帰還
森の奥から、複数の足音が近づいてきた。
最初は風が枝を揺らした音かと思ったが、すぐに違うと分かった。鎧の擦れる音と、地面を踏みしめる重い足音が、一直線にこちらへ向かってくる。
ユイルは顔を上げた。
ミレアはまだアーミーのそばから離れない。掴んでいた指の力は弱まっているのに、手そのものは動かせないままだった。
「……誰か来る」
ユイルが小さく告げると、ミレアの肩がわずかに震えた。
けれど返事はない。聞こえているのか、聞こえていないのかも分からなかった。
次の瞬間、木々の隙間から騎士たちが現れた。
先頭の男は剣の柄に手をかけたまま立ち止まり、倒れているアーミー、意識を失ったダット、そして二人を順に見た。
「いたぞ!」
低い声が森に響いた。
ユイルは反射的に体を固くする。敵ではないと分かっているはずなのに、その声に含まれた緊張が、全身を縛りつけた。
騎士たちはすぐに散った。
数人が周囲を警戒し、別の者がダットへ駆け寄る。残った二人はアーミーのそばへ膝をつき、状態を確認した。
「ダットは息がある! 急げ!」
その声に、空気が一瞬だけ動いた。
担架を持った騎士が駆け寄り、意識のないダットを慎重に乗せる。折れた鎧の隙間から流れる血を見て、ユイルの喉が鳴った。
一方で、アーミーのそばにいた騎士は何も言わなかった。
ただ、確認する手が止まり、ほんのわずかに頭を下げる。その沈黙だけで、結果は伝わってしまった。
ミレアが、かすかに息を吸った。
今にも何かを言いそうだったのに、声は出ない。アーミーの服を掴む手だけが、また強くなった。
「……離れてください」
若い騎士が、できるだけ丁寧に声をかけた。
だがミレアは動かない。聞こえていないのではなく、聞こえていても離れられないのだと分かった。
ユイルは一歩だけ前に出た。
足は震えている。何か立派なことを言える状態ではない。それでも、ここで誰かが無理にミレアの手を剥がすのだけは違うと思った。
「……少しだけ、待ってください」
声は小さかった。
騎士は手を止めた。ユイルの年齢を見たのか、血に濡れた剣を見たのか、一瞬だけ判断を迷う顔をした。
ユイルはミレアの横に膝をついた。
触れるかどうか迷って、結局、肩には手を置かなかった。ただ、なるべく近くで声を出す。
「ミレア。アーミーさんを、城に連れて帰るんだ」
ミレアの瞳が、ゆっくりと動いた。
焦点が合うまでに、少し時間がかかった。泣き腫らした目がユイルを見て、それからアーミーへ戻る。
「……帰る?」
壊れかけた声だった。
ユイルは頷いた。うまく言葉を足せば嘘になりそうで、短く答えることしかできなかった。
「うん。ここじゃなくて、城に」
ミレアの唇が震える。
何かを言おうとして、また言葉が崩れた。それでも、掴んでいた指の力が少しずつ緩んでいく。
騎士たちは、その間だけ待っていた。
誰も急かさない。森の奥を警戒する者たちの緊張だけが、こちらの沈黙を支えていた。
やがてミレアの手が、アーミーの服から離れた。
離した瞬間、彼女の体が前に倒れかける。ユイルは慌てて腕を伸ばし、支えるように受け止めた。
「……ごめん」
ミレアは小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、ユイルには分からなかった。アーミーへか、騎士へか、それとも自分自身へか。
アーミーの体が、静かに持ち上げられる。
乱暴な扱いではなかった。騎士たちは全員、言葉を交わさず、ただ慎重に、彼女を担架へ乗せた。
その光景を見た瞬間、ミレアの呼吸がまた乱れた。
けれど今度は声を上げない。唇を噛み、ユイルの袖を掴んだまま、必死に立っていた。
先頭の騎士が、ユイルを見る。
「君たちは城に戻り次第、団長に話をお願いします」
ユイルは頷こうとして、少し遅れた。
事情を聞かれる。当たり前のことなのに、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
何を話せばいいのか分からない。
どこから話せばいいのかも分からない。戦ったことも、アーミーが倒れていたことも、ダットが戻ってきたことも、全部が頭の中で絡まっていた。
「歩けるか」
騎士の問いに、ユイルは自分の足を見る。
血と土で汚れている。
「……歩けます」
そう答えると、騎士は次にミレアを見た。
ミレアは返事をしない。ただ、ユイルの袖を掴む手に力を込めた。
「彼女は俺が見ます」
自分に何ができるのか分からない。それでも、言ってしまった以上、離れることだけはできなかった。
騎士はしばらくユイルを見ていた。
少年に任せるべきではないと考えている顔だった。けれど、ミレアがその袖を離さないのを見て、短く息を吐いた。
「なら、離れるな」
その言葉に、ユイルは頷いた。
ミレアは何も言わない。顔を伏せたまま、ただ一歩だけユイルの方へ近づいた。
森を戻る道は、来たときより長く感じた。
担架で運ばれるダットの呼吸は浅く、騎士たちは何度も声をかけていた。返事はないが、息だけはまだ繋がっている。
アーミーの担架は、その少し後ろを進んでいた。
布がかけられている。それだけで、もう彼女が声を出すことはないのだと分かってしまう。
ミレアは一度もそちらを見なかった。
見ないのではなく、見たら歩けなくなるのだとユイルは思った。だから何も言わず、袖を掴まれたまま歩いた。
城門が見えたとき、夕方の光が石壁に薄く残っていた。
森の中では時間の感覚が消えていたが、外へ出ると急に現実が戻ってくる。城の前にいた兵たちが、担架を見て顔色を変えた。
「医務室へ! 急げ!」
命令が飛び、ダットはすぐに運び込まれた。
その動きは速かった。けれどアーミーの担架だけは、少しだけ静かに運ばれていく。
やがて二人は、城の一室へ案内された。
広い部屋ではない。石造りの壁と、中央に置かれた机。窓の外はもう暗くなり始めていた。
部屋には、騎士団長がいた。
ミレアの父であるガルドは、いつものように真っ直ぐ立っていた。だが、二人を見た瞬間、その目の奥がわずかに揺れた。
「……座れ」
低い声だった。
ミレアは動かない。ユイルも一瞬迷ったが、ガルドに促されて椅子に座る。ミレアはその隣に、力が抜けたように腰を下ろした。
ガルドは、すぐには問いかけなかった。
血で汚れたミレアの手、ユイルの震える指、床に落ちそうな視線を順に見て、それから短く息を吐いた。
「ダットは治療中だ。まだ意識は戻っていない」
その言葉に、ユイルの肩からわずかに力が抜けた。
生きている。その事実だけで十分なはずなのに、安心したと言えるほど胸は軽くならなかった。
「アーミーは……」
騎士団長の声が、そこで一度止まった。
ミレアの指が膝の上で握られる。強く握りすぎて、白くなっていた。
「戻った。城へ」
それだけだった。
死んだ、とは言わなかった。けれど、意味は全員に伝わっていた。
ミレアは顔を上げない。
涙はもう流れていない。ただ、泣く力まで使い切ったように、表情が消えていた。
騎士団長の視線が、ユイルへ向く。
責めるための視線ではなかった。けれど、逃がさない視線だった。
「何があった。見たことを、順に話せ」
ユイルは喉を鳴らした。
頭の中に、森の匂いが戻ってくる。巨体の足音、ダットの血、アーミーの最後の声。全部が一度に押し寄せてきた。
「……試験で、小型のモンスターを倒していました」
声が掠れる。
それでも、ユイルは止めなかった。止めたら、もう話せなくなる気がした。
「途中で、奥から変な鳴き声がして……アーミーさんとダットさんが確認に行きました」
騎士団長は何も言わない。
ただ、聞いている。ユイルは膝の上で拳を握り、震えを隠すように力を込めた。
「そのあと、ダットさんが戻ってきました。怪我をしていて……逃げろって」
言葉が詰まる。
ミレアの手が、膝の上でさらに強く握られた。彼女も同じ場面を思い出しているのだと分かった。
「中型のモンスターが来ました。かなり傷を負っていたので俺たちは戦って、なんとか倒しました」
自分で言っても、現実味がなかった。
誰かが疑ってもおかしくない。ユイル自身でさえ、あれを本当に自分たちが倒したのか分からなくなる。
騎士団長の眉が、わずかに動いた。
だが何も挟まない。ユイルは息を吸い、続きを出す。
「そのあと、ダットさんが……アーミーさんのところへって言って、意識を失って」
そこから先は、声が小さくなった。
血の匂いが、また鼻の奥に戻ってくる。倒れていたアーミーの姿が、目の前にあるみたいだった。
「奥へ行ったら、アーミーさんが倒れていました」
ミレアが、初めて小さく息を震わせた。
ユイルは隣を見そうになって、やめた。見たら、自分の声まで壊れそうだった。
「まだ、少しだけ話せました」
ガルドの目が細くなる。
その変化は小さかったが、部屋の空気が重くなった気がした。
「何を言っていた」
ユイルは唇を噛んだ。
言っていいのか分からなかった。でも、隠すことでもないと思った。
「ミレアに……泣くな。剣が鈍るって」
ミレアの肩が、小さく震えた。
ガルドは目を閉じた。ほんの一瞬だけだったが、その間だけ、父親でも団長でもない顔が見えた気がした。
「それから」
ユイルは、自分の胸元を見た。
あの言葉は、まだそこに残っている。頼んだ、という短い声が、消えずに沈んでいた。
「俺に、頼んだって言いました」
部屋の中が静かになった。
ガルドはしばらく何も言わなかった。
やがて、ガルドがゆっくり息を吐く。
怒りでも、悲しみでもない。たくさんのものを無理やり押し込めたような息だった。
「そうか」
短い返事だった。
だが、その声は少しだけ低くなっていた。
ミレアが、そこでようやく顔を上げた。
目は赤い。涙は止まっているのに、声はまだ出し方を忘れているみたいだった。
「……私が」
小さな声が落ちる。
ガルドの視線が、すぐにミレアへ向いた。
「私が、もっと早く……」
言葉が続かない。
続けようとしても、喉が締まる。ミレアは唇を噛み、顔を歪めた。
「違う」
ユイルは反射的に言っていた。
声は強くなかった。けれど、止めなきゃいけないと思った。
ミレアが、ゆっくりユイルを見る。
その目に何も返せなくなりそうで、ユイルは膝の上の拳を強く握った。
「違うと思う。俺たちは、間に合わなかった。でも、ミレアのせいじゃない」
うまい言葉ではなかった。
慰めにもなっていないかもしれない。それでも、そこだけは間違えたくなかった。
ミレアは何も言わなかった。
けれど、膝の上で握られていた指の力が、少しだけ抜けた。
ガルドは二人を見ていた。
そして静かに、机の上へ片手を置く。重い音が、部屋に響いた。
「今日はここまでだ」
ユイルは思わず顔を上げた。
まだ話すことはある。聞かれることもある。そう思っていたのに、騎士団長は首を横に振った。
「今のお前たちに、これ以上は無理だ」
その言葉は厳しいのに、どこか守るようでもあった。
ミレアは反論しない。ユイルも、もう声を出す力が残っていなかった。
「今夜はゆっくり休め」
休めるわけがない。
ユイルはそう思った。けれど、言葉にはしなかった。
部屋を出るとき、ミレアは立ち上がるのに少し時間がかかった。
ユイルは横で待った。手を貸すべきか迷ったが、ミレアが自分で立つのを見て、ただ隣に並んだ。
ミレアは歩きながら、一度だけ呟いた。
声は小さく、ユイルの耳に届くのがやっとだった。
「……帰ってきたのにね」
ユイルは何も返せなかった。
アーミーを城へ連れて帰った。それでも、ミレアが望んだ帰り方ではなかった。
二人の足音だけが、廊下に残る。
その音はどこまでも軽く、頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。
しばらく、二人とも黙ったままだった。
遠くで見張りの足音が鳴る。規則正しいリズムが、この場所だけを外して通り過ぎていく。
ミレアの口元が、ほんの少しだけ動く。
「最後にさ、“泣くな”って言われたの、ちょっとムカついた」
いつもの軽さに似ている。
でも、同じじゃない。笑ってはいない。
「泣くに決まってるじゃん、って思った」
そこで、ようやく少しだけ笑った。
すぐに消えるくらいの、小さなやつ。
「でも、たぶんさ」
息を吸って、吐く。
「“泣くな”って、“止まるな”って意味だったんだと思う」
言い終えて、肩の力が抜ける。
言葉にしたことで、やっと自分の中に収まったみたいに。
ミレアは、ユイルの方を見た。
「ねえ」
今度は、ちゃんと視線が合う。
「一人だったら、たぶん止まってた」
少しだけ間を置く。
「だから――」
そこで言葉を切る。
ほんの少しだけ、迷うみたいに。
「これからも隣にいてくれるかな」
命令でも約束でもない。
ただの確認みたいな、弱い言い方だった。
「隣にいる」
短く答える。
ミレアは頷いた。
それで十分だったみたいに。
「よし」
小さく息を吐く。
それから、いつもの調子に少しだけ近い声で続ける。
「もう泣かない、もっと強くなる」
軽い言い方だった。
けれど、その中にある意味は軽くない。
ユイルは「……ああ」とだけ返す。
それ以上二人に言葉はいらなかった。




