選ぶということ
王の間は、三年前と何も変わっていなかった。高く張り出した天井も、声を吸い込むような静寂も、そこに立つだけで息が詰まりそうになる空気も、すべてがあの日のまま残っている。それでもユイルは、あの時のように足がすくむことはなかった。緊張はあるが、逃げ出したいという衝動はもうない。
変わったのは場所ではなく、自分の方なのだと、嫌でも理解できる。
「顔を上げよ」
王の声が静かに落ちる。ユイルは一瞬も迷わず視線を上げた。三年前にはできなかったその動作を、今は自然にできている自分に、ほんのわずかな違和感を覚えながら。
「ずいぶんと変わったな。初めて会ったときは、立つことすらままならぬ顔をしておった」
ユイルは答えなかった。その言葉を否定する理由がないからだ。あの頃の自分は、ただ立っているだけで精一杯で、何も選べず、何も決められなかった。
「今はどうだ。まだ、立てぬか」
試すような問いだった。しかし、その問いに対する答えはすでに決まっている。
「立てます」
短い言葉だったが、声に迷いはなかった。
王は小さく頷く。その仕草一つで、場の空気がわずかに引き締まる。
「お主は選ばれた存在じゃ。その意味は、もう理解しておるな」
ユイルはゆっくりと息を吸い、吐いた。三年前と同じ言葉なのに、今は重さが違う。意味を理解してしまったからこそ、軽く受け止めることができない。
「役目は一つ。魔の王を討つことじゃ」
静寂が落ちる。その言葉は、命令ではなく事実のように響いた。
怖い、という感覚が遅れて胸の奥に浮かぶ。だがそれを否定することはしない。怖いままでいいと、今は思える。
そのとき、王がわずかに視線を細めた。
「拒むこともできる」
予想外の言葉に、ユイルの思考が止まる。
「ここで終わらせることもできる。誰も責めはせぬ。お主一人が背負うには重すぎる運命であることも、理解しておる」
優しい言葉だった。しかし、その優しさが逆に重い。
ユイルは言葉を返せなかった。頭の中に浮かんだのは理屈ではなく、これまでの記憶だった。倒され続けた訓練の日々、何度も諦めかけた瞬間、それでも立たされ続けた時間。そして昨日、自分の意思で一歩踏み出したあの瞬間。
あのとき、自分は確かに“選んだ”。
逃げることもできたはずなのに、前に出ることを選んだ。
その事実が、今の自分を支えている。
「……やります」
気づけば口に出ていた。今度は勢いではない。考えた上での言葉だった。
王はその答えを聞いても、すぐには何も言わなかった。
「では、一晩考えよ」
ユイルは思わず顔を上げる。
「明日の朝、改めて答えを聞こう。今のは“決意”ではあっても、“覚悟”ではない」
その言葉は静かだったが、逃げ道は残していなかった。本当に選ばせるつもりなのだと分かる。
「……はい」
ユイルは小さく頷いた。
王の間を出ると、重い扉が背後で閉じる。その音は三年前と同じはずなのに、どこか違って聞こえた。あのときは押し出されるように外へ出たが、今は自分の足でここを離れているからだ。
外に出ると、夜の空気が頬に触れた。冷たいが、不思議と落ち着く。
「どうだった?」
横から声がかかる。ミレアが壁にもたれながらこちらを見ていた。
「顔で分かるよ。だいたい」
ユイルは少しだけ視線を逸らす。
「……明日、決めることになった」
「へえ。もう決めてる顔してるのに?」
図星だった。言い返せない。
ミレアは軽く息を吐いてから、少しだけ真面目な顔になる。
「怖い?」
「……怖い」
即答だった。隠す理由がない。
「そっか」
ミレアはあっさり頷く。
「私も怖いよ。でも、一人で行く方がもっと嫌」
その言葉に、ユイルは思わず顔を上げた。
「だからさ、行くなら一緒に行く」
軽い口調だったが、言っている内容は軽くなかった。
「お父さんにも話してるし、止められても行くつもり」
ユイルは言葉を失う。無茶だと思うが、その無茶が少しだけ理解できてしまう。
「……なんでそこまで」
ミレアは少し考え、それから笑った。
「だって、面白そうじゃん」
あまりにも単純な理由だった。
「世界がどうとか、魔王がどうとか、そういうの全部ひっくるめて、ちょっと見てみたい」
ユイルは何も言わなかった。ただ、その言葉が妙に頭に残る。
自分は使命で動こうとしている。だが、それだけではない気もしていた。
「……勝手にしろ」
小さく言う。
「うん、勝手にする」
ミレアはあっさり返した。
夜の風がゆっくりと吹き抜ける。
明日になれば、すべてが決まる。
それでも――今はまだ、その直前に立っているだけだった。




