元教え子×教師
「先生、久しぶり」
休日の街で声をかけてきたのは、数年ぶりに会う元教え子の攻めだった。
高校教師である受けを見下ろすほど背が伸びて、すっかり大人の顔をしている。
「……でかくなったな」
「再会の第一声それ?」
在学中のこの男は、とにかく人懐っこい生徒だった。
休み時間になれば職員室に顔を出し、廊下ですれ違えば先生、先生と寄ってくる。
犬の尻尾でも生えていそうな懐き方だったのを、受けはよく覚えている。
その面影は、たしかに残っていた。
けれど、笑ったときの目もとは記憶よりずっと落ち着いていて、肩幅も、腕の太さも、声の低さも、あのころとはまるで違う。
見上げなければ目が合わないのが、どうにも据わりが悪かった。
「せっかくだし、飯でも行きません?」
そう誘われて入った店で、受けは思いのほか長く話し込んだ。
卒業してからのこと。
仕事のこと。
同級生の近況。
担任と生徒だった関係が、いつのまにか、ただの二人の男の会話になっている。
それが再会のきっかけだった。
以来、この元教え子はちょくちょく受けを誘ってくるようになった。
「先生、土曜空いてる?」
「空いてるけど」
「じゃあデートしよ」
「食事だろ」
「はいはい」
受けは軽く流す。
昔から懐かれていた、その延長だと思っていたからだ。
けれど攻めは、会うたびに少しずつ距離を詰めてきた。
恋人はいるのかと聞いてくる。
好きな店の系統を探ってくる。
会計のときにさりげなく背へ手を添えて、冗談めかして口説いてくる。
そのたびに受けは、生徒のいたずらを受け流すような顔をしてみせた。
そんなある日のことだった。
「こないだ同僚に言われたよ。あの人、恋人ですかって」
食事の席で何気なくそう話すと、攻めは箸を止めた。
「へえ。なんて答えたの」
「まさか、元教え子だよって言っといた」
ふ、と笑う気配がした。
「先生ってさ」
グラスを置いて、こちらを見る。
「いつまで俺のこと、生徒だと思ってるの?」
「実際、生徒だっただろ」
「昔はね」
すっと、距離が詰められた。
テーブル越しに身を乗り出されて、影が落ちる。
あの日と同じだ。
見上げなければ、目が合わない。
「今の俺、ちゃんと見てよ」
低い声だった。
受けは、とっさに言葉が出てこなかった。
その一瞬の沈黙を、攻めは見逃さない。
ゆっくりと身を引きながら、それはもう満足そうに笑った。
「やっと意識した?」
「……生意気になったな、おまえ」
それ以来、受けは少しだけこの男を意識するようになった。
もちろん、認める気などない。
そんな折の、いつもの食事だった。
その日は妙に酒が進んだ。
話しているうちに時間を忘れて、店を出るころには二人ともいい具合に酔っていた。
夜風が涼しい。
並んで歩く肩が、何度も触れる。
「先生。俺のこと、意識してるでしょ」
「してない」
「うそだ」
「元教え子相手に、何を意識するんだよ」
「またそれ?」
笑いながら、腕を掴まれた。
酔いのせいか、振りほどく力が入らない。
街灯の下で顔を覗き込まれて、受けはようやく気づいた。
この男の目が、まったく笑っていない。
「……先生」
呼ばれた声が、いつもより掠れていた。
近づいてくる。
逃げようと思えば逃げられるはずの、ゆっくりとした距離の詰め方だった。
唇が重なる。
驚くほど、やさしかった。
一度離れて、額を合わせたまま、攻めは小さく笑う。
「怒らないんだ」
「……酔ってるからな」
「じゃあ、俺んち来て」
――は?思考が追いつかないうちに手を引かれて、気づけばタクシーに乗せられていた。
え、ちょっと待て。
いや待て、本気か。
隣に座る男の横顔を盗み見る。
冗談を言っている顔ではない。
それどころか、繋いだままの手にじわりと力がこもった。
止めるなら今だ。
教師として、常識として、いくらでも言葉はある。
――なのに、口が動かなかった。
連れていかれた部屋の玄関で、靴を脱ぐより早く、背中から抱きすくめられた。
「……おいっ」
「ちょっとだけ。落ち着かせて」
首すじに額を押しつけられる。
腕の力は強いのに、その体温がかすかに震えているのがわかった。
この男でも緊張するのか。
そう思った瞬間、自分の心臓のほうが、ずっとうるさく鳴りはじめた。
「なあ、本気で言ってるのか」
「本気じゃなかったら、家まで連れてこないよ」
「……相手、俺だぞ。おまえの担任だった男だぞ」
「知ってる」
耳の裏に、低い声が落ちる。
「その先生が好きなんだって、ずっと言ってるんだけど」
――ずるい。
こんな声で言うようになったのは、いつからだ。
あんなに高い声で先生先生と呼んでいた子どもが、どうしてこんな。
寝室へ連れ込まれても、受けはまだ抵抗を続けていた。
「待て、本当に待て。おまえ、酔ってるだけだろ」
「酔ってない」
「明日になったら絶対後悔するぞ。俺は元担任で、しかも男で――」
「先生」
呼ばれて、口をつぐむ。
ベッドの縁に座らされた受けの前に、攻めは膝をついた。
見上げてくる目が、灯りの下でまっすぐこちらを向いている。
「怖いなら、やめる」
「……っ」
「でも、嫌じゃないなら」
大きな手が、そっと受けの手を取った。
「今夜だけでいいから、生徒だったこと忘れて」
――ああ、まずい。
そんな顔をされたら、断れるわけがない。
言葉が出ないまま、受けはただ小さく息を吐いた。
それが答えだと、この男にはきっと伝わってしまう。
案の定、攻めはふ、と笑って、そのまま覆いかぶさってきた。
「……あかり」
「ん?」
「せめて、消せ」
「やだ」
「なんでだよ!」
「ずっと見たかったから」
さらりと言われて、返す言葉をなくす。
ベッドに沈められた受けの頬を、大きな手が包んだ。
指の背でゆっくり輪郭をなぞられて、そのまま親指が唇に触れる。
焦れったいくらい、丁寧な触れ方だった。
「先生、緊張してる?」
「……してない」
「心臓、すごいけど」
「うるさい」
顔を背けようとしたら、こめかみにくちづけが落ちてきた。
それから目尻に、頬に、顎の下に。
順番に確かめるように唇が下りていく。
そのたびに、頭の芯が痺れていく。
まずい。
相手は教え子だ。
そう思うのに、覆いかぶさってくる体の重さも、シャツ越しに伝わる熱も、どうしようもなく男のもので。
「高校のとき」
ボタンにかかった手が、途中で止まる。
「先生に怒られるたび、こうなったらいいのにって思ってた」
「……最低な生徒だな」
「うん。だから、卒業まで我慢した」
そう言って笑う顔が、あんまり幸せそうで。
受けはとうとう、腕で顔を隠した。
隠したそばから、その手をやんわり外される。
「隠さないで」
「……見るなって言ってるだろ」
「無理。せっかく大人になったのに」
指を絡めて、シーツの上でぎゅっと握られた。
その手が、記憶の中のものとは比べものにならないほど大きくて。
あのころ廊下で袖を引いてきた手と同じだとは、とても思えない。
「あのさ」
耳もとで、囁くように言われる。
「今夜は、名前で呼んでいい?」
「……は?」
「先生って呼ぶの、今夜だけはやめたい」
答える前に、掠れた声で名前を呼ばれた。
心臓が、跳ねる。
十年近く「先生」としか呼ばれてこなかったのに。
同じ声が自分の名前を形にするだけで、こんなにも落ち着かなくなるとは思わなかった。
「な……っ、勝手に決めるな」
「だめ?」
「……だめとは言ってない」
もう一度、名前を呼ばれる。
抱きしめる腕に、力がこもった。
そのあとのことは、酒のせいにするには、あまりに鮮明に覚えている。
翌朝。
目を覚ました受けは、隣で眠る男をぼんやりと眺めていた。
寝顔には、たしかに高校時代の面影がある。
あのころと同じ、無防備で子どもみたいな顔。
けれど、シーツからはみ出した肩の広さも、いまだに自分の手を握ったままの大きな手も、そして昨夜のあれこれも、記憶の中の少年とはまるで違った。
――こんなに大人になってたんだな。
しみじみとそんなことを考えて、受けは自分で自分の頭を抱えた。
教師の感慨を抱く場面ではない。
断じてない。
そして問題は、そのあとだった。
一度「大人の男」として認識してしまったせいで、以前のように接することができなくなったのだ。
食事中に顔を近づけられるだけで、心臓が跳ねる。
肩に触れられれば、あの夜の腕の熱を思い出す。
そして当然、この男がそれを見逃すはずもなかった。
「先生、最近俺のこと避けてない?」
「避けてない」
「じゃあ今日もデートしよ」
「だからデートじゃ――」
「その言い訳、もう無理じゃない?」
受けは、見事に詰まった。
攻めは声を立てて笑って、それから、ふいに真面目な顔になった。
「俺さ、次からは元教え子として誘わないから」
「……何?」
「ちゃんと男として口説く」
まっすぐな目だった。
教壇から見下ろしていたころには、一度も向けられたことのない目。
「嫌なら、断っていいよ」
そう言い残して、その日はあっさり帰っていく。
受けは、遠ざかる背中を見送りながら、熱くなった顔を片手で押さえた。
昔はあんなに可愛げのある生徒だった。
それがいつのまにか、自分を抱くような男になって。
そのうえ今度は、正面から口説くと宣言してくる。
――ずるいだろ、それは。
そして、数日後。
『先生、デートしよ』
当たり前のように、連絡が来た。
受けは画面を睨んだまま、たっぷり五分は迷って。
結局、断れなかった。




