前夜、崩れないために
三日目の夜は、これまでと同じ城の中で過ごしているはずなのに、どこかだけが微妙に噛み合っていないような静けさに包まれていた。
廊下を歩く足音や遠くで交わされる声は確かに存在しているはずなのに、それらはまるで一枚薄い膜の向こう側で鳴っているようにぼやけていて、耳に届く前に形を失ってしまうような感覚があり、その違和感がじわじわと内側に残り続けている。
それが明日を意識しているからなのか、それとも単純に自分の思考がそちらに引っ張られているだけなのかは分からなかったが、少なくとも普段と同じ状態ではないことだけははっきりしていた。
ユイルは一人、訓練場の中央に立っている。
昼間と同じ場所で、同じ剣を握っているはずなのに、その空間はまるで別物のように感じられ、足元の石畳の感触さえも現実からわずかに浮いているように思えた。
三日間やってきたことは単純だ。
立って、振って、倒されて、それでもまた立ち上がる。
それを何度も繰り返してきただけで、特別な技術を覚えたわけでもなければ、目に見えて強くなった実感があるわけでもない。
それでも確実に、何かは変わっている。
「……足りないな」
自然に漏れた言葉は、誰に向けたものでもなく、そのまま自分の内側に落ちていく。
どれだけやっても足りていないという感覚だけが残る。
明日、通るかどうかは分からないし、むしろ通らない可能性の方が高いことも理解している。
それでも、やめる理由にはならなかった。
「……やるしかないか」
小さく呟き、剣を構える。
踏み込み、振る。
空気を切る音が静かな訓練場に広がり、その余韻が消えきる前にもう一度同じ動作を繰り返すと、ほんのわずかではあるが踏み込みの深さが変わっていることに気づく。
その違いに気づける程度には、三日前の自分とは確実に変わっていた。
「まだやってるの?」
背後から落ちてきた声は、静かな空間の中でやけにくっきりと響いた。
振り返る前から誰か分かる。
「……ミレアか」
「うん、ミレアです」
軽い調子でそう言いながら隣に立つと、ユイルの動きを少しだけ眺めてから、小さく息を吐く。
「ほんと真面目だよね」
「他にやることがないだけだ」
短く返すが、それがすべてではないことは自分でも分かっている。
ミレアはそれ以上追及することはせず、少しだけ考えるように間を置いたあと、足元に置かれていた木剣を拾い上げた。
「付き合うよ」
当然のように言う。
「……いいのか」
「明日でしょ?」
その一言で十分だった。
ユイルは何も言わずに構え直し、ミレアも同じように構える。
向かい合う距離は、三日前とは比べものにならないほど自然で、無理に詰める必要もなければ距離を取る必要もない位置に収まっていた。
「いくよ」と短く告げた直後、ミレアは一切の溜めもなく踏み込み、一瞬で距離を詰めてきたため、ユイルは反射的に剣を合わせてその一撃を受け止めるが、続けざまに放たれる二撃目は弾くのがやっとで、三撃目に至っては体をわずかにずらすことで直撃だけを避ける形になり、自分の動きがまだ完全ではないことを嫌でも実感させられる。
それでも打ち合いの流れの中で視界が以前より広がっていることに気づき、相手の動きが“見えている”という感覚だけは確かに存在していた。
「いいじゃん、ちゃんと見えてる」とミレアが軽く言いながらさらに踏み込んでくるのに対し、「……そっちもな」と返しながらこちらも距離を詰めるが、剣は届かず、それでも当たらない理由が“分からない”のではなく“分かる”ようになっていることに、わずかな手応えを感じる。
そのまま剣を合わせた状態で距離が近づいたところで、ミレアがふと声を落とすようにして「ねえ、まだ怖い?」と問いかけてきたことで、ユイルの動きがほんの一瞬だけ止まり、誤魔化すことも強がることもできるはずなのに、それを選ぶ意味がないと直感的に理解してしまう。
「……怖い」とそのまま答えると、ミレアは笑うことなく「そっか」とだけ呟き、小さく息を吐いたあとで「私もだよ」と続ける。
予想外の言葉に思わず「……お前がか?」と聞き返すと、「何その反応、私だって普通に怖いけど」と軽く苦笑しながら一歩下がり、距離を取り直す動きの中で、さっきまでの軽さとは違う静かな空気が混じる。
「でもさ」とわずかに声のトーンを変え、「怖いからって、やめる理由にはならないでしょ」と続けられた言葉は、軽く聞こえる形をしていながらも妙に重く、否定する余地が見つからないまま、そのまま受け入れるしかなかった。
ユイルは何も言わないが否定もしないまま剣を構え直し、ミレアも同じように構えながら「どうせならさ、通ろうよ、一緒に」と自然に言い切る。
約束でも命令でもないその言葉に対して、「……ああ」と短く返すと、それだけで十分だと分かる感覚があった。
再び踏み込み、今度は迷いなく剣を振るうと、さっきよりも深く、速く動けていることを自分でもはっきりと認識でき、その一撃をミレアが受け止めながら「いいね」と短く言った声が、確かに手応えとして残る。
何度も打ち合いを続けるうちに、腕にかかる負荷は確実に増していき、踏み込みの精度も徐々に鈍り始めていたが、それでも互いに動きを止めることはなく、限界に近づくほどに集中が研ぎ澄まされていく感覚だけが残り続ける。
やがてほぼ同時に限界が訪れ、ミレアがその場に力を抜くように座り込み、それに少し遅れる形でユイルも膝をつくと、静まり返った訓練場の中に荒い呼吸だけが重なるように響き、言葉を挟む余裕すら残っていないことがはっきりと分かる。
しばらくのあいだ呼吸を整えることに意識を集中させたあと、ようやく落ち着きを取り戻したところで、ユイルが視線を上げないまま口を開く。
「……明日だな」
その一言は確認であり、同時に覚悟でもあった。
「うん」とミレアが答えるその声には迷いがなく、軽く聞こえるはずの返事が妙にしっかりとした重さを持って伝わってくる。
それ以上の言葉は必要なかった。
互いに立ち上がり、自然な流れで訓練場を後にする。
体に残る疲労は明らかに限界に近いはずなのに、それでも足が止まらないことに、ユイルは自分でもわずかな違和感を覚える。
歩き出してから数歩進んだところで、ミレアがふと声をかける。
「ねえ」
振り返ると、ミレアはほんの少しだけ笑っていたが、その表情はどこかいつもと違って見えた。
「死なないでね」
軽く言ったつもりの言葉なのだろうが、その中に含まれている意味は決して軽くなく、むしろ今までのどの言葉よりも現実的で、はっきりとした重さを持っていた。
ユイルはすぐには答えず、ほんのわずかな時間だけ考えてから口を開く。
「……そっちこそな」
短い言葉ではあるが、その返答には迷いがなく、必要なことはすべて含まれていた。
それで十分だった。
それ以上何かを言う必要もなく、二人はそのまま部屋へ戻る。
ベッドに倒れ込むと、体は限界に近い状態であるはずなのに、意識だけが妙に冴えていて、簡単には眠りに落ちそうになかった。
明日のことを考える。
試験の内容も、その先に何があるのかも分からない。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
怖さは確かに残っているが、それを理由に止まる気にはなれないという感覚が、今ははっきりと存在している。
目を閉じると、ゆっくりと意識が沈んでいく。
三日間の最後の夜が終わり、次に訪れるのは試験の日であるという事実だけが、静かに確定していくようだった。




