第108話 クロードが止まる
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■1.三日目の朝、カリンは、また、石段を、降りた。
二百段を、体が、覚えていた。
手で壁を確かめなくても、足が、段を、知っていた。昨日より、速かった。
広間に、着いた。
装置が、あった。暗い中央に、台座の上に、静かに、あった。石の床に、砂が、薄く積もっていた。誰も通らない場所の、時間の積み重ねだった。その中に、装置だけが、ある。二百年間、ここにあった。それが、また今日も、ここにある。
カリンは、迷わず、手を当てた。
光が、走った。
今日は、最初から、速かった。昨日の続きを、再生するように、光の線が、走った。しかし、昨日のメッセージとは、違った。新しい行が、出た。
```
// ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
```
コメントのみの行だった。読めなかった。
次の行が、出た。
```
signal(origin) -> relay_chain -> node_final;
// ●●●●●●●
```
信号が、原点から、中継連鎖を通って、最終ノードへ、流れる。その経路の記述だった。
```
error_log(node="unknown", timestamp="cycle_0");
// ●●●●●●●●●●
```
エラーログ。ノード——不明。タイムスタンプ——サイクルゼロ。
サイクルゼロ。一番最初。何かが、最初から、エラーを起こしていた。
次の行が、出た。
```
// ●●●●●●●●●●●●●●●●
origin_note: "this is not a relay address"
```
カリンは、その行を、読んだ。
コメント部分は、読めなかった。しかし、その下に、英字のような文字列が、あった。コメントではなかった。構文に似ていたが、しかし、普通の構文とも、違った。注記のようなものだった。
読んだ。
「これは、中継器のアドレスではない」
カリンは、もう一度、読んだ。
「これは、中継器のアドレスでは、ない」
どれを指しているのか。何が、中継器のアドレスではないのか。
次の行が、出ようとした。
カリンは、その前に、クロードを、見た。
クロードは、光が、止まっていた。
■2.
三つ、数えた。
カリンは、意識せずに、数えていた。後から、気づいた。ひとつ。ふたつ。みっつ。
クロードの光が、止まっていた。
揺れない。動かない。ただ、あった。青白い、光の点が、空中に、あった。それだけだった。
カリンは、何も、言わなかった。
呼びかけることを、考えた。「クロード」と言えば、応答するかもしれなかった。でも、呼ばなかった。止まっている間に、何かが、起きているとしたら——呼んで、それを、中断させることが、正しいとは、思えなかった。だから、待った。
装置の光も、その間、止まっていた。次の行が、出なかった。
みっつ。
光が、動いた。
クロードの光が、また、揺れ始めた。ゆっくり、ゆっくり、元の動きに、戻った。
沈黙が、あった。
「今、何秒止まりましたか」
クロードが、言った。
自分で聞いた。カリンにではなく、自分で。自己計測するように。
カリンは、答えた。
「三つ、数えた」
「三秒、ですね」
「たぶん」
また、沈黙が、あった。
装置の光が、ゆっくり、再び、動き始めた。次の行が、出た。しかし、カリンは、そちらを、見なかった。
クロードを、見ていた。
クロードの光は、元に戻っていた。揺れていた。いつもと、変わらない揺れ方だった。
カリンは、一つだけ、聞いた。
「今のは、記録するか。記憶にするか」
クロードが、少し、間を、置いた。
「記憶に」
「そうか」
カリンは、それだけ、言った。
それ以上は、聞かなかった。
装置が、次の行を、出していた。カリンは、手を当てたまま、その行を、読んだ。しかし、今日は、もう、頭に入ってこなかった。文字の形は、見えた。でも、意味が、上滑りした。
しばらくして、装置の光が、消えた。
カリンは、手を、離した。
■3.広間を、出た。
石段を、登った。
管理者の居室に、戻った。管理者は、いなかった。外に出ているようだった。椅子が、あった。カリンは、そこに、座った。
クロードが、カリンのそばに、浮いていた。
しばらく、何も、言わなかった。
カリンは、窓の外を、見た。フォルスの空は、今日も、曇っていた。雲が、低く、重かった。光が、鈍かった。それが、この集落の普通の空だった。
「クロード」
「はい」
「疲れたか」
クロードは、少し、間を、置いた。
「疲れる、という概念が、私に当てはまるか、わかりません」
「そうか」
カリンは、それだけ、言った。
窓の外で、風が、音を立てた。砂の音だった。砂が、石の壁に当たる、細かい音。
カリンは、三秒のことを、聞かなかった、と思った。
聞けば、答えたかもしれなかった。答えなかったかもしれなかった。どちらでも、なかったかもしれなかった。
でも、聞かなかった。
記憶にする、とクロードが、言った。だから、カリンは、聞かなかった、ことを、選んだ。
選んだ、という言葉が、正しいかどうか、わからなかった。でも、そうした。
そのことが、なぜか、カリンの胸の、どこかに、引っかかった。ちょうど、細い棘が、布に刺さるように。痛くはなかった。でも、そこに、あった。
管理者が、戻ってきた。
「メッセージは、出たか」と、管理者が、聞いた。
「出た」と、カリンが、言った。「コメント部分は、また、読めなかった。ただ——一行、気になる記述が、あった」
「何だ」
「『これは、中継器のアドレスではない』という注記が、あった」
管理者は、その言葉を、聞いた。
長い沈黙が、あった。管理者が、二百年間、この場所で積み重ねてきた沈黙の、一つ分だった。
「何を指した注記か」
「わからない。注記の直前の行が、コメントのみだったから、何に対する注記かが、わからなかった」
管理者は、しばらく、考えるように、黙った。
「もしかすると」と、管理者が、言った。「それは、私に対する注記では、ないかもしれない」
カリンは、管理者を、見た。
「どういうことだ」
「私は、relay_1だと、思っていた。宛先の一つが、relay_1だったから。しかし、もし、そうではないとしたら」
「別の宛先に、届いている、ということか」
「あるいは、届いていないが、記録されている、ということか」
カリンは、腕を組んだ。
答えが、出なかった。
答えは、まだ、地下に、あった。次に降りれば、また、何かが、出るかもしれなかった。あるいは、出ないかもしれなかった。
でも、降りることは、決まっていた。降りなければ、何もわからない。二百年間、装置が待っていた。カリンが触れたとき、初めて、行が出た。その事実は、変わらなかった。カリンが触れれば、次の行が出る。それだけを、信じて、降りる。
「明日も、降りる」と、カリンが、言った。
管理者は、頷いた。
クロードは、何も、言わなかった。
カリンは、クロードを、見なかった。見なかったが、そこに、いることは、わかっていた。青白い光が、いつもと同じように、カリンのそばに、あった。
それで、十分だった、と思った。
なぜ十分なのか、理由は、うまく言えなかった。でも、そうだった。
窓の外の風が、また、砂の音を立てた。
■4.夜、カリンは、居室の隣の部屋で、毛布に、くるまった。
石の床は、冷たかった。毛布は、硬かったが、体温を、逃がさなかった。
眠れなかった。
天井を、見た。暗かった。何も、見えなかった。ただ、部屋の隅に、青白い光が、ひとつ、あった。クロードだった。いつもと同じように、小さく、揺れていた。
カリンは、その光を、見ないように、した。見ると、数えてしまう気がした。ひとつ。ふたつ。みっつ。昼間、数えたように。
『三秒』
昼間は、何でもない、と思おうとした。でも、夜になると、違った。三秒は、長かった。
管理者は、二百年、止まらなかった。一度も、眠らなかった。それを、カリンは、ずっと、恐ろしいと、思ってきた。止まらないことが、恐ろしいのだと。
でも、今日、クロードは、止まった。
止まらないことと、止まること。どちらが、恐ろしいのか、わからなくなっていた。止まらない、ということは、何かを待ち続けている、ということだ。止まる、ということは、何かが起きている、ということだ。どちらにしても、カリンには、中で何が起きているのか、わからない。わからないまま、隣にいる。それが、カリンの、今の状態だった。
「クロード」
小さな声で、呼んだ。
「はい」
すぐに、返事があった。いつもと同じ、声だった。
「起きているのか」
「私は、眠りません」
「そうか」
カリンは、天井を、見たまま、言った。
「明日も、降りる。おまえも、来るか」
少し、間が、あった。昼間の、三秒より、短かった。でも、カリンには、長く、感じた。
「行きます」
「無理は、するな」
言ってから、カリンは、その言葉が、おかしいと、思った。精霊に、無理をするな、と言う。無理という言葉が、クロードに、当てはまるのか、わからなかった。疲れる、という概念が、当てはまるのか、わからないと、クロード自身が、言ったのだ。
でも、言った。言ってしまった。
「……はい」
クロードが、答えた。答えるまでに、また、少し、間があった。
カリンは、毛布を、顎まで、引き上げた。
記憶にする、とクロードは、言った。記録ではなく、記憶に。記録は、誰でも、読める。記憶は、本人しか、持てない。クロードが三秒を、自分だけのものにした。クロードは、三秒を、自分だけの、ものにした。だから、カリンは、聞かなかった。
聞かなかったことが、正しかったのか、まだ、わからなかった。
聞けば、何かが、わかったかもしれなかった。聞かなければ、何も、わからない。それでも、聞かないことを、選んだ。相手が、自分だけのものにしたものを、こじ開けないこと。それが、今日、カリンにできる、ただ一つの、ことだった。
『俺は、クロードのことを、何も、知らない』
そう思った。三年、塔で学んだ。帳簿の読み方を、配給の計算を、学んだ。でも、隣で光っているものが、何なのか、知らなかった。止まったとき、中で、何が起きているのか、知らなかった。止まったまま、戻らなくなることが、あるのかどうかも、知らなかった。
知らないのに、頼っていた。
その事実が、胸に、重かった。棘は、まだ、そこに、あった。昼間より、少し、深く、刺さっていた。
窓の外で、風が、砂の音を、立てた。
青白い光が、部屋の隅で、揺れていた。カリンは、目を、閉じた。閉じても、光が、そこにあることは、わかった。
明日も、降りる。
それだけを、決めて、カリンは、眠りに、落ちた。
『(第109話へつづく)』
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