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短編集  作者: さく
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隣人α×大学生Ω

大学に受かって、生まれて初めての一人暮らしを始めた。


その引っ越し初日である。


段ボールを抱えたまま階段の途中で力尽きていたところに、上から声が降ってきた。





「持つよ。それ、下は本?」





顔を上げると、背の高いアルファが立っていた。


長身を軽くかがめて、大学生が両手で抱えていた箱をひょいと片手で持ち上げる。


そのまま迷いなく階段を上がって、あっという間に部屋の前まで運んでしまった。





「隣の者です。何かあったら言って」





そう言って、静かに笑う。


――かっこよ……。


落ち着いた声。


余裕のある物腰。


自分の手には余った荷物を、なんでもない顔で運んでしまう腕。


こんな大人になりたい、と大学生は一発で憧れた。


とはいえ、その憧れとは裏腹に。


初めての一人暮らしは、失敗だらけだった。


初日の卵焼きを黒焦げにした。


洗濯機を回したら、白いシャツが全部きれいな水色になった。


そのたびに、隣の部屋の扉を叩いてしまう。





「焦がしました」


「火が強い。もっと弱くていい」


「シャツが青いです」


「色物と分けような」





アルファは呆れもせず、そのつど丁寧に教えてくれた。


ときには自分の部屋に招き入れて、実演までしてくれる。


大学生はすっかり懐いた。


用がなくても、隣へ行く口実を探すようになった。


その日も、休日の昼下がりだった。





「今日は、切るところからやってみようか」





アルファの部屋の狭いキッチンに、二人並んで立つ。


まな板の上のにんじんが、大学生の手の中で危なっかしく転がった。


持ち直そうとした指を、うしろから伸びてきた手がそっと包む。





「ほら。指はこう丸めて。猫の手」


「は、はい」


「切るときは押すんじゃなくて、引く」





背中に、体温がある。


耳のすぐそばで声がする。


息がかかるたび、包丁を持つ手に力が入らなくなっていく。





「……あの、近くないですか」


「教えてるんだから、仕方ないだろ」





そう言われて、思わず顔を上げた。


――近い。


想像していたより、ずっと近かった。


見上げた先で、アルファも同じようにこちらを見下ろしている。


目が合ったまま、どちらも動かない。


さっきまで普通に喋っていたはずなのに。


いつのまにか、部屋の空気が変わっていた。


換気扇の音だけがやけに大きく聞こえて、自分の心臓の音と混ざる。


アルファの手が、包丁からゆっくり離れた。


かわりに、大学生の頬に触れる。


大きくて、少しかさついた手だった。


親指が、頬をたどるようにゆっくり動く。





「……キスしていい?」





低い声だった。


頭が真っ白になる。


返事なんてできるはずもなくて、大学生はただ、こくりと小さく頷いた。


唇が、触れる。


一瞬だった。


ほんの数秒、やわらかいものが重なって、すぐに離れていく。


それなのに、頭のなかがそれでいっぱいになった。


憧れていた人に、キスをされた。


あの余裕のある大人が、自分に。





「……こういうの、初めて?」


「っ、そうです」


「そっか」





ふ、と笑う気配がした。





「じゃあ、もう少しだけ」





二度目は、さっきより長かった。


角度を変えられて、後頭部に手を添えられて。


ゆっくりと重ねられるたび、膝から力が抜けていく。


離れたときには、大学生はもうアルファの胸に額を預けていた。


顔が上げられない。


心臓がうるさすぎて、たぶん相手にも聞こえている。


それでも離れたくなくて、シャツの裾をきゅっと握った。


頭の上で、笑う気配。


大きな手が、髪をゆっくり撫でていく。


そのまま、耳もとで囁かれた。





「……もっと先のことも、教えてあげようか」





――え。


意味を理解するまでに、たっぷり三秒かかった。


理解した瞬間、顔から火が出そうになる。


つまり、この人と。


抱き合って、そういうことをするということで。


無理だ。


恥ずかしい。


心臓がもたない。


そう思っているのに。


大学生は、シャツを握ったまま、こくんと頷いてしまった。


火を止めて、手を引かれて、そのまま寝室へ連れていかれた。


カーテン越しに、午後の光がやわらかく差している。


ベッドに座らされて、初めて事の大きさが押し寄せてきた。





「……あの」


「うん」


「俺、何にも知らないんですけど」


「知ってる」





くすりと笑って、アルファはシャツのボタンに指をかけた。





「だから、教えるって言っただろ」





ひとつずつ外されていくたび、心臓が跳ねる。


あらわになった肌に空気が触れて、大学生はとっさに腕で胸もとを隠した。


その手を、やんわりとほどかれる。





「隠さないで。見せて」


「む、無理です」


「じゃあ、目だけ閉じてて」





言われたとおりに、ぎゅっと目をつぶった。


まぶたに、こめかみに、鎖骨に。


やわらかいものが順番に降ってくる。


そのたびに肩が跳ねて、そのたびに大丈夫かと確かめられた。


素肌が重なった瞬間、思わず声が漏れた。


熱い。


想像していたよりずっと熱くて、大きくて、逃げ場がない。





「怖い?」


「……ちょっと」


「じゃあ、ゆっくりやろうな」





その言葉のとおり、この人はどこまでも丁寧だった。


急がない。


強張ればすぐに止まる。


痛くないかと何度も聞いて、そのたびに髪を撫でてくれる。


まるで、料理を教わっていたときと同じだ。


ここはこう。


次はこうする。


焦らなくていい。


――ずるい。


そんなふうに教えられたら、なんだって受け入れてしまう。


ひとつになった瞬間は、少しだけ痛かった。


けれど、堪えるように息を詰めたアルファの顔を見上げた瞬間、その痛みすらどうでもよくなった。


いつも余裕たっぷりのこの人が、自分ひとりでこんな顔をしている。





「……大丈夫か」


「……はい」


「よくできました」





こんなときにまで先生みたいなことを言うので、涙目のまま笑ってしまった。


名前を呼ばれるたび、頭の芯がとろけていく。


気づけば大学生は、しがみつくようにその背中に腕を回していた。


短いまどろみから引き上げられたとき、部屋はもう夕焼けの色をしていた。





「起きた?」





汗ばんだ前髪を、大きな手が横に流してくれる。


その顔をまともに見られなくて、大学生はシーツを口もとまで引き上げた。


数時間前まで、この人とにんじんを切っていたはずなのに。





「……にんじん」


「ん?」


「途中でした」


「ああ」





アルファは声を上げて笑った。





「じゃあ、続きやるか。腹減っただろ」





借りた部屋着はぶかぶかで、袖が指先まで隠れた。


二人でキッチンに立って、放り出したままだった野菜を切って、なんとか出来上がった料理を向かい合って食べる。


ついさっきまであんなことをしていた相手と、湯気の立つ皿を挟んでいるのが、どうにも現実離れしていた。





「うまい」


「……俺、切っただけですけど」


「切れるようになっただろ。上出来」





食器を洗って、テレビをつけて、なんとなく並んで座って。


気づけば、大学生は隣に寄りかかったまま船を漕いでいた。





「……帰ります」


「そんな顔で帰すわけないだろ」


「いや、でも」


「泊まっていけ」





肩を抱かれて、寝室へ戻される。


抗議しようと思ったのに、腕の中があまりに温かくて。


結局、五分ももたずに眠ってしまった。


――そして、翌朝。


まぶたを開けた大学生は、しばらく天井を見つめて固まっていた。


……天井の模様が、自分の部屋と違う。


隣で、規則正しい寝息が聞こえる。


そろりと首を巡らせれば、あの人が眠っている。


無防備な寝顔と、シーツからのぞく素肌。


――やった。


――……やっちゃった。


――お隣の人と、やっちゃったうえに泊まった……!


大学生は布団を頭までかぶった。


嬉しい。


恥ずかしい。


昨日のことを少し思い出しただけで、顔から湯気が出そうになる。


憧れていた人と、あんなことになるなんて。


舞い上がっているのか後悔しているのか、自分でもよくわからない。


ただ、足の先まで落ち着かなかった。





「……おはよう」





寝起きの、掠れた声。





「…………おはようございます」


「なんでそんな端っこにいるの」





見れば、ベッドの端ぎりぎりまで避難していた。


もう少しで落ちる。





「いや、その……昨日……」


「うん」


「やっちゃったな、って……」





しばしの沈黙。


それから、くすっと笑う声がした。


大きな手が伸びてきて、布団ごと頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。





「可愛いなあ」


「今それ言わないでください!」


「本当のことだろ」


「もっと言わないで!」





真っ赤な顔で叫ぶ大学生を、アルファは楽しそうに眺めている。


それから、するりと腕を伸ばして、あっさり引き寄せてしまった。


一人暮らしを始めて、まだ半年。


料理も、洗濯も、ゴミの分別も、少しずつできるようになった。


そして憧れの隣人からは、予定になかったことまで教わってしまった。


――しかも。


腕の中で目を閉じながら、大学生は思う。


たぶん自分は、また教えてもらいたいと思っている。

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