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『聖痕の系譜』  作者: 最後の挑戦


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10/11

アーミーの願い

血の匂いが、濃くなっていた。

鉄を舐めたような臭いが鼻の奥にこびりつき、息を吸うたびに胸の内側へ沈んでいく。冷たい森の空気まで重くなったみたいで、ユイルはうまく呼吸ができなかった。


視線の先に、人が倒れている。

それがアーミーだと分かった瞬間、心臓が強く縮んだ。全身に広がった赤があまりにも多くて、どこが傷なのかさえ分からない。


初めて見る、人の壊れ方だった。

足は止まりかけた。それでも目を逸らせず、ユイルは一歩ずつ前へ出る。自分の足音だけが遅れて響いて、世界から取り残されている気がした。


ミレアが先に走った。

足をもつれさせ、転びかけながらも踏みとどまり、アーミーの横へ滑り込むように膝をつく。砂が跳ね、彼女の手が震えたまま伸びる。


「アーミーさん……!」


返事はない。

ミレアは唇を噛み、もう一度、声を強くした。呼び方だけは、昔から変わらないものを必死に引っ張り出しているようだった。


「アーミーさん、ミレアだよ……!」


その声に、アーミーの指がかすかに動いた。

たったそれだけで、ミレアの呼吸が崩れる。助かったと思いたい顔と、もう間に合わないと分かっている顔が、同時に浮かんでいた。


アーミーの瞼が、ゆっくりと開く。

焦点は定まっていない。それでも、彼の目は確かにミレアを探していた。


「……ミレアか」


かすれた声だった。

けれど、その声を聞いた瞬間、ミレアの顔がくしゃりと歪む。泣きそうなのに、笑おうとして、失敗した顔だった。


「倒したよ、あいつ……」


言葉が詰まる。

それでもミレアは、アーミーの手を両手で包み込むように握った。離せば、そのまま消えてしまうと分かっているみたいに。


「私たち、ちゃんと……やれたよ」


アーミーは小さく息を吐いた。

目元がほんの少しだけやわらぐ。そのわずかな変化だけで、ミレアには十分だったのだろう。握る指に、さらに力がこもった。


「……そうか」


短い返事だった。

その一言に、叱る声も、認める声も、ミレアが覚えているアーミーの全部が残っていた。


「だから、帰ろうよ……」


ミレアの声は優しかった。

けれど奥には、隠しきれない焦りがある。現実を止めようとして、言葉だけで必死に押し戻そうとしている。


「体が治ったら、また教えてよ。まだ全然ダメだって、言ってよ」


涙が頬を伝っても、ミレアは拭わなかった。

その手を離す余裕なんてない。アーミーの指から力が抜けていくたび、彼女の指だけが強くなる。


アーミーの目が、少しだけ細くなる。

怒っているようにも、笑っているようにも見えた。その表情があまりにも穏やかで、ユイルの胸に嫌な痛みが走った。


「……無事なら、それでいい」


声が、息に混じって落ちた。

もう長く話せない。それはユイルにも分かった。分かりたくなくても、アーミーの呼吸が浅くなっていく音が耳に入ってくる。


ミレアは首を振った。

小さく、何度も。否定しても変わらない現実を、それでも受け入れられない子どもみたいに。


「やだ……そんなの、やだよ」


その声が震えた直後、アーミーの視線がユイルへ向いた。

見えているのかも分からない。それでも、その目はユイルを探していた。


「……ユイル」


呼ばれると思っていなかった。

ユイルは息を止める。喉の奥が詰まり、返事をしようとしても声が出なかった。


「……頼んだ」


それだけだった。

誰を、とは言わない。何を、 とも言わない。けれど、ミレアを、自分が届かなかった先を、全部まとめて渡された気がした。


できるわけがない。

心の中で、ユイルは反射的にそう思った。十三歳の自分に、そんなものを背負えるはずがない。


それでも、アーミーはもう他に言わなかった。

その一言だけを残して、ユイルから視線を外す。最後に見たのは、やはりミレアだった。


「……泣くな。剣が、鈍る」


ミレアの顔が、完全に崩れた。

堪えていたものが、音もなく壊れる。声を出す前から、もう彼女は泣いていた。


アーミーの視線が、ゆっくり上を向く。

木々の隙間から差し込む光を、ぼんやりと見ている。もう、誰の顔も追っていなかった。


「……生きて、帰れ」


それが最後だった。

アーミーの指から力が抜ける。呼吸が止まり、ほんのわずかに動いていた胸も、もう二度と上がらなかった。


ミレアの手が止まった。

握っていた指の力が、少しずつ抜けていく。アーミーの温もりが失われていくのを、彼女だけがいちばん近くで感じていた。


「……アーミーさん?」


返事はない。

ミレアはもう一度、同じ名前を呼ぼうとして、息だけをこぼした。すぐ近くにいるのに、声が届く場所から消えてしまったようだった。


森に静けさが落ちる。

風が葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。さっきまで命を削っていた呼吸の音が消えたせいで、世界が急に広くなった気がした。


「起きてよ……」


かすれた声だった。

ミレアはアーミーの手を握り直す。もう返ってこない力を探すように、何度も指を絡めた。


「まだ、ちゃんと見てもらってないのに……私、まだ全然だって言われてないし……」


言葉が途中で崩れる。

息を吸うたびに喉が引きつり、声にならない音が混じった。それでもミレアは、止まれなかった。


「ちゃんと見てよ……!」


声が裏返った。

抑えようとしているのに、もう抑えられない。膝をついたまま前へ倒れ込み、アーミーの胸元に顔を押しつける。


「ちゃんと……ダメだって言ってよ……!」


泣き声がこぼれた。

最初は押し殺そうとしていた。けれど、押さえ込むほど声は歪み、呼吸は乱れ、ついにはどうしようもなく溢れ出した。


「やだ……やだよ、こんなの……」


ミレアの指先が震えている。

アーミーの服を掴む手には力が入らない。それでも離さない。離した瞬間、本当に終わってしまうと分かっているみたいだった。


ミレアはアーミーに縋りついたまま、声を上げて泣いた。涙も、呼吸も、言葉も、全部が壊れたみたいに溢れていく。


ユイルは、その場で動けなかった。

一歩だけ前に出ようとして、足が止まる。前へ行かなきゃいけないのに、体が言うことを聞かない。


ミレアの泣き声が胸に刺さる。

聞いているだけなのに痛い。何かしなきゃいけないのに、何をすればいいのか分からない。


声をかけるのか。

触れるのか。それとも、このまま待つのか。どれも違う気がして、でもそれ以上の答えは出てこない。


助けられなかった。

間に合わなかった。その事実だけが、頭の中に残っている。何度考えても、そこから先へ進めない。


それでも、立ったままでいる方が嫌だった。

何もできないまま見ていることの方が、もっと怖かった。


ユイルは息を吐く。

震えは止まらない。それでも、止まらないまま動く。足の裏に力を込め、一歩を踏み出した。


今度は止まらなかった。

理由なんて分からない。ただ、止まっていたら、アーミーの最後の言葉まで消してしまう気がした。


ミレアのすぐ後ろまで来て、ユイルは足を止める。

手を伸ばしかけて、やめた。今のミレアに触れていいのか、ユイルには分からなかった。


だから、声を出す。

喉が引っかかり、うまく響かない。それでも、もう黙っていることだけはできなかった。


「……ミレア」


ミレアの肩が揺れた。

泣き声が一瞬だけ途切れる。けれど振り向かない。彼女の手は、まだアーミーの服を掴んだままだった。


ユイルは、もう一度呼ぶ。

今度は少しだけ強く。優しい言葉なんて出てこない。慰め方も分からない。だから、分かっていることだけを口にした。


「……ミレア。アーミーさんを、ここに置いていけない」


言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。

格好よくもない。強くもない。それでも、その言葉だけは嘘じゃなかった。


「連れて帰ろう」


ミレアの肩が、もう一度震えた。

ユイルはアーミーから目を逸らさない。怖くて、吐きそうで、それでも目を逸らしたら本当に負ける気がした。


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