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『聖痕の系譜』  作者: 逢華 (最後の挑戦)


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4/11

ユイルの決心

翌朝、ユイルはほとんど眠れないまま王の間へ向かっていた。


昨夜のうちに答えは決まっていたはずなのに、胸の奥は妙に静かで、同時にひどく落ち着かなかった。怖さが消えたわけではない。むしろ、逃げ道が本当になくなるのだと思うと、昨日よりもはっきりと輪郭を持って迫ってくる。それでも足は止まらなかった。止めたところで何かが変わるわけではないし、ここまで来て背を向ける自分を、たぶんもう許せない。


重い扉の前に立つ。


衛兵がそれを押し開くと、王の間の空気がゆっくりとこちらへ流れてきた。三年前、自分を呑み込んだあの冷たさとは少し違う。変わったのは場所ではなく、やはり自分なのだと、ユイルは息を吸いながら思う。


「参れ」


低い声に導かれ、ユイルは広間の中央まで歩いた。そして膝をつく代わりに、まっすぐ立ったまま顔を上げる。


王はその姿をしばらく黙って見ていた。


「昨夜、考えたか」


「考えました」


「逃げる道もあった。それでも来たのじゃな」


「はい」


短いやりとりだった。だが、そこにごまかしはなかった。


王は小さく頷く。


「ならば問おう、ユイル。お主は何を選ぶ」


広間が静まり返る。誰も動かない。誰も口を挟まない。ただ、自分の答えだけを待っている。


ユイルは一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。昨日までなら、ここで“やります”とだけ答えていたかもしれない。けれど今日は違う。王が求めているのは、言葉の形ではなく、その中身だと分かっていた。


「俺は行きます」


静かな声だった。それでも、思っていたよりずっと遠くまで届いた気がした。


「選ばれたからじゃありません」


王の目がわずかに細くなる。


「怖いです。逃げられるなら、逃げたいとも思いました。でも、何もしないまま終わる方が、もっと嫌です」


そこで一度、言葉が止まる。だが、止めなかった。


「三年前の俺は、何もできませんでした。言われるまま連れていかれて、立っているだけで終わった。昨日までだって、倒されて、立たされて、それだけでした。でも――昨日、少しだけ分かったんです。怖くても、前に出ることはできる。止まらないって、自分で決めることはできる」


王は何も言わない。ただ、聞いている。


「だから行きます」


ユイルははっきりと言った。


「魔の王を討つために。そして、あの時のままの自分で終わらないために」


言い切った瞬間、胸の奥で何かが静かに収まった。正しい答えかどうかは分からない。立派な言葉でもないのだろう。それでも、これが今の自分の本当の答えだと分かる。


しばしの沈黙のあと、王はゆっくりと頷いた。


「よい」


その一言は短かったが、重みがあった。


「今のは、昨日のような勢いの言葉ではない。ようやく、お主自身の言葉になった」


ユイルは何も答えない。ただ、まっすぐ前を見ていた。


「では、旅支度を進めるとしよう」


王がそう言った、その時だった。


「待ってください」


王の間に、場違いなくらいよく通る少女の声が響いた。


ユイルが目を向けるより早く、広間の入口にいた衛兵たちがわずかにざわつく。そこに立っていたのは、ミレアだった。隣には腕を組んだままのガルドがいる。止めに来たのか、それとも連れてきたのか、表情だけでは分からない。


「ミレア」


ガルドの低い声にも、ミレアは怯まなかった。


「昨日の話、ちゃんとしに来たの」


そう言って、そのまま広間の中央まで歩いてくる。王の前だというのに、足取りには妙な迷いがない。


「無礼を承知で申し上げます、陛下」


形だけは整った礼をしたあと、ミレアは顔を上げた。


「ユイルが行くなら、私も行きます」


空気が変わる。周囲の視線が一斉に彼女へ集まった。


王は驚いた様子もなく、静かに問う。


「理由は何だ」


ミレアは少しも考え込まずに答えた。


「一人で行かせると危なっかしいからです」


広間の端で誰かが息を詰める気配がした。だがミレアは構わず続ける。


「昨日、見ました。こいつは前に出ます。怖くても止まらない。たぶん、これからもっとそうなります。でも、だからこそ危ない。一人だと、自分が壊れるまで行くと思う」


ユイルは思わず眉をひそめたが、否定はできなかった。


「だったら、隣で止める人がいた方がいい。引っ張る人がいた方がいい。だから、私が行きます」


王の視線がガルドへ向く。


「ガルド、お主はどう考える」


ガルドはしばらく答えなかった。娘を見るでもなく、王を見るでもなく、ただ一度だけ深く息を吐く。


「騎士として言うなら、未熟です」


低い声だった。


「ユイルも、ミレアも、まだ青い。死地へ送るには早すぎる」


そこで言葉を切り、わずかに視線を動かす。


「だが、父として言えば――止めても行く顔をしています」


ミレアが少しだけ口元を緩める。


「笑うな」


「笑ってないよ」


「笑っている」


そんなやりとりが、張りつめた空気の中に奇妙な隙間を作った。


王はその二人を見比べ、それからユイルに目を向ける。


「お主はどう思う」


問われたのは、ミレアの同行についてだった。


ユイルは少しだけ黙った。昨日の夜、勝手にしろとは言った。だがそれは、半分は本音で、半分は答えを先送りにしただけだったのかもしれない。今ここで、本当に決めなければならない。


ミレアは強い。少なくとも、今の自分よりはずっと。昨日、隣に立たれて初めて分かったこともある。一人で進むより、誰かがいる方が怖くないことも、少しだけ。


「……来るなら、止めません」


やっとそれだけ言う。


王が眉をわずかに上げる。


「止めぬ、では弱いな」


「……一緒に来てほしい、です」


言い直した時、自分でも驚くほどその言葉は自然に出た。


ミレアが一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑う。


「うん。それでいい」


王はその様子を静かに見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「よかろう。ただし条件がある」


空気が再び引き締まる。


「ミレア、お主もまた、自らの意思で選んだことを示せ。護衛ではなく、ただの付き添いでもなく、お主自身が行く理由を証明せよ」


ミレアは一歩、前へ出た。


「証明します」


「では三日後、出立前に試験を行う」


王の声は、もはや決定そのものだった。


「ユイルとミレア、二人で受けよ。その結果をもって、同行を認める」


三日後。


その短さに、ユイルはわずかに息を呑む。準備する時間など、ほとんどないに等しい。


だがミレアは違った。


「三日もくれるんだ」


むしろ少し楽しそうに言う。


ガルドが頭を押さえるように目を閉じた。


「お前はもう少し緊張感を持て」


「持ってるよ、これでも」


「見えん」


そんなやりとりを見ながら、ユイルは初めて、自分一人の話ではなくなったのだと実感した。


怖さは消えない。


それでも、少しだけ違う。


隣に立つ者がいるというだけで、見える景色がこんなにも変わるのかと思った。


「下がってよい」


王の言葉に、二人は礼をした。


広間を出る直前、ユイルはふと振り返る。王はもうこちらを見ていなかった。だが、確かに聞き届けられたのだと分かる。


扉の外へ出ると、張りつめていた空気がようやくほどけた。


「ねえ」


ミレアが歩きながら、横目でこちらを見る。


「さっきの、“一緒に来てほしい”ってやつ、ちょっとよかった」


「……うるさい」


「照れてる?」


「違う」


「いや、今のは照れてるでしょ」


ガルドが深くため息をつく。


「お前たちは三日後に試験だ。少しは危機感を持て」


「持ってるよ、お父さん」


「口だけだ」


言い合う二人を横で見ながら、ユイルは小さく息を吐いた。


三日後。


出立前の試験。


そこを越えれば、本当に始まる。


王に選ばれた子どもとしてではなく、自分で選んだ者として。


そしてその始まりには、もう一人、隣に立つ者がいた。

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