第5話 「あいつは、俺たちより先に、俺たちを見てた」【康介視点】
同窓会翌日の夜。午後10時。
それから何時間経っただろう。気づけば、外は完全に暗くなっていた。
外は雨。さっきまで降っていなかったのにいつの間にか強くなっている。雨音が不規則なリズムを刻む。時々、雷鳴が聞こえる。遠くの方で。
教室に六人。全員がここにいる。それぞれが、同じ空席を見ている。
「ねえ」
沙織。
「私たち、何してるんだろう」
誰も答えない。康介は窓枠に寄りかかりコーヒーカップを両手で包む。カップの温度が、手のひらから伝わる。
「ずっとここにいるね」
「それが答えなんじゃないか」
拓。
「答え?」
「あのノートがまだここにある。それで終われない」
後ろの席のノート。開かれたままのページに。
『もうすぐ、すべてが整う』
さっきまでなかった。誰も開いていない。でも、開いている。
「これ、さっき書かれた?」
瞳。
「いや。でもさっきまでなかった」
康介。彼はコーヒーを一口飲んだ。冷めている。いつからここにあったか、わからない。
その時、Eが言う。
「私たち、誰かに見られてる」
瞳の声が少し尖った。彼女は自分の腕を抱いている。
「あの『誰か』に?」
「うん。でも――もしかしたらそれ、私たち自身かも」
「どういうこと?」
瞳。
「見られてるから、見てる誰かがいる。逆もそう」
「つまり――」
「見てるから、いることになる」
純が言った。彼女はノートを手に取っていた。いつから持っていたのか。
康介はその言葉を頭の中で反芻する。見てるからいる――自分たちが「誰か」を存在させた。見られる不安から逃れるために。それは、自分のやってきた「最適化」と同じだ。最適を選ぶことが、誰かを切り捨てることと同じように。
その時、教室の電気が消えた。一瞬の暗闇。すぐ戻る。その一瞬に何かが変わった。空気の匂い。温度。湿度。すべてが、ほんの少しだけ違う。
後ろの席に誰かが座っている。全員が見た。顔は見えない。でも確かにそこに「いる」。呼吸をしている。心臓が動いている。生きている。
沙織のスケッチブックを握る指が白くなる。鉛筆の芯が折れる音がした。
「……見た?」
沙織の震える声。全員がうなずく。うなずかずにはいられなかった。
「誰だった?」
「わからない。でも――」
拓。彼は立ち上がっていた。いつから立っていたのか。
「あいつだ。ずっと見てたあいつ」
次の瞬間には誰もいない。空気だけが震える。その震えが、波のように広がっていく。
その時、沙織が自分のスマホをテーブルに置く。カメラアプリが起動したまま画面は砂嵐。ノイズの中に一瞬だけ誰かの輪郭が浮かび、崩れるように消えた。
「……消えた」
沙織。彼女はスマホを手に取った。画面は真っ暗。でも、バッテリーは十分にある。
純のスマホが震える。グループLINE。担任から。送信時刻は、今。
『もう言ってもいいかな』
『あの日のこと』
『写真を撮ったのは――』
途切れる。メッセージが途中で切れている。エラーか。それとも――。
その時、後ろの席のノートがひとりでに開く。ページが風もなくめくれる。
『写真を撮ったのは私』
『でも私はあなたたちが作り出した』
『見られる不安から逃れるために』
『無意識に生み出したもう一人の』
全員が読む。文字が浮かんでは消える。点滅している。
「私たちが……作り出した?」
瞳の声がかすれる。彼女は自分の口元を押さえていた。
「そういうことか」
康介の声は低く確信に満ちていた。そしてどこか突き放した響きがあった。
「あの日、誰かに見られてる気がした。その『誰か』を無意識に設定した。見られる側から見る側に回るために」
「じゃああの『誰か』は――」
「実体のないただの『視線』だった」
E。
「でもそれを『誰か』と思い込んだから『誰か』になった」
「見てるから、いる」
純が繰り返す。彼女はノートを開いたまま、指で文字をなぞっている。
ノートがまた開く。違うページ。
『そう』
『私は最初ただの「気配」』
『でもあなたたちが「誰か」と思った』
『語りかけた』
『書いた』
『だから私は「ここ」にいる』
沙織が顔を上げる。彼女の目には涙が溜まっていた。でも、泣いていない。
「私たちが書いたの?」
『いいえ』
『でも私の言葉はあなたたちの中にあった』
『私は鏡』
その瞬間、教室の空気が震えた。雨音が一瞬止んだように聞こえた。雷鳴も止んだ。
「……私たちは自分の怖いものを見ていた」
拓。
「見られる不安から逃れるために見る側を作った。でもその見る側に見られるようになった」
「それって――」
「永遠のループだな……」
康介が小さく息を吐いた。彼はコーヒーカップを置いた。カップの底に、ほんの少しだけコーヒーの染みが残っている。
純が立ち上がる。彼女の動きはゆっくりだった。でも、確かだった。
「でも終わらせられる」
「どうやって?」
「見るのをやめる」
純がノートを手に取る。両手で抱えるように。
「私たちが見るのをやめれば、あいつは見られるのをやめる」
『それは――』
ノートに文字が浮かぶ。いつもより大きい文字。
『私が消えること』
「うん。でもあなたは最初から消えるためにここにいた」
長い沈黙。雨音だけが聞こえる。時計の秒針の音も。
ノートの文字がゆっくり書き換わる。書き直している。何度も。
『……そうかも』
『あなたたちが「もう大丈夫」と思った瞬間に消えるようにできてた』
「じゃあ――」
沙織。彼女はスケッチブックを閉じた。
「私たち、もう大丈夫なの?」
誰も答えない。その時、拓が窓の外を見る。雨が止んでいた。雲の切れ間から星。一つだけ、とても明るい星。
「もう大丈夫なんじゃないか」
呟きが落ちる。誰も反論しなかった。
ノートが最後のページを開く。紙が擦れる音がした。
『さようなら』
『でもまた』
『あなたたちが不安を感じたとき』
『どこかに』
『その時はまた』
文字が薄れていく。インクが吸い込まれていく。
『よろしく』
完全に消えた。純がノートを閉じる。その音がやけに大きく響いた。
「忘れてもいいんじゃないか」
拓。
「あいつのこと。私たちはもう大丈夫だから」
誰もうなずかない。でも誰も反対しなかった。康介はそっとコーヒーカップを置く。底にほんの少し染みが残っている。それは、消えなかった。
外は雨が上がっていた。星が瞬いている。その光のどこかにあの「誰か」がいる気がした。でももう怖くなかった。ただ、少しだけ寂しかった。




