強くならなきゃ
木剣がぶつかる音は、思ったよりも軽かった。
乾いた音が空き地に響き、その余韻が消えるより先に、ユイルは半歩だけ後ろへ下がっていた。避けたつもりだったが、頬のすぐ横を風が抜けた感覚が残っている。あと少し遅れていれば、まともに食らっていた。
「今の、避けるんだ」
ミレアが少しだけ目を細める。その言い方は驚きというより、興味に近かった。
「……たまたまだ」
ユイルは短く返す。余裕があって言ったわけではない。ただ、息を整えるので精一杯だった。痛みはまだ体の奥に残っているし、腕も重い。それでも、目の前の少女はガルドとは違う。潰すためではなく、見ている。試している。その違いだけは、はっきり分かった。
「へえ」
ミレアは軽く頷き、間を置かずに次の一歩を踏み出した。考える時間を与えない速さだった。浅く見えた踏み込みが、次の瞬間には完全に距離を潰している。
速い。
だが、見えなくはない。
ユイルは木剣を上げた。衝撃が腕に伝わり、手のひらが痺れる。それでも受けきれないほどではない。少なくとも、さっきまでの訓練よりはずっとましだった。
「昨日より全然いいじゃん」
ミレアはそう言って、軽く力を逃がすように後ろへ下がった。余裕のある動きだった。受け止めたまま押し潰してくるガルドとは、やはり違う。
「……日々成長中だから」
「そっか」
気のないような返事をしながら、すぐにまた来る。
今度は横からだった。
ユイルは踏み替える。完全には追いつかない。だが身体は動いた。木剣を振る。空を切る。それでもその一振りのせいで、ミレアは一瞬だけ距離を取り直した。
「今の、悪くない」
その言葉に、ユイルは少しだけ眉を動かした。
褒められた、のかもしれない。
ガルドとの訓練では、何をしても「遅い」としか言われなかった。できたことを見られることはなかった。だが、目の前の少女は違う。ちゃんと見て、ちゃんと返してくる。
「……もう一回」
気づけば、そう言っていた。
自分でも少し驚くくらい自然に。
ミレアは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑う。
「いいね」
今度は正面から来た。
速い。
だが、さっきよりは分かる。
ユイルは踏み込む。避けるだけではなく、合わせにいく。木剣がぶつかり、重い音が鳴る。腕が痺れる。それでも弾かれなかった。
「……っ」
そのまま押す。
無理だと分かっている。それでも止まらない。止まれば、また何もできなかった自分に戻る気がした。
「おっと」
ミレアが軽くいなす。力の流れを変えられ、バランスが崩れる。ユイルは足を踏み直した。
転ばない。
それだけで、昨日までとは違っていた。
「ねえ」
木剣を合わせたまま、ミレアが言う。
「なんでそんなに前出るの?」
「……分からない」
正直に答える。
考えている余裕なんてない。ただ、止まったら終わる気がして、前に出ているだけだった。
「怖くない?」
「……怖い」
即答だった。
怖い。ずっと怖い。さっきまでの訓練も、今この瞬間も。
「でも、止まる方が怖い」
口に出してから、自分で少しだけ驚く。
ミレアは何も言わなかった。ただ、少しだけ視線を変えた。
「……へぇ」
小さく呟く。
次の瞬間、剣が離れた。
「今日はこのくらいにしとこ」
あっさり言う。
ユイルは一瞬遅れて息を吐いた。肩が下がる。全身から力が抜けていく。気づけば、手が少し震えていた。
「……もう終わりか」
「もっとやりたい?」
「……いや」
正直に答える。これ以上やったら、多分立てない。
ミレアがくすっと笑う。
「だよね」
そのまま木剣を肩に担ぐ。さっきまでの緊張が嘘みたいに軽い動きだった。
「ねえ、ユイル」
「……なんだ」
「さっきの、ちょっとよかったよ」
さらっと言う。
「……どれ」
「前出たとこ」
ユイルは少しだけ黙る。
うまく返せなかった。
「……そうか」
それだけ言う。
「うん。ああいうの、嫌いじゃない」
ミレアは軽く笑うと、そのまま後ろへ下がる。
「じゃあ、また明日ね」
「……明日もやるのか」
「そりゃやるでしょ」
当然みたいに言う。
「どうせあんた、逃げないでしょ」
その言葉に、ユイルは少しだけ眉を動かした。
逃げない。
さっき自分で口にしたばかりのことだった。
「……逃げない」
「でしょ」
ミレアはそれ以上何も言わない。ただ、軽く手を振ってその場を離れていく。ガルドもまた、腕を組んだまま一度だけこちらを見て、何も言わずに踵を返した。
ユイルは一人、空き地に残された。
夕方の風が少しだけ強くなる。体は重い。痛みもある。息もまだ整っていない。それでも、不思議とさっきより楽だった。
怖さは消えていない。だが、押し潰されるだけの怖さではなかった。少しだけ前に出てもいい気がする。少しだけ、自分でも何かできる気がする。
「……明日も」
小さく呟く。
言葉にした瞬間、逃げ道が減る。だが、それでいいとも思った。
その時だった。
「――ユイル」
聞き慣れない声が背後から落ちる。
振り向くと、立っていたのは城の使いの兵だった。
「陛下がお呼びだ」
短い伝令。
それだけで、空気が変わる。
王。
あの場所。
三年前の空気が、一瞬で蘇る。
「……今からか」
「そうだ」
兵はそれ以上何も言わない。
ユイルは少しだけ目を閉じる。呼ばれる理由は分かっていた。分かっているからこそ、行きたくないという気持ちもあった。
だが――
「……行く」
目を開ける。
逃げない。それだけは、さっき自分で決めたばかりだ。
ユイルは歩き出す。城の奥へ。あの場所へ。
そしてまだ知らない。
明日、自分が王の前で――本当に“選ぶ”ことになるのだと。




