アーミーの願い
血の匂いが、濃くなっていた。
鉄を舐めたような臭いが鼻の奥にこびりつき、息を吸うたびに胸の内側へ沈んでいく。冷たい森の空気まで重くなったみたいで、ユイルはうまく呼吸ができなかった。
視線の先に、人が倒れている。
それがアーミーだと分かった瞬間、心臓が強く縮んだ。全身に広がった赤があまりにも多くて、どこが傷なのかさえ分からない。
初めて見る、人の壊れ方だった。
足は止まりかけた。それでも目を逸らせず、ユイルは一歩ずつ前へ出る。自分の足音だけが遅れて響いて、世界から取り残されている気がした。
ミレアが先に走った。
足をもつれさせ、転びかけながらも踏みとどまり、アーミーの横へ滑り込むように膝をつく。砂が跳ね、彼女の手が震えたまま伸びる。
「アーミーさん……!」
返事はない。
ミレアは唇を噛み、もう一度、声を強くした。呼び方だけは、昔から変わらないものを必死に引っ張り出しているようだった。
「アーミーさん、ミレアだよ……!」
その声に、アーミーの指がかすかに動いた。
たったそれだけで、ミレアの呼吸が崩れる。助かったと思いたい顔と、もう間に合わないと分かっている顔が、同時に浮かんでいた。
アーミーの瞼が、ゆっくりと開く。
焦点は定まっていない。それでも、彼の目は確かにミレアを探していた。
「……ミレアか」
かすれた声だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、ミレアの顔がくしゃりと歪む。泣きそうなのに、笑おうとして、失敗した顔だった。
「倒したよ、あいつ……」
言葉が詰まる。
それでもミレアは、アーミーの手を両手で包み込むように握った。離せば、そのまま消えてしまうと分かっているみたいに。
「私たち、ちゃんと……やれたよ」
アーミーは小さく息を吐いた。
目元がほんの少しだけやわらぐ。そのわずかな変化だけで、ミレアには十分だったのだろう。握る指に、さらに力がこもった。
「……そうか」
短い返事だった。
その一言に、叱る声も、認める声も、ミレアが覚えているアーミーの全部が残っていた。
「だから、帰ろうよ……」
ミレアの声は優しかった。
けれど奥には、隠しきれない焦りがある。現実を止めようとして、言葉だけで必死に押し戻そうとしている。
「体が治ったら、また教えてよ。まだ全然ダメだって、言ってよ」
涙が頬を伝っても、ミレアは拭わなかった。
その手を離す余裕なんてない。アーミーの指から力が抜けていくたび、彼女の指だけが強くなる。
アーミーの目が、少しだけ細くなる。
怒っているようにも、笑っているようにも見えた。その表情があまりにも穏やかで、ユイルの胸に嫌な痛みが走った。
「……無事なら、それでいい」
声が、息に混じって落ちた。
もう長く話せない。それはユイルにも分かった。分かりたくなくても、アーミーの呼吸が浅くなっていく音が耳に入ってくる。
ミレアは首を振った。
小さく、何度も。否定しても変わらない現実を、それでも受け入れられない子どもみたいに。
「やだ……そんなの、やだよ」
その声が震えた直後、アーミーの視線がユイルへ向いた。
見えているのかも分からない。それでも、その目はユイルを探していた。
「……ユイル」
呼ばれると思っていなかった。
ユイルは息を止める。喉の奥が詰まり、返事をしようとしても声が出なかった。
「……頼んだ」
それだけだった。
誰を、とは言わない。何を、 とも言わない。けれど、ミレアを、自分が届かなかった先を、全部まとめて渡された気がした。
できるわけがない。
心の中で、ユイルは反射的にそう思った。十三歳の自分に、そんなものを背負えるはずがない。
それでも、アーミーはもう他に言わなかった。
その一言だけを残して、ユイルから視線を外す。最後に見たのは、やはりミレアだった。
「……泣くな。剣が、鈍る」
ミレアの顔が、完全に崩れた。
堪えていたものが、音もなく壊れる。声を出す前から、もう彼女は泣いていた。
アーミーの視線が、ゆっくり上を向く。
木々の隙間から差し込む光を、ぼんやりと見ている。もう、誰の顔も追っていなかった。
「……生きて、帰れ」
それが最後だった。
アーミーの指から力が抜ける。呼吸が止まり、ほんのわずかに動いていた胸も、もう二度と上がらなかった。
ミレアの手が止まった。
握っていた指の力が、少しずつ抜けていく。アーミーの温もりが失われていくのを、彼女だけがいちばん近くで感じていた。
「……アーミーさん?」
返事はない。
ミレアはもう一度、同じ名前を呼ぼうとして、息だけをこぼした。すぐ近くにいるのに、声が届く場所から消えてしまったようだった。
森に静けさが落ちる。
風が葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。さっきまで命を削っていた呼吸の音が消えたせいで、世界が急に広くなった気がした。
「起きてよ……」
かすれた声だった。
ミレアはアーミーの手を握り直す。もう返ってこない力を探すように、何度も指を絡めた。
「まだ、ちゃんと見てもらってないのに……私、まだ全然だって言われてないし……」
言葉が途中で崩れる。
息を吸うたびに喉が引きつり、声にならない音が混じった。それでもミレアは、止まれなかった。
「ちゃんと見てよ……!」
声が裏返った。
抑えようとしているのに、もう抑えられない。膝をついたまま前へ倒れ込み、アーミーの胸元に顔を押しつける。
「ちゃんと……ダメだって言ってよ……!」
泣き声がこぼれた。
最初は押し殺そうとしていた。けれど、押さえ込むほど声は歪み、呼吸は乱れ、ついにはどうしようもなく溢れ出した。
「やだ……やだよ、こんなの……」
ミレアの指先が震えている。
アーミーの服を掴む手には力が入らない。それでも離さない。離した瞬間、本当に終わってしまうと分かっているみたいだった。
ミレアはアーミーに縋りついたまま、声を上げて泣いた。涙も、呼吸も、言葉も、全部が壊れたみたいに溢れていく。
ユイルは、その場で動けなかった。
一歩だけ前に出ようとして、足が止まる。前へ行かなきゃいけないのに、体が言うことを聞かない。
ミレアの泣き声が胸に刺さる。
聞いているだけなのに痛い。何かしなきゃいけないのに、何をすればいいのか分からない。
声をかけるのか。
触れるのか。それとも、このまま待つのか。どれも違う気がして、でもそれ以上の答えは出てこない。
助けられなかった。
間に合わなかった。その事実だけが、頭の中に残っている。何度考えても、そこから先へ進めない。
それでも、立ったままでいる方が嫌だった。
何もできないまま見ていることの方が、もっと怖かった。
ユイルは息を吐く。
震えは止まらない。それでも、止まらないまま動く。足の裏に力を込め、一歩を踏み出した。
今度は止まらなかった。
理由なんて分からない。ただ、止まっていたら、アーミーの最後の言葉まで消してしまう気がした。
ミレアのすぐ後ろまで来て、ユイルは足を止める。
手を伸ばしかけて、やめた。今のミレアに触れていいのか、ユイルには分からなかった。
だから、声を出す。
喉が引っかかり、うまく響かない。それでも、もう黙っていることだけはできなかった。
「……ミレア」
ミレアの肩が揺れた。
泣き声が一瞬だけ途切れる。けれど振り向かない。彼女の手は、まだアーミーの服を掴んだままだった。
ユイルは、もう一度呼ぶ。
今度は少しだけ強く。優しい言葉なんて出てこない。慰め方も分からない。だから、分かっていることだけを口にした。
「……ミレア。アーミーさんを、ここに置いていけない」
言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。
格好よくもない。強くもない。それでも、その言葉だけは嘘じゃなかった。
「連れて帰ろう」
ミレアの肩が、もう一度震えた。
ユイルはアーミーから目を逸らさない。怖くて、吐きそうで、それでも目を逸らしたら本当に負ける気がした。




