第1話 「十年ぶりの、あの席」【純視点】
卒業から十年。三月の終わり。
同窓会のため、あの六人はあの教室に集まった。
窓の向こうのフェンスは錆び、桜の木は前よりずっと大きく見える。傷だらけの机、ひび割れた黒板、緩んだ掃除ロッカーの取っ手――どれも記憶のまま。ただ、すべてが少しだけ小さくなっていた。自分たちが大きくなったからか。それとも、何かが欠けたからか。
「やっぱり狭い」
拓が最初にそう言って入ってきた。彼はいつものように、窓際の自分の席を探している。
窓際の席に座る沙織が振り返る。スケッチブックは持っていない。代わりにスマホのカメラで教室内を何度も撮っている。シャッター音がやけに大きく響く。
「背、伸びてないのにね」
「大人になったってことだ」
康介が後ろから入る。スーツのネクタイは少し緩められている。彼は入り口で一瞬立ち止まり、教室全体を見渡した。何かを確認するように。
「仕事終わり直行」
「お疲れ」
瞳が手を振る。彼女は入り口付近に立ち、教室をゆっくり見渡している。探し物をしているような、でもそれが何かわからないような目。その視線は、自然と一番後ろの窓際に向かっていた。
Eは奥の席。本は開いていない。ただ窓の外をぼんやり見ている。雨上がりの校庭。フェンスの向こうに、誰かが立っているような気もするが、二度見すると誰もいない。
純は一番後ろの席にバッグを置き、腰を下ろした。あの日、ノートが置かれていた席。誰も座らなかった席。机の表面を指でなぞる。傷ひとつない。使われた形跡がない。まるで、最初から誰も座ることを想定していなかったかのように。
「担任は?」
拓が聞く。
「あとで来るって。用事があるから遅れるって」
沙織が答える。彼女はスマホを置き、今度は自分の手で教室の空気を確かめるように手を広げた。
「相変わらず」
康介が小さく笑う。その笑顔は、十年の時を経ても変わらない。でも、どこかぎこちない。
担任が現れた。白髪は増えたが背筋は昔のまま。入ってくるなり、教室を見渡して目を細めた。
「おお、集まったか。――あれ、まだ一人足りないな」
担任が出席簿を開く仕草をする。
「六人、全員いますけど」
瞳が言う。その声は少しだけ尖っていた。
「いや、そうじゃなくて――」
担任が言葉を止める。もう一度教室を見渡す。誰かを数えるように。その視線が一瞬、純の隣の空席に止まった。
「……気のせいか。すまん」
間。その間の重さが、何かを語っていた。担任はそれ以上何も言わず、皆と同じ生徒席に座って近況を話し始めた。でも、その目は時折、あの空席に向いていた。
しばらくして、担任が帰った。
教室には六人だけ。
沙織が窓枠に寄りかかる。カーテンの端を指で弄びながら。
「さっきの先生の『まだ一人足りない』」
「六人で全員だよ」
康介。彼はスマホで何かを確認している。でも、画面はロック画面のまま。何も見ていない。
「うん。でも先生は『一人足りない』顔してた」
その時、拓が後ろの席を見る。純の席の隣。誰も座っていない席が一つ。そこだけ、空気の密度が違う気がした。
「あそこ、誰の席だったっけ」
六人の視線が空席に集まる。沙織が小首を傾げる。その動作は、彼女が描くときの癖と同じだった。
「……ずっと空席じゃなかった?」
「違う」
瞳の声が少しだけ尖る。彼女は自分の席に座らず、立ったまま空席を見つめている。
「誰か座ってた気がする」
「誰?」
康介。彼はスマホをしまい、両腕を組んだ。
「……思い出せない」
Eの声が小さく落ちる。彼女は本を開きかけて、また閉じた。
「でも、いるはず。あそこに、誰か」
純は何も言わない。空席の温度を感じ取ろうとしている。そこだけ、ほんの少しだけ冷たい。誰も座っていないのに、なぜか。
その時、沙織が黒板の下に置かれたクラス写真に気づく。担任の忘れ物だろう。埃をかぶっている。長い間、そこに置かれていたようだ。
手に取り、皆に見せる。
そこには教室の中を写した生徒と担任が写っている。6列✕6番と1つ。
「……37人?」
拓が言う。彼は窓から離れ、写真を覗き込んだ。
数える。拓、瞳、康介、沙織、E、純―――。
「何組だったっけ」
「3年C組」
「何人だった?」
「……37人」
担任の声が頭の中で蘇る。その声は、なぜか遠くから聞こえてくるようだった。
『37人だったはずだけど……』
沙織が写真の後ろ席の列を指でなぞる。指が震えている。
一番端――
指が止まる。
そこには誰も写っていない。ただ席だけがある。その空席に、かすかに影のようなものが写り込んでいる。誰かの背中。でも、はっきりとは見えない。影の形が、沙織には見覚えのある喫茶店のマスターの背中に似ている気がした。でもそんなはずはない。その考えを打ち消す。
「これ……」
誰も言葉を失う。写真を見つめる六人の息が、ひとつになった。
その時、後ろの席で風もなくノートのページがめくれる音。
全員が振り返る。
誰もいない。机の上に一冊のノートが置かれている。表紙は無地。でも、そこだけ時間が止まっているような静けさがあった。
純が立ち上がり、近づく。自分の席から空席まで、たった数歩。その距離がやけに長く感じられた。手に取る。開く。
最初のページ。
『私は、ずっとここにいた』
その下。
『そして――まだ、決まっていない』
字は丁寧だった。誰かの筆跡。でも、誰のものかはわからない。
純がノートを閉じる。その音がやけに大きく響いた。
「……これ、私が預かってたノート」
「え?」
「卒業式の後、この教室の置き忘れ。でも――」
もう一度開く。
「最後のページ、白紙だったはずなのに」
そこには文字があった。
『あなたが読んだ瞬間、この物語は完成する』
『でも――』
そこで途切れている。
純が顔を上げる。教室を見渡す。窓。黒板。机。誰もいない。
「……誰が書いた?」
誰も答えない。拓は窓の外を見たまま、コーヒーカップを両手で包んでいる。指先が白くなっている。
「いるんだな」
拓の呟きが空気に落ちる。誰も否定しなかった。
前夜、純は夢を見た。知らない喫茶店。窓際に並ぶ見覚えのある背中たち。誰も話さない。ひどく静かで、完璧に調和している。その異様さに純は目を覚ました。枕元にはあのノート。開いていたはずのページは、閉じられていた。
夢のことは誰にも話さなかった。
※第二章(完結編・同窓会)
『――同窓会の夜、まだ決まっていないこと』
6話+エピローグで完結です。
最後まで、お付き合いください。




