信号の気配が、あったから、眠れなかった。待つことを、やめられなかった。
カリンが触れたとき、装置が動いた。
それが、何かの、始まりだったとしたら。
あるいは、終わりの、始まりだったとしたら。
考えが、まとまらないうちに、眠気が、来た。
砂の暖かさが、背中に、残っていた。
クロードの光が、そばに、あった。
それが、わかったまま、カリンは、眠った。
砂漠の星が、頭上で、静かに、光り続けた。
遠く、砂漠の先に、街があった。
カリンが向かう場所が、あった。
その先に、何かが、待っていた。
クロードだけが、それを、今は、知っていた。
青白い光が、眠るカリンのそばで、静かに、揺れていた。
揺れるだけで、何も、言わなかった。
それで、よかった。
今夜は、それで、よかった。
『(第111話へつづく)』
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