生きるか死ぬか
巨体が一歩、前に出る。
それだけで地面が沈み、空気が押し潰される。森の音が消え、世界が一瞬だけ静まり返ったように感じられた。
逃げ場はない。
そう理解した瞬間、ユイルは無意識に剣を握り直していた。
震えが止まらない。
それでも、分かる。
背を向けた瞬間、終わる。
中型モンスターが、もう一歩踏み出す。
その瞬間、思考が切り替わった。
生きるために、戦うしかない。
巨体が一歩、前に出た。その動きは遅く見えるのに、踏み込んだ瞬間、地面が鈍く沈み込み、足元から土が押し出される。周囲の空気が重く歪み、ただ近づかれているだけなのに、逃げ場が削られていくような圧があった。
次の瞬間、前脚が振り下ろされる。
空気を叩き潰すような一撃に、ユイルは反射的に身を投げ出した。直後、さっきまで立っていた場所が抉れ、土と木片が弾け飛ぶ。受けていたら終わっていたと、遅れて理解が追いつく。
間を置かず、もう一撃。振り上げた前脚が、そのまま横へ薙がれる。逃げた先を潰すための動きだった。ユイルが体勢を立て直すより先に、ミレアが踏み込んでいる。
逃げない。真正面から刃を当て、叩きつけられる力を斜めに受け流す。衝撃が腕を貫き、骨が軋む感覚が走るが、それでも刃は逸らしきる。巨体の軌道がわずかに外れた、その一瞬を逃さない。
「ユイル!」
叫びと同時に、ミレアの刃が弾いた流れが生まれる。その僅かな空白へ、ユイルは迷わず踏み込んだ。狙いは前脚の関節。踏み込みに合わせて力が集まる、その一点へ刃を滑り込ませる。
浅い。だが確実に効いている。巨体の動きが鈍り、重心がわずかに崩れる。完全に止めるには足りないが、次につなげるには十分だった。
「もう一回!」
ミレアはすでに動いている。同じ箇所へ、躊躇なく刃を叩き込む。衝撃が重なり、巨体が沈み込む。しかし倒れない。むしろ止まったことで、次の一撃に向けた“溜め”が生まれてしまう。
嫌な静止だった。
空気が一瞬だけ固まり、次に来るものが分かってしまう。
「離れて!」
ユイルが叫ぶと同時に、横薙ぎが放たれる。直撃はしていない。それでも風圧だけで体が弾かれ、ミレアの体が地面を転がった。視界が揺れ、息が一瞬止まる。
ユイルは踏みとどまったが、完全には流しきれていない。わずかな遅れ。その一瞬の差を、巨体は逃さない。踏み込みが迫る。
間に合わない――そう思った瞬間、ユイルの体はすでに動いていた。
振り下ろしが来る。
受ければ砕ける。
だから、ずらす。
踏み込みの瞬間に生まれる力の流れを読み、その軌道に刃を添える。完全に受け止めるのではなく、ほんのわずかに方向を変える。それだけでいい。
逸れた。
巨体の腕がミレアの横をかすめ、地面を叩き潰す。
ユイルは息を整えきれないまま、倒れているミレアの腕を掴んで引き上げた。
そのまま動きを止めず、腰と背に腕を差し入れ、一息で抱え上げる。
地面が離れる。
ミレアの体は、自然とユイルの腕の中に収まっていた。
視線が一瞬だけ揺れる。
「ありがと……助かった」
ユイルは答えず、そのまま地面を蹴る。
巨体から距離を引き離すように、全速力で後方へ走る。
下がってようやく足を止めると、ミレアを静かに降ろした。
ミレアは小さく息を吐き、自分の足で立つ。
それでも一瞬だけ、ユイルの腕に体重を預けていた。
「もう動ける、大丈夫だよ」
今度は、はっきりとした言葉だった。
ユイルはわずかに目を細める。
安心したように、ほんの少しだけ力を抜く。
「絶対生き残るんだ。こんなところで死ねないし、ミレアも死なせない」
ミレアは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせて、それから小さく笑った。
「なにそれ、頼もしいじゃん」
ユイルとミレアは同時に地面を蹴った。
ユイルは正面から間合いを詰め、ミレアはわずかに外側へ位置をずらしながら、挟み込む形を取る。打ち合わせなどしていないのに、動きは自然と噛み合っていた。
中型モンスターは迷わずユイルへ踏み込む。
前脚が振り上がり、空気ごと叩き潰すような軌道で落ちてくる。距離もタイミングも、さっきまでより明らかに鋭い。
ユイルは逃げずに一歩踏み込んだ。
振り下ろしに合わせ、剣を斜めに当てて力を外へ流そうとする。真正面で受ければ折れると分かっているからこその選択だった。
だが、衝撃が想定を上回る。
刃は軌道をわずかに逸らしたものの、勢いまでは殺しきれない。押し込まれた反動で足が滑り、体勢が遅れる。
その一瞬を、中型モンスターは見逃さなかった。
踏み込みが続き、間髪入れずに次の一撃が振り下ろされる。逃げ場を潰すような連撃だった。
ミレアはその前に出る。
正面から剣を叩きつけ、衝撃の向きを変えるように刃を滑らせた。完全に止めるのではなく、逸らすことだけに集中している。
衝撃が腕を打ち抜く。
握力が一瞬緩み、体が弾かれる。そのまま後方へ転がり、肩を強く打ちつけた。
息が詰まる。
だがミレアはすぐに体を起こし、膝をついたまま剣を握り直した。完全に崩れてはいない。
その隙に、ユイルが踏み込む。
狙いは変えない。前脚の関節、さっき傷を入れた場所だけを見ている。
踏み込みと同時に刃を差し入れる。
今度は角度を変え、滑り込ませるように入れる。硬い皮膚の隙間を縫うように、奥へ。
確かな手応えが返る。
肉を裂き、関節の内側に届いた感触だった。巨体の動きが目に見えて鈍る。
「ミレア、重ねて!」
声が届く前に、ミレアは動いていた。
痛みを押し殺して踏み込み、同じ箇所へ刃を叩き込む。
衝撃が重なる。
関節が沈み、巨体のバランスが崩れる。初めて大きく傾いた。
それでも倒れない。
代わりに、その場で動きが止まる。力を溜めるための、嫌な静止だった。
空気が張り詰める。
次に来るものが分かるほどの圧が、周囲を覆う。
「来る……!」
ユイルの声が落ちた直後、横薙ぎが放たれる。
完全に避けるには遅い距離だった。
ユイルは迷わずミレアを突き飛ばした。
自分の体をその軌道へ入れる。
衝撃が走る。
直撃ではない。それでも風圧と余波で体が弾き飛ばされる。
地面に叩きつけられ、背中に鈍い痛みが広がる。
呼吸が途切れ、視界が白く揺れる。
立ち上がろうとした瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
痛みとは違う。内側から何かが滲み出るような感覚だった。
ユイルは無意識に胸元を押さえる。
そこに刻まれた聖痕が、淡く光を帯びていた。
鼓動とは別の脈が、内側から響く。
一拍ごとに、感覚が研ぎ澄まされていく。
視界が変わる。
中型モンスターの動きが遅く見えるのではない。力の流れと軌道が、はっきりと理解できる。
ユイルはゆっくりと立ち上がった。
痛みは残っているが、体の動きはむしろ軽い。
「……いける」
小さく呟き、前へ出る。
ミレアもその変化に気づいていた。
驚きは一瞬だけで、すぐに目の奥が引き締まる。
中型モンスターが再び踏み込む。
だが、その動きはもう読めている。
振り下ろしの軌道に対して、ユイルはわずかに位置を変える。
避けるのではなく、当たらない場所へ立つ。
そのまま内側へ踏み込む。
巨体の懐、首元へ届く位置。
「ミレア!」
声をかける。
それだけで十分だった。
ユイルは前脚の奥へ刃をねじ込んだ。
硬い抵抗の奥で、ようやく関節に届いた手応えが返る。
その瞬間、巨体の軸が崩れた。
踏み込みに乗せていた力が抜け、体がわずかに沈む。
そこへ、ミレアが迷いなく踏み込んだ。
狙いは一つ。崩れた首元。
振り抜かれた刃が深く食い込み、骨をかすめる感触が伝わる。
重なった衝撃に、巨体が大きく揺れた。
一瞬、止まる。
それだけで十分だった。
次の瞬間、支えを失った巨体が崩れ落ちる。
地面が鈍く鳴り、森の空気が揺れた。
巨体が地面に沈んでも、ユイルはすぐには動けなかった。
剣を握ったまま、荒くなった呼吸だけが先に耳に入ってくる。視線は外せない。倒したはずの相手なのに、まだ動く気がしてならなかった。
遅れて、足に震えが来る。
力を抜いた瞬間に崩れそうになるのを、必死に踏みとどまる。今になってようやく、自分がどれだけ無理をしていたのかが分かる。
背後で、木が擦れるような音がした。
反射的に振り返ると、ダットが幹に体を預けるように立っている。
血が止まらない。片腕はだらりと垂れ、力が入っていない。
それでも、その目だけはまだ死んでいなかった。倒れた巨体を、まっすぐに見据えている。
唇がわずかに動く。
声は掠れていて、聞き取るのがやっとだった。
「……あいつが」
息が続かない。
喉の奥で音が潰れかける。
短く、それだけだった。
それ以上は、もう言葉にならない。
ユイルは何も返せなかった。
ただ、言われた意味を確かめるように、もう一度だけ巨体へ視線を戻す。
目に入るのは、様々な傷だった。
さっきまでは見えていなかった深さと数が、やけにはっきりと分かる。
新しくついたものだけじゃない。
古い傷の上に、さらに抉られたような跡が重なっている。
喉の奥が詰まる。
ダットの呼吸が、明らかに浅くなっていた。
さっきまで繋がっていた息が、途切れかけている。
ユイルは反射的に一歩近づく。
だが、どうすればいいのか分からない。
血が止まらない。
手を伸ばしても、何もできない。
「……俺のことはいい」
かすれた声だった。
それでも、はっきりと拒絶だった。
ダットは目を開ける。
焦点が、わずかに揺れている。
「アーミーのところへ……」
言い終わる前に、体が崩れる。
膝が落ち、支えていた力が抜けた。
「ダットさん!」
完全に意識を失っている。
ユイルは森の奥を見る。
ダットが示した先には、木々が不自然に折れた跡が続いていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
正直に言うと、ここまで書いていて感想やブックマークも無く、面白いと思われてないのではと自信がなくなってきました。
もし少しでも「続きを読みたい」と感じていただけたら、 ブックマークや評価で教えてもらえると嬉しいです。
感想も一言でも大歓迎です。
「ここよかった」「続き読みたい」だけでも、本当に力になります。
読んでもらえていると分かるだけで、
もう一歩先まで書こうと思えます。




