聖なる印を宿した少年
王の間は、広かった。
広いはずなのに、ユイルは少しも楽になれなかった。むしろ逆だった。床も壁も天井も、すべてが大きすぎて、自分だけが場違いなほど小さく感じる。息を吸うだけでも怒られそうな静けさが、石造りの空間いっぱいに張りつめていて、十歳のユイルは、その真ん中にたった一人で立たされていた。
足元の石床は冷たく、裸足ではないはずなのに、その冷たさだけが妙にはっきりと伝わってくる。逃げたい、と何度も思った。けれど、逃げていい場所ではないことくらいは、子どものユイルにも分かった。ここで勝手に動けば、それだけで何かが終わる。そんな気がして、ユイルは肩を強ばらせたまま、じっと前だけを見ていた。
「……この子が、そうなのか」
高い場所から落ちてきた声に、ユイルはびくりと肩を震わせた。顔を上げると、玉座に座る王の視線が、まっすぐこちらを射抜いている。逃げ場はない。ただ見られているだけなのに、心の中まで探られているような気がした。
「間違いないのだな」
王が隣に控える神官へ問う。白い法衣に身を包んだ老人は、迷うことなく深く頷いた。
「は。確かに視えました。この子の内には“印”があります」
印。
ユイルはその言葉を頭の中で繰り返した。聞いたことのない言葉ではない。けれど、それが自分にどう関わるのかは分からない。ただ、その場にいる大人たちの空気が一段と重くなったのを感じて、良い話ではないのだと察した。
「魔の王は、いずれ眷属を束ね、この国のみならず、人の世すべてを滅ぼすでしょう」
神官は静かに、けれどはっきりと告げた。難しい言葉も混ざっていたが、“滅ぼす”という部分だけは、いやに鮮明に耳に残る。ユイルは無意識に喉を鳴らした。誰も自分の方を見ていないようでいて、実際には全員が見ている。そんな奇妙な圧迫感があった。
「では、対抗する術はあるのか」
王の問いに、神官はわずかに間を置いた。そのほんの短い沈黙だけで、王の間の空気はさらに冷たくなる。
「ただ一つ。“聖なる印”を宿して生まれし者が、輝きの剣を手にした時のみ、魔の王は討たれます」
そこで初めて、何人かが小さく息を呑む音がした。そして次の瞬間、王の視線が再びユイルに落ちる。
「……つまり、その者がこの子だと?」
「は」
たった一音の返答だった。だが、それだけで決まってしまったような気がした。
「え……?」
思わず声が漏れた。小さな、情けない声だった。だが誰も驚かない。むしろ、その程度の反応など最初から予想していたような顔をしている。
冗談じゃない。そんなこと、あるはずがない。ユイルはそう言いたかった。自分はただの子どもだ。剣だってまともに握ったことがないし、魔王なんて言葉は絵本や昔話の中にしかないと思っていた。それなのに、いきなり「お前だけが世界を救える」と言われても、分かるはずがなかった。
けれど、王はそんなユイルの戸惑いを待たなかった。
「調べはついておる」
王は窓の外を見るように少しだけ視線を遠くへ向けてから、静かに続けた。
「魔の王は、この大陸の果てを越えた先にいる。いずれこの子には、そこへ向かってもらうことになる」
そこへ向かう。自分が。何のために。どうやって。問いは次々に浮かぶのに、口は動かなかった。怖かったからだ。ここで何かを言えば、それこそ本当に決まってしまう気がしたし、逆に何も言わなくてももう決まってしまっている気もした。
「その道は穏やかではない」
王はゆっくりとユイルを見た。
「だからこそ、その身に相応しい力を得ねばならぬ。守られる側ではいられぬのだ」
その言葉だけは、子どものユイルにも分かった。
守ってもらえない。
もう、自分は“守られる側”ではいられない。
それは、世界を救えとか魔王を倒せとかいう大きな話よりも、ずっとはっきりと胸に落ちた。急に足元がなくなったような、そんな感覚だった。
「連れて行け」
王がそう言った瞬間、それまで黙っていた大人たちが一斉に動いた。ユイルの腕が掴まれる。冷たい手だった。びくりと身を縮めたが、抵抗はできなかった。抵抗しても無駄だと分かってしまったからだ。
歩かされる。重い扉の方へ。ユイルは振り返らなかった。いや、振り返れなかった。後ろを見たら、もう二度と戻れないことを認める気がしたからだ。
そして、王の間の扉が閉まる。
その音だけが、妙に大きく響いた。
あの時、ユイルは何もできなかった。
怒ることも、泣くことも、逃げることも、誰かに助けを求めることも。ただ、連れていかれるまま歩いていた。自分の未来が自分抜きで決められていくのを、黙って見ていることしかできなかった。
――三年後。
「遅い」
背後から落ちてきた声とほぼ同時に、衝撃が走った。
ユイルの身体が揺れる。肩に鈍い痛みが広がり、一歩遅れて何が起きたのか理解する。打たれたのだ。振り向くより先に。
「立て」
短い命令が飛ぶ。十三歳になったユイルは、歯を食いしばりながら木剣を握り直した。広い訓練場には朝の風が吹き抜けている。まだ日も高くない時間だというのに、額にはもう汗が浮かんでいた。
目の前に立つのは、王都騎士団長ガルド。王都でも屈指の実力者と呼ばれる男であり、ユイルの教官でもある。教官、と呼ぶにはあまりにも容赦がなかった。
「構えろ」
ユイルは木剣を上げる。腕が重い。昨日の痛みもまだ消えていない。だが、遅いと分かっていても従うしかない。
「遅い」
また同じ言葉。次の瞬間、腹に衝撃が突き刺さった。息が抜ける。声も出ないまま膝が折れそうになり、ユイルは慌てて足に力を込めた。
「今のが敵だ。待たない。教えない。加減もしない」
低い声が落ちる。感情は感じられない。ただ事実を告げているだけだ。
「立て」
またそれだ、と思いながら、ユイルは何とか身体を起こす。苦しい。痛い。逃げたい。正直、それしか頭に浮かばない。それでも立つのは、立たなければ次が来ると知っているからだし、倒れたままでは終われないという意地も、少しだけ芽生えていたからだった。
打たれる。転ぶ。拾う。構える。弾かれる。息が詰まる。立つ。
それの繰り返しだった。
何度やったのか、途中から数えるのもやめた。朝の冷たさはとっくに消え、訓練場には乾いた息遣いと木剣がぶつかる音だけが残っている。最初の頃は、どうして自分だけがこんな目に遭うのかと思っていた。けれど今は違う。どうして、ではない。ここで立てるかどうか、それだけだった。
「……まだ立つか」
ガルドの声が、ほんの少しだけ変わった気がした。だがユイルには返す余裕がない。ただ木剣を構え直し、震える足で立っているだけで精一杯だった。
「……いい」
その一言と同時に、全身から力が抜けた。
ユイルはそのまま石畳に崩れ落ちる。頬に当たる床が冷たい。気持ちいいとすら思った。遠くで声がする。ガルドの声だ。
「覚えておけ。お前は特別だ」
特別。
その言葉は、昔から何度も言われてきた。でも、少しも嬉しくない。むしろその言葉を聞くたびに、普通でいられないことを思い知らされる。
「だから、壊れろ」
かすれた意識の中で、その言葉だけがやけにはっきりと残った。
次に目を開けた時、見慣れない天井があった。
白い。薬草の匂いがする。医務室だ、と気づくのに少し時間がかかった。身体を動かそうとして、すぐにやめる。全身が痛い。重い。指先まで自分のものじゃないみたいだった。
「起きたか」
横から声がした。白衣を着た女性が立っている。医務官のセシルだ。年齢はよく分からないが、いつも落ち着いていて、何を考えているのか読みづらい人だった。
「……水」
ユイルがそう言うと、セシルは無言で水の入った杯を差し出してくる。ユイルはそれを両手で受け取り、ゆっくり喉へ流し込んだ。乾ききった身体に、水が染みる。
「団長相手にあれなら、まだいい方だな」
軽い口調で言うが、慰めではない。ただの事実だ。
「明日もある」
その一言で、ユイルの中で何かが止まった。
明日も。
また同じことをやるのか。打たれて、倒されて、立たされて、壊れろと言われる。それが続くのか。
一瞬だけ、逃げたいという思いが胸をよぎる。今ならまだ遅くないのではないか。どこかへ逃げてしまえば。王都の外へ。名前も知らない土地へ。
でも、その考えはすぐに消えた。消したというより、最初から選べないものだった。逃げた先に何があるのか分からないし、何より逃げた自分を、自分が一番嫌いになりそうだった。
「……やります」
気づけば、そう答えていた。
声は小さく、喉も痛かったが、自分でも驚くくらいはっきり出た。セシルは少しだけ目を細める。
「そうか」
それだけ言う。止めもしないし、励ましもしない。ただ受け入れる。
「じゃあ、壊れる準備をしておけ」
冗談ではなかった。
医務室を出ると、夕方の風が少しだけ頬を撫でた。訓練場を抜け、部屋へ戻る。そのはずだったのに、頭の中にはさっきの言葉が残り続けていた。
特別。
壊れろ。
やります。
どれも自分で選んだようでいて、自分で選んでいない言葉ばかりだ。そんなことを考えながら歩いていると、後ろから声が飛んだ。
「――おい」
ユイルは足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、ガルドだった。
「まだ動けるな」
感情のない声。確認しているだけだ。
「……はい」
ユイルは答える。
「なら来い」
理由は言わない。聞かせる気もないらしい。ガルドはそのまま歩き出し、ユイルは少し迷ってから後を追った。連れて行かれたのは、訓練場のさらに奥にある小さな空き地だった。普段は使われていない場所で、草もほとんど生えていない。
「ミレア」
ガルドが短く呼ぶ。
「はーい」
返ってきたのは、場違いなくらい軽い声だった。
奥から現れたのは、ユイルと同じくらいの年頃の少女だった。明るい茶色の髪を後ろで束ね、木剣を肩に担いでいる。立ち方が軽い。けれど隙だらけというわけではなかった。むしろその逆で、すぐにでも動けるような、妙な安定感がある。
「こいつだ」
ガルドが言う。
「え、この子が?」
ミレアは目を丸くした。
「思ったより普通だね」
その一言に、ユイルはほんの少しだけ言葉に詰まる。普通、と言われたのは久しぶりな気がした。選ばれたとか特別だとか、そんな言葉ばかりを聞かされてきたからだ。
「今日から組め」
ガルドはそれだけ言った。
「え、いきなり?」
「文句あるか」
「ないけどさ」
ミレアは肩をすくめて、ユイルの方を見る。
「よろしく」
その声音は軽い。だが、馬鹿にしている感じではなかった。距離を詰めすぎず、突き放しすぎもしない、ちょうどいい軽さ。
「……ユイル」
「知ってる」
即答だった。
「お父さんから聞いてる」
お父さん。
その言葉に、ユイルはガルドを見る。ガルドは何も言わない。ただ、腕を組んだままこちらを見ている。
「じゃあ、軽くやろっか」
ミレアは木剣を拾い直し、くるりと手の中で回した。無駄のない動きだった。
「手加減する?」
「……しなくていい」
ユイルが答えると、ミレアは少しだけ笑う。
「そっか」
次の瞬間、距離が消えた。
速い、と思った時にはもう剣が来ている。ユイルは反射的に身を引く。完全には避けきれない。だが直撃もしない。
「へえ」
ミレアが目を細めた。
「もう動けるんだ」
二撃目が来る。今度は見えた。三撃目。辛うじて外す。痛みは残っているのに、身体はちゃんと動いた。
ミレアの表情が少しだけ変わる。
「ねえ」
軽く息を吐きながら、ガルドへ向けて言う。
「本当に十三歳?」
「そうだ」
短い返答。
「……やるね」
ミレアはそう言って、もう一歩踏み込んだ。
「じゃあ――本気でいくね」
空気が少し変わる。
ユイルは木剣を握り直す。腕は痛い。足も重い。けれど、不思議とさっきまでの訓練とは違った。押し潰されるだけではない。目の前の相手は強いが、こちらを一方的に壊そうとしているわけではない。自分がどこまでできるのか、試されているような感覚があった。
「……来い」
小さく言う。
ミレアが笑った。
「いいね、それ」
次の瞬間、剣がぶつかる音が、静かな空き地に響いた。




