表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

聖なる印を宿した少年

王の間は、広かった。


広いはずなのに、ユイルは少しも楽になれなかった。むしろ逆だった。床も壁も天井も、すべてが大きすぎて、自分だけが場違いなほど小さく感じる。息を吸うだけでも怒られそうな静けさが、石造りの空間いっぱいに張りつめていて、十歳のユイルは、その真ん中にたった一人で立たされていた。


足元の石床は冷たく、裸足ではないはずなのに、その冷たさだけが妙にはっきりと伝わってくる。逃げたい、と何度も思った。けれど、逃げていい場所ではないことくらいは、子どものユイルにも分かった。ここで勝手に動けば、それだけで何かが終わる。そんな気がして、ユイルは肩を強ばらせたまま、じっと前だけを見ていた。


「……この子が、そうなのか」


高い場所から落ちてきた声に、ユイルはびくりと肩を震わせた。顔を上げると、玉座に座る王の視線が、まっすぐこちらを射抜いている。逃げ場はない。ただ見られているだけなのに、心の中まで探られているような気がした。


「間違いないのだな」


王が隣に控える神官へ問う。白い法衣に身を包んだ老人は、迷うことなく深く頷いた。


「は。確かに視えました。この子の内には“印”があります」


印。


ユイルはその言葉を頭の中で繰り返した。聞いたことのない言葉ではない。けれど、それが自分にどう関わるのかは分からない。ただ、その場にいる大人たちの空気が一段と重くなったのを感じて、良い話ではないのだと察した。


「魔の王は、いずれ眷属を束ね、この国のみならず、人の世すべてを滅ぼすでしょう」


神官は静かに、けれどはっきりと告げた。難しい言葉も混ざっていたが、“滅ぼす”という部分だけは、いやに鮮明に耳に残る。ユイルは無意識に喉を鳴らした。誰も自分の方を見ていないようでいて、実際には全員が見ている。そんな奇妙な圧迫感があった。


「では、対抗する術はあるのか」


王の問いに、神官はわずかに間を置いた。そのほんの短い沈黙だけで、王の間の空気はさらに冷たくなる。


「ただ一つ。“聖なる印”を宿して生まれし者が、輝きの剣を手にした時のみ、魔の王は討たれます」


そこで初めて、何人かが小さく息を呑む音がした。そして次の瞬間、王の視線が再びユイルに落ちる。


「……つまり、その者がこの子だと?」


「は」


たった一音の返答だった。だが、それだけで決まってしまったような気がした。


「え……?」


思わず声が漏れた。小さな、情けない声だった。だが誰も驚かない。むしろ、その程度の反応など最初から予想していたような顔をしている。


冗談じゃない。そんなこと、あるはずがない。ユイルはそう言いたかった。自分はただの子どもだ。剣だってまともに握ったことがないし、魔王なんて言葉は絵本や昔話の中にしかないと思っていた。それなのに、いきなり「お前だけが世界を救える」と言われても、分かるはずがなかった。


けれど、王はそんなユイルの戸惑いを待たなかった。


「調べはついておる」


王は窓の外を見るように少しだけ視線を遠くへ向けてから、静かに続けた。


「魔の王は、この大陸の果てを越えた先にいる。いずれこの子には、そこへ向かってもらうことになる」


そこへ向かう。自分が。何のために。どうやって。問いは次々に浮かぶのに、口は動かなかった。怖かったからだ。ここで何かを言えば、それこそ本当に決まってしまう気がしたし、逆に何も言わなくてももう決まってしまっている気もした。


「その道は穏やかではない」


王はゆっくりとユイルを見た。


「だからこそ、その身に相応しい力を得ねばならぬ。守られる側ではいられぬのだ」


その言葉だけは、子どものユイルにも分かった。


守ってもらえない。


もう、自分は“守られる側”ではいられない。


それは、世界を救えとか魔王を倒せとかいう大きな話よりも、ずっとはっきりと胸に落ちた。急に足元がなくなったような、そんな感覚だった。


「連れて行け」


王がそう言った瞬間、それまで黙っていた大人たちが一斉に動いた。ユイルの腕が掴まれる。冷たい手だった。びくりと身を縮めたが、抵抗はできなかった。抵抗しても無駄だと分かってしまったからだ。


歩かされる。重い扉の方へ。ユイルは振り返らなかった。いや、振り返れなかった。後ろを見たら、もう二度と戻れないことを認める気がしたからだ。


そして、王の間の扉が閉まる。


その音だけが、妙に大きく響いた。


あの時、ユイルは何もできなかった。


怒ることも、泣くことも、逃げることも、誰かに助けを求めることも。ただ、連れていかれるまま歩いていた。自分の未来が自分抜きで決められていくのを、黙って見ていることしかできなかった。


――三年後。


「遅い」


背後から落ちてきた声とほぼ同時に、衝撃が走った。


ユイルの身体が揺れる。肩に鈍い痛みが広がり、一歩遅れて何が起きたのか理解する。打たれたのだ。振り向くより先に。


「立て」


短い命令が飛ぶ。十三歳になったユイルは、歯を食いしばりながら木剣を握り直した。広い訓練場には朝の風が吹き抜けている。まだ日も高くない時間だというのに、額にはもう汗が浮かんでいた。


目の前に立つのは、王都騎士団長ガルド。王都でも屈指の実力者と呼ばれる男であり、ユイルの教官でもある。教官、と呼ぶにはあまりにも容赦がなかった。


「構えろ」


ユイルは木剣を上げる。腕が重い。昨日の痛みもまだ消えていない。だが、遅いと分かっていても従うしかない。


「遅い」


また同じ言葉。次の瞬間、腹に衝撃が突き刺さった。息が抜ける。声も出ないまま膝が折れそうになり、ユイルは慌てて足に力を込めた。


「今のが敵だ。待たない。教えない。加減もしない」


低い声が落ちる。感情は感じられない。ただ事実を告げているだけだ。


「立て」


またそれだ、と思いながら、ユイルは何とか身体を起こす。苦しい。痛い。逃げたい。正直、それしか頭に浮かばない。それでも立つのは、立たなければ次が来ると知っているからだし、倒れたままでは終われないという意地も、少しだけ芽生えていたからだった。


打たれる。転ぶ。拾う。構える。弾かれる。息が詰まる。立つ。


それの繰り返しだった。


何度やったのか、途中から数えるのもやめた。朝の冷たさはとっくに消え、訓練場には乾いた息遣いと木剣がぶつかる音だけが残っている。最初の頃は、どうして自分だけがこんな目に遭うのかと思っていた。けれど今は違う。どうして、ではない。ここで立てるかどうか、それだけだった。


「……まだ立つか」


ガルドの声が、ほんの少しだけ変わった気がした。だがユイルには返す余裕がない。ただ木剣を構え直し、震える足で立っているだけで精一杯だった。


「……いい」


その一言と同時に、全身から力が抜けた。


ユイルはそのまま石畳に崩れ落ちる。頬に当たる床が冷たい。気持ちいいとすら思った。遠くで声がする。ガルドの声だ。


「覚えておけ。お前は特別だ」


特別。


その言葉は、昔から何度も言われてきた。でも、少しも嬉しくない。むしろその言葉を聞くたびに、普通でいられないことを思い知らされる。


「だから、壊れろ」


かすれた意識の中で、その言葉だけがやけにはっきりと残った。


次に目を開けた時、見慣れない天井があった。


白い。薬草の匂いがする。医務室だ、と気づくのに少し時間がかかった。身体を動かそうとして、すぐにやめる。全身が痛い。重い。指先まで自分のものじゃないみたいだった。


「起きたか」


横から声がした。白衣を着た女性が立っている。医務官のセシルだ。年齢はよく分からないが、いつも落ち着いていて、何を考えているのか読みづらい人だった。


「……水」


ユイルがそう言うと、セシルは無言で水の入った杯を差し出してくる。ユイルはそれを両手で受け取り、ゆっくり喉へ流し込んだ。乾ききった身体に、水が染みる。


「団長相手にあれなら、まだいい方だな」


軽い口調で言うが、慰めではない。ただの事実だ。


「明日もある」


その一言で、ユイルの中で何かが止まった。


明日も。


また同じことをやるのか。打たれて、倒されて、立たされて、壊れろと言われる。それが続くのか。


一瞬だけ、逃げたいという思いが胸をよぎる。今ならまだ遅くないのではないか。どこかへ逃げてしまえば。王都の外へ。名前も知らない土地へ。


でも、その考えはすぐに消えた。消したというより、最初から選べないものだった。逃げた先に何があるのか分からないし、何より逃げた自分を、自分が一番嫌いになりそうだった。


「……やります」


気づけば、そう答えていた。


声は小さく、喉も痛かったが、自分でも驚くくらいはっきり出た。セシルは少しだけ目を細める。


「そうか」


それだけ言う。止めもしないし、励ましもしない。ただ受け入れる。


「じゃあ、壊れる準備をしておけ」


冗談ではなかった。


医務室を出ると、夕方の風が少しだけ頬を撫でた。訓練場を抜け、部屋へ戻る。そのはずだったのに、頭の中にはさっきの言葉が残り続けていた。


特別。


壊れろ。


やります。


どれも自分で選んだようでいて、自分で選んでいない言葉ばかりだ。そんなことを考えながら歩いていると、後ろから声が飛んだ。


「――おい」


ユイルは足を止め、振り返る。


そこに立っていたのは、ガルドだった。


「まだ動けるな」


感情のない声。確認しているだけだ。


「……はい」


ユイルは答える。


「なら来い」


理由は言わない。聞かせる気もないらしい。ガルドはそのまま歩き出し、ユイルは少し迷ってから後を追った。連れて行かれたのは、訓練場のさらに奥にある小さな空き地だった。普段は使われていない場所で、草もほとんど生えていない。


「ミレア」


ガルドが短く呼ぶ。


「はーい」


返ってきたのは、場違いなくらい軽い声だった。


奥から現れたのは、ユイルと同じくらいの年頃の少女だった。明るい茶色の髪を後ろで束ね、木剣を肩に担いでいる。立ち方が軽い。けれど隙だらけというわけではなかった。むしろその逆で、すぐにでも動けるような、妙な安定感がある。


「こいつだ」


ガルドが言う。


「え、この子が?」


ミレアは目を丸くした。


「思ったより普通だね」


その一言に、ユイルはほんの少しだけ言葉に詰まる。普通、と言われたのは久しぶりな気がした。選ばれたとか特別だとか、そんな言葉ばかりを聞かされてきたからだ。


「今日から組め」


ガルドはそれだけ言った。


「え、いきなり?」


「文句あるか」


「ないけどさ」


ミレアは肩をすくめて、ユイルの方を見る。


「よろしく」


その声音は軽い。だが、馬鹿にしている感じではなかった。距離を詰めすぎず、突き放しすぎもしない、ちょうどいい軽さ。


「……ユイル」


「知ってる」


即答だった。


「お父さんから聞いてる」


お父さん。


その言葉に、ユイルはガルドを見る。ガルドは何も言わない。ただ、腕を組んだままこちらを見ている。


「じゃあ、軽くやろっか」


ミレアは木剣を拾い直し、くるりと手の中で回した。無駄のない動きだった。


「手加減する?」


「……しなくていい」


ユイルが答えると、ミレアは少しだけ笑う。


「そっか」


次の瞬間、距離が消えた。


速い、と思った時にはもう剣が来ている。ユイルは反射的に身を引く。完全には避けきれない。だが直撃もしない。


「へえ」


ミレアが目を細めた。


「もう動けるんだ」


二撃目が来る。今度は見えた。三撃目。辛うじて外す。痛みは残っているのに、身体はちゃんと動いた。


ミレアの表情が少しだけ変わる。


「ねえ」


軽く息を吐きながら、ガルドへ向けて言う。


「本当に十三歳?」


「そうだ」


短い返答。


「……やるね」


ミレアはそう言って、もう一歩踏み込んだ。


「じゃあ――本気でいくね」


空気が少し変わる。


ユイルは木剣を握り直す。腕は痛い。足も重い。けれど、不思議とさっきまでの訓練とは違った。押し潰されるだけではない。目の前の相手は強いが、こちらを一方的に壊そうとしているわけではない。自分がどこまでできるのか、試されているような感覚があった。


「……来い」


小さく言う。


ミレアが笑った。


「いいね、それ」


次の瞬間、剣がぶつかる音が、静かな空き地に響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ