第2話 「コートの持ち主」【沙織視点】
一次会を終えると、六人は近くの居酒屋へ向かった。
個室ではないが六人だけでは広すぎる。その広さが誰にとっても気になっていた。隣の席との距離が、やけに遠い。話し声が、壁に吸い込まれるように消える。
「田中さんは来ないの?」
沙織がメニューを見ながら言う。
「あの後カフェにも来なくなったよね」
康介。彼は最初からお茶を注文していた。アルコールはあまり強くない。
「連絡先知ってる?」
「知ってるけど、なんとなく誘いづらい」
「わかる」
瞳がうなずく。彼女は梅酒をロックで頼んでいた。
「あの頃、いろいろあったね」
「あったね」
Eはそれ以上続けなかった。彼女はレモンサワーをちびちび飲んでいる。あまり飲まなそうタイプに見えたが、これも10年という月日なのだろう。
沙織はスケッチブックを開き、無意識に純の横顔を描き始める。線が走る。鉛筆の音だけが小さく響く。他の客の笑い声が遠くに聞こえる。
その時、Eが口を開いた。酔いのせいか、いつもより声が大きい。
「ねえ、あの後ろの席のこと覚えてる?」
全員の手が止まる。沙織の鉛筆も止まった。
「どの席?」
拓。
「一番後ろの窓際。誰も座らなかった席」
「空席だったんじゃない?」
沙織。
「うん。空席だった。でも――」
Eの指がコーヒーカップの縁をなぞる。乾いた音がする。
「なんとなく、誰か座ってる気がしなかった?」
沈黙。康介がやや間を置いて言う。
「……気のせいだろ」
彼はそう言いながら、無意識に後ろを見ていた。
「そうかな」
Eは追及しない。でもその「気のせい」を誰も完全には信じていなかった。
二次会も終わりに近づいた頃、誰かが「写真撮ろう」と言った。沙織がスマホを取り出し、六人で集まって一枚撮る。壁際のハンガーラックを背に、並んで笑う。シャッター音がやけに大きく響いた。
店を出る。三月の夜風はまだ冷たい。沙織はコートの襟を立てた。
「駅まで一緒に?」
沙織。
「うん」
拓がうなずく。彼は手をポケットに入れ、空を見上げた。星は一つも見えない。
六人で歩き出す。十年ぶりの通学路。コンビニが増えていた。昔あった本屋はなくなっていた。
「変わったね」
瞳が呟く。彼女は道端の植え込みを見ている。昔、そこで野良猫を見かけたと言った。
「変わってないとこもある」
康介が言いかけて足を止める。
「どうした?」
「……いや」
康介の視線は道向かいの小さな喫茶店に向いている。灯りは消えている。でも、なぜか開いているような気配があった。
「あそこ、昔からあった?」
「知らない」
沙織。
「行ってみる?」
自然と足が向く。誰も反対しなかった。だがその喫茶店の前に立った瞬間、全員が違和感を覚えた。看板の文字は読めるのに、頭に入ってこない。まるで、別の言語で書かれているかのようだった。
「……閉まってる」
「そうみたい」
瞳。
ただ閉まっているだけではない。何かが違う。空気の重さが、店内と店外で違う。まるで、誰もいないのに誰かがいるような。
沙織はその文字の筆跡に見覚えがあった。あのノートの文字に似ている。でも気のせいだろう。そう思いたかった。
「変な感じ」
E。
「戻ろう」
拓の声で引き返す。誰も振り返らなかった。
駅。それぞれの電車の時間が近い。改札の前で、六人はばらばらになった。
「また」
「またね」
手を振って別れる。その手の振り方も、十年前と同じだった。
純は一人ホームに残る。次の電車までまだ時間がある。ベンチに座り、バッグを探る。あのノートがなぜか入っている。しまった覚えはないのに。
開く。
『私は、ずっとここにいた』
『そして――まだ、決まっていない』
一枚だけ折り目のあるページがあった。そこだけ、紙の色が少し違う。
『コート、忘れてるよ』
純は自分のコートを見る。確かに着ている。では誰のコートか。
その時、スマホが震える。グループLINEに沙織から写真。二次会で撮ったあの写真だ。
『これ、誰の?』
純が写真を見る。六人が笑っている。その後ろ、壁際のハンガーラック。そこに見覚えのないコートが掛かっている。こんなコート、誰か着てきていたっけ?
誰も「自分のだ」と言わない。既読はつくのに、誰も返事をしない。
純が写真を拡大する。コートのポケットから紙切れが覗いている。
『また来るよ』
筆跡は誰のものでもない。でも、どこかで見たことがある。あのノートの文字に似ている。いや、違う。もっと古い。もっと懐かしい。
電車が来る。純が立ち上がりノートをしまう。その時、ホームの向こう側に誰かが立っている気配。振り返る。誰もいない。でも「いた」という感覚だけが冷たい風の中に残る。その場に、体温のようなものが残っていた。
電車の窓からホームの端を見る。見覚えのあるコートを着た誰かが立っている――気のせいだ。そう思いたかった。でもその「気のせい」を、もう誰も信じていなかった。電車が動き出し、ホームの灯りが流れていく。その中に、一瞬だけ誰かの影が見えた気がした。
その夜、純はグループLINEにメッセージを送った。
「明日、みんな休みだよね。もう一度教室に集まれない?。あの写真とノートのことが、どうしても気になる。」
全員から「わかった」と返事があった。




