第3話 「37人目の記憶」【E視点】
同窓会翌日の朝。雨は上がったが空はどんよりと曇っている。校庭の土は濡れて、ところどころ水たまりができている。
Eは一人で教室に来ていた。Eもあのノートが気になって仕方なかった。
昨夜も夢に見た。あの喫茶店の夢。誰も話さない、完璧に調和した空間。目が覚めると、ノートが開いていた。
教室の鍵は開いていた。担任が忘れていったのか、それとも――。
自分の席に座る。窓側の前から二番目。拓の隣。そこから見える後ろの席。ノートが机の上にある。昨日と違う場所に置かれている。誰かが触ったのか。
開く。
『私は、ずっとここにいた』『まだ、決まっていない』『コート、忘れてるよ』『また来るよ』『まだ、思い出さないで』『あなたたちは、まだここにいる』
ページをめくるたびに文字の配置が変わっている気がする。誰かが並べ替えている。でも、そんなはずはない。
「E?」
純が立っていた。彼女は先に来ていたようだ。目が少し赤い。よく眠れなかったのだろう。
「純も」
「うん。なんとなく」
純が後ろの席に座る。その隣の空席がやけに目立つ。そこだけ、日の当たり方が違う。光が避けているように見える。
その時、拓、康介、瞳、沙織が次々に入ってくる。「午前中に来て」としか伝えていない。なのに、なぜか全員が同じ時間に来た。
「みんな考えること同じだな」
康介の苦笑。
「同窓会昨日で終わったはずなのに」
瞳。でも誰も帰らない。ただ、それぞれの席に座る。
「担任は?」
沙織。
「来てない。連絡もない」
E。
沙織がスマホで卒業アルバムのデータを開く。昨日は気づかなかったが、データの更新日が今日になっている。誰かがアクセスした。
「これ見て」
クラス全員の写真と名前。拓、瞳、康介、沙織、E、純――他に30人。担任を入れて37人。
でも――
「この人、誰?」
沙織が一人の生徒を指す。名前は表示されているのに読もうとすると頭に入ってこない。まるで、その名前だけが「読めない」ように加工されている。
「読みにくい」
康介。
「ぼやけてる?」
「いや、文字ははっきりしてる。でも――」
「覚えがない」
拓が続ける。彼は写真から目を離せないでいる。
その時、Eの背筋が冷たくなる。その生徒の写真の背景。そこに写っているのは、非常階段だった。三人の影。そのうちの一人は、自分かもしれない。
「……これ」
「知ってるの?」
Eは間を置いた。言葉を選んでいる。でも、適切な言葉が見つからない。
「あの時――非常階段にいた人じゃないかな」
視線が集まる。六人の視線が、一枚の写真に集中する。
「あの日、渡り廊下から見た三人の影。拓と瞳と私。三人のはずだった。でも写真を撮った人がいる。その四人目が――」
「この人?」
沙織。
「わからない。でも、なんとなく」
純が提案する。
「あの日のこと、話してみない? それぞれ何を覚えてるか」
拓がうなずく。彼は窓の外を見ていたが、ゆっくりとこちらを向いた。
「俺は瞳と話してた。何の話かは……覚えてない。でも楽しかった」
「私は拓と話してた。でも――」
瞳の声が沈む。彼女は机の端を指でなぞっている。
「誰かに見られてる気がした」
「私も」
E。
「渡り廊下から見てた。二人が楽しそうに。でも私も誰かに見られてる気がした」
「つまり――」
康介。彼は立ち上がり、黒板の前に歩いていった。チョークの粉が、まだ少し残っている。
「見ている側も見られていた。四人目がいた」
その時、全員が気づく。六人の記憶が同じ部分だけ鮮明に一致している。楽しかったという感情。誰かに見られていたという感覚。でも肝心の「何を話したか」は誰も覚えていない。空白だけが、そこにある。
「おかしい」
沙織。彼女はスケッチブックを開き、何かを描き始めた。でも、途中で止める。
「私たち、同じことだけ覚えてる」
「それがおかしいんだ」
康介。彼は黒板に「37」と書いた。そして、消した。
その時、純のスマホが震える。グループLINE。担任から。送信時刻は、今朝の5時。誰も気づいていなかった。
『37人目、思い出したよ』
純が顔を上げる。彼女の顔色が悪い。
「先生から『37人目、思い出したよ』って」
その瞬間、教室の空気が変わった。窓が風もなく軋む。後ろの席のノートがひとりでに開く。ページがめくれる音が、やけに大きく聞こえた。
『まだ、思い出さないで』
文字が浮かび、すぐに消える。沙織のスケッチブックを握る手に力が入る。鉛筆の芯が折れた。
「……今の、見た?」
沙織の声が震える。全員がうなずく。見なかったことにはできなかった。ノートは閉じられている。でも、開いていたページだけ、少しだけ温かい。
「担任に聞いてみない?」
E。
「でもノートに『まだ』って――」
「それでも。知りたくない?」
長い沈黙の後、拓がうなずく。彼は深く息を吸った。
純が電話をかける。コール音。出ない。もう一度。出ない。三度目。留守番電話に切り替わる。
「ダメだ」
その時、もう一通。送信時刻は、たった今。
『やっぱりなんでもない。忘れてください』
純がメッセージを見つめる。画面が、一瞬だけ暗くなった。気のせいか。
「先生、何か知ってる」
「でも言えない」
拓。
「なぜ?」
「言ったら何かが変わるから」
その夜、Eは自室でノートを開く。『まだ、思い出さないで』は消えている。でもかすかに跡が残る。鉛筆でなぞると別の文字。
『あなたたちは、まだここにいる』
その下に『37』。数字だけ。その数字は、誰かの年齢のようにも見えた。でも、違う。クラスの人数。でも、それも違う。
Eはノートを閉じた。窓の外で三月の雨が降り始めていた。雨音が、誰かの足音のように聞こえた。




