ユイルの決心
翌朝、ユイルはほとんど眠れないまま王の間へ向かっていた。
昨夜のうちに答えは決まっていたはずなのに、胸の奥は妙に静かで、同時にひどく落ち着かなかった。怖さが消えたわけではない。むしろ、逃げ道が本当になくなるのだと思うと、昨日よりもはっきりと輪郭を持って迫ってくる。それでも足は止まらなかった。止めたところで何かが変わるわけではないし、ここまで来て背を向ける自分を、たぶんもう許せない。
重い扉の前に立つ。
衛兵がそれを押し開くと、王の間の空気がゆっくりとこちらへ流れてきた。三年前、自分を呑み込んだあの冷たさとは少し違う。変わったのは場所ではなく、やはり自分なのだと、ユイルは息を吸いながら思う。
「参れ」
低い声に導かれ、ユイルは広間の中央まで歩いた。そして膝をつく代わりに、まっすぐ立ったまま顔を上げる。
王はその姿をしばらく黙って見ていた。
「昨夜、考えたか」
「考えました」
「逃げる道もあった。それでも来たのじゃな」
「はい」
短いやりとりだった。だが、そこにごまかしはなかった。
王は小さく頷く。
「ならば問おう、ユイル。お主は何を選ぶ」
広間が静まり返る。誰も動かない。誰も口を挟まない。ただ、自分の答えだけを待っている。
ユイルは一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。昨日までなら、ここで“やります”とだけ答えていたかもしれない。けれど今日は違う。王が求めているのは、言葉の形ではなく、その中身だと分かっていた。
「俺は行きます」
静かな声だった。それでも、思っていたよりずっと遠くまで届いた気がした。
「選ばれたからじゃありません」
王の目がわずかに細くなる。
「怖いです。逃げられるなら、逃げたいとも思いました。でも、何もしないまま終わる方が、もっと嫌です」
そこで一度、言葉が止まる。だが、止めなかった。
「三年前の俺は、何もできませんでした。言われるまま連れていかれて、立っているだけで終わった。昨日までだって、倒されて、立たされて、それだけでした。でも――昨日、少しだけ分かったんです。怖くても、前に出ることはできる。止まらないって、自分で決めることはできる」
王は何も言わない。ただ、聞いている。
「だから行きます」
ユイルははっきりと言った。
「魔の王を討つために。そして、あの時のままの自分で終わらないために」
言い切った瞬間、胸の奥で何かが静かに収まった。正しい答えかどうかは分からない。立派な言葉でもないのだろう。それでも、これが今の自分の本当の答えだと分かる。
しばしの沈黙のあと、王はゆっくりと頷いた。
「よい」
その一言は短かったが、重みがあった。
「今のは、昨日のような勢いの言葉ではない。ようやく、お主自身の言葉になった」
ユイルは何も答えない。ただ、まっすぐ前を見ていた。
「では、旅支度を進めるとしよう」
王がそう言った、その時だった。
「待ってください」
王の間に、場違いなくらいよく通る少女の声が響いた。
ユイルが目を向けるより早く、広間の入口にいた衛兵たちがわずかにざわつく。そこに立っていたのは、ミレアだった。隣には腕を組んだままのガルドがいる。止めに来たのか、それとも連れてきたのか、表情だけでは分からない。
「ミレア」
ガルドの低い声にも、ミレアは怯まなかった。
「昨日の話、ちゃんとしに来たの」
そう言って、そのまま広間の中央まで歩いてくる。王の前だというのに、足取りには妙な迷いがない。
「無礼を承知で申し上げます、陛下」
形だけは整った礼をしたあと、ミレアは顔を上げた。
「ユイルが行くなら、私も行きます」
空気が変わる。周囲の視線が一斉に彼女へ集まった。
王は驚いた様子もなく、静かに問う。
「理由は何だ」
ミレアは少しも考え込まずに答えた。
「一人で行かせると危なっかしいからです」
広間の端で誰かが息を詰める気配がした。だがミレアは構わず続ける。
「昨日、見ました。こいつは前に出ます。怖くても止まらない。たぶん、これからもっとそうなります。でも、だからこそ危ない。一人だと、自分が壊れるまで行くと思う」
ユイルは思わず眉をひそめたが、否定はできなかった。
「だったら、隣で止める人がいた方がいい。引っ張る人がいた方がいい。だから、私が行きます」
王の視線がガルドへ向く。
「ガルド、お主はどう考える」
ガルドはしばらく答えなかった。娘を見るでもなく、王を見るでもなく、ただ一度だけ深く息を吐く。
「騎士として言うなら、未熟です」
低い声だった。
「ユイルも、ミレアも、まだ青い。死地へ送るには早すぎる」
そこで言葉を切り、わずかに視線を動かす。
「だが、父として言えば――止めても行く顔をしています」
ミレアが少しだけ口元を緩める。
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑っている」
そんなやりとりが、張りつめた空気の中に奇妙な隙間を作った。
王はその二人を見比べ、それからユイルに目を向ける。
「お主はどう思う」
問われたのは、ミレアの同行についてだった。
ユイルは少しだけ黙った。昨日の夜、勝手にしろとは言った。だがそれは、半分は本音で、半分は答えを先送りにしただけだったのかもしれない。今ここで、本当に決めなければならない。
ミレアは強い。少なくとも、今の自分よりはずっと。昨日、隣に立たれて初めて分かったこともある。一人で進むより、誰かがいる方が怖くないことも、少しだけ。
「……来るなら、止めません」
やっとそれだけ言う。
王が眉をわずかに上げる。
「止めぬ、では弱いな」
「……一緒に来てほしい、です」
言い直した時、自分でも驚くほどその言葉は自然に出た。
ミレアが一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑う。
「うん。それでいい」
王はその様子を静かに見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「よかろう。ただし条件がある」
空気が再び引き締まる。
「ミレア、お主もまた、自らの意思で選んだことを示せ。護衛ではなく、ただの付き添いでもなく、お主自身が行く理由を証明せよ」
ミレアは一歩、前へ出た。
「証明します」
「では三日後、出立前に試験を行う」
王の声は、もはや決定そのものだった。
「ユイルとミレア、二人で受けよ。その結果をもって、同行を認める」
三日後。
その短さに、ユイルはわずかに息を呑む。準備する時間など、ほとんどないに等しい。
だがミレアは違った。
「三日もくれるんだ」
むしろ少し楽しそうに言う。
ガルドが頭を押さえるように目を閉じた。
「お前はもう少し緊張感を持て」
「持ってるよ、これでも」
「見えん」
そんなやりとりを見ながら、ユイルは初めて、自分一人の話ではなくなったのだと実感した。
怖さは消えない。
それでも、少しだけ違う。
隣に立つ者がいるというだけで、見える景色がこんなにも変わるのかと思った。
「下がってよい」
王の言葉に、二人は礼をした。
広間を出る直前、ユイルはふと振り返る。王はもうこちらを見ていなかった。だが、確かに聞き届けられたのだと分かる。
扉の外へ出ると、張りつめていた空気がようやくほどけた。
「ねえ」
ミレアが歩きながら、横目でこちらを見る。
「さっきの、“一緒に来てほしい”ってやつ、ちょっとよかった」
「……うるさい」
「照れてる?」
「違う」
「いや、今のは照れてるでしょ」
ガルドが深くため息をつく。
「お前たちは三日後に試験だ。少しは危機感を持て」
「持ってるよ、お父さん」
「口だけだ」
言い合う二人を横で見ながら、ユイルは小さく息を吐いた。
三日後。
出立前の試験。
そこを越えれば、本当に始まる。
王に選ばれた子どもとしてではなく、自分で選んだ者として。
そしてその始まりには、もう一人、隣に立つ者がいた。




