③甘い誘惑と、歪む世界
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水晶洞で倒れてから、エリサはしばらく体調が悪かった。
見てはいけないものを見てしまった。
触れてはいけないものに触れそうになった。
そんな気がしてならない。
(あれはなんだったんだろう……?)
怖い。すべてが壊れてしまいそうな恐怖。
なのに、とてもとても惹かれる。
あの向こうに行ってみたい。
━━━━自由。
そこには、それがある。
まだ少しふらつく頭を抑え、エリサは教室を出る。
やっと……きょうの授業が終わった。
しばらくマヤたちと廊下を歩くと、なんと、壁に背を当て、ヒサカが立っている。
ヒサカはエリサを見ると壁から離れる。
淡い笑みを浮かべて近づいてくる。
「やあ。体調悪そうだけど、大丈夫?」
とても心地よい声で、ヒサカはそう言うと、エリサの瞳をのぞき込む。
「今度の休日は、空いてるかな?」
「ヒサカ先輩にデートに誘われた?」
マヤとミーナが寮の部屋で声を荒げる。
「なんで? なんで急にそういう話になるの?」
エリサにだってわからない。
ヒサカはとてもかっこいい。
背が高く、線が細い。服のセンスもいい。
そんな人の隣りを歩くのは、嬉しいというより、落ち着かない。
公園の大きな池の周りの遊歩道を並んで進みながら、エリサは正直困っていた。
「僕はね、」
橋の欄干に手をつき、ヒサカは鯉を見下す。
「入学式のときから、君のこと、見ていたんだよ。
君には、他の子とは違う何かがあるような気がして」
ヒサカが振り向く。
「エリサ。僕のパートナーにならない?」
「ぱ、ぱーとなー??」
エリサは舞い上がった。パートナー=恋人!
落ち着いた様子で、ヒサカはエリサに手を伸ばす。
差し出された右手。
「君は、満足しているかい? 今の自分に。自由のない、この世界に」
ヒサカの瞳に深い何かが宿っている。
「君は、君でいいの?」
ため息をつく。
ヒサカの水色の瞳が頭から離れない。
とても深い━━囚われてしまいそうな瞳。
先輩は、何かを望んでいる━━、
そして。
何かに絶望している。……
「あんなに、なんでも持っていそうな人なのに」
才能も。人望も。容姿もなにもかも。
輝ける未来を約束された━━
あこがれの先輩。
『君はここを卒業して、何をしたいの?
怪我をした人を助けたい? 誰かの癒し手になりたい? 立派だね━━』
だけど、目が言っていた。━━《《くだらない》》。
『それが君の望み?』
《《嘘だろう》》?
『消去法でそれしかなかった。それにしかしがみつけなかった。
或いは、周りに押しつけられた。選択肢がなかった。情報が少なすぎた。能力が追いつかなかった……なんでもいい。
だけど、もし━━、』
夢見るように、彼は笑った。
『もし、真になんでもできるとしたら?』
「エリサ! エリサ……」
声に思考が途切れる。
「おまえ、何やつてんの」
カズハの仏頂面。
白い壁面。白い床。━━病院。
治療の見学と実習日だった。
エリサもカズハも、魔法による身体のケアや、心理面のケアのための講義を主に受けている。
一概に魔法学園といっても、進路はいろいろだ。
カズハはお年寄りに受けがいい。すぐに仲良くなってしまって、話し込んでいた。それは覚えている。
だけど━━気づいたら、ヒサカのことが頭に浮かんで離れなくて……
「えぇと、あたし、何してた?」
「もういい。これ、洗ってこい」
タオルを渡される。洗面所に向かう。
鏡を見つめる。
いつもどおりのエリサ。
「……あたしじゃない、あたし……」
その日は失敗の連続だった。
何もかもに集中できなかった。
ただでさえ、ミスの多いエリサなのに。
カズハに何度も怒られた。
「やあ」
校門のところに、ヒサカが立っている。
「一緒に帰らない?」
「君が水晶洞で見たのは、ゲート。時空の歪み」
寮までの送り道、ヒサカは語った。
「君にはそれを見る素質がある。時空の声が聞こえる。そうだろう?
僕もなんだ。ゲートがあるのは、何もあそこだけじゃない。
よく気をつけて見れば、案外いろんなところにあるんだ。見つけるのは大変だけどね。
あの向こうに何があるか、君には想像できる?」
ヒサカは笑んだ。無垢で皮肉で━━複雑な笑み。
「━━自由だよ。僕じゃない僕。君じゃない君。そうなれる、自由な世界。
物質と、汚れた精神。夢の見られない現実。終わらない僕ら」
首を横に振る。髪が揺れる。
「解放されたくないかい?」
慎重に言葉を選んで、エリサは言う。
━━引きづられそう。
「先輩が何をおっしゃっているのか、私にはよく……わかりません。
先輩はきっと、疲れていらっしゃるんです。
私は……」
「エリサ」
ヒサカの両手が、エリサの肩を掴む。
「僕を裏切る気? 君なら━━わかってくれると思ったのに」
ヒサカは本当に悲しそうに笑んだ。
そして、とても怖い目で、エリサを見た。
「じゃあ、なんで君にはゲートが見れるのかなぁ?
なんで僕の前に現れたのかなぁ?
僕に期待させるだけさせて、逃げるんだ?」
同調しそうになる。
ヒサカはおかしい。
そう言いきってしまえ。
そう言いきることが━━
できないエリサがいる。
……あたしは何もできない。
あたしはあたしが嫌いだ。
誰もあたしを愛してくれない。
未来なんて。
あたしを必要としていない。
……ネガティヴな思考を、ヒサカの目は肯定する。
とても心地よい。
彼はすべてをわかってくれる。
どんな汚い言葉を吐いても。
どんな醜いエリサでも。
ヒサカは抱きしめてくれる。
ヒサカの手が、エリサの顎に伸びる。
このキスを受け入れれば、彼と一つになれば……
あのゲートの向こう側に行けたら。
エリサは微笑む。
……そうしたら。
もう。なんにも……
「……リサ」
ヒサカの唇が触れる寸前、呆然としたカズハの声がした。
瞳を揺らし、カズハは信じられないように二人を見つめている。
「エリサ……」
彼の瞳がエリサから離れる。
「わり……邪魔した……」
足音が遠ざかる。
「……ふーん……」
無感動に、ヒサカが呟く。
「生気に溢れた、陽の神の加護を一身に集めたような少年だね。……」
ヒサカの瞳はしばらく、カズハの去っていったほうを追っていた。




